第2話 招かれざる客
~ルイーズ~
「姫さま」
甘い口づけのあと、姫さまのその吸い込まれるような瞳に目を奪われつつも、私はふと現実に立ち戻った。
「……いくら霧の壁の内側とは言え、姫さまがわずかな護衛のみで外を出歩かれるのはあまり感心しませんよ」
私がそう言うと、姫さまは「もう。ルイーズまでキロンみたいなこと言うのね」と頬を膨らませる仕草をしてから、
「大丈夫よ。だってキロンは強いわ。魔物なんかに遅れはとらないでしょ。……それに私だってそこそこよ?」
挑戦的な眼でこちらを見上げる。
「おっと、これは失礼。おっしゃる通りでした」
私は肩を竦めてから、「お手上げ」のポーズで答えた。
姫さまは満足そうに「分かればよろしい」と笑ってから、
「それにこの辺りに魔物なんていないでしょ。貴方達のお陰様でね、軍事総長?」
「それもまたおっしゃる通りです、姫さま。霧の内側に魔物が出現すれば我々がただちに排除いたしますから」
私はそう苦笑した後で、真顔になって続けた。
「……でも、今は魔物だけではないのですよ、姫さま」
「?」
姫さまは小さく首を傾げて、話の続きを目で促した。
私はその様子を不思議に思いつつも、事実を伝える。
「ご存じないですか?近頃は人間が『寂寥の森』の近くに集落をつくったようです」
「軍事総長……!」
私が少しだけ声を潜めて言うと、突然背後からキロン将軍が慌てたような声を発した。
一方、姫さまはその大きく美しい瞳を好奇心でキラキラと輝かせる。
「え?ニンゲン?ニンゲンってあの……私たちと似た姿なのに動物と同じように血が赤いって言う、あの“人間”……!?」
「え、ええ、そうです。その人間ですよ、姫さま。……話していなかったのかい?キロン将軍」
もう一度キスをするのでは……というくらい顔を近づけて興奮気味の姫さまにちょっとだけ気圧されつつ、私は横目で彼女の背後の大男に視線を向ける。
キロンは憮然とした表情。
何も答えないが、その顔が私の問いを肯定していた。
「キロンはいつもそういうこと私には教えてくれないの。意地悪だから」
そう言って姫さまは後ろの大男をジトっと睨んだ。
「……意地悪をしている訳ではないと思いますよ、姫さま。キロン将軍には彼なりの考えがあってのことでしょう」
彼は無骨で不器用だが筋の通った男だ。
そして私と同じくらい、姫さまのことを大切に思っている。
口を尖らせる愛しい人の髪をそっと撫でてから、私は話を続けた。
「姫さま。私は国王陛下の命を受けて、この件を調査しに行っていたのですよ。……残念ながら、確かに彼らは霧の結界の中、『寂寥の森』のほど近い場所に人間の集落を築いていました」
私の言葉にキロンは微かに眉を顰め、ラーナとサーシャは「なんですって!」「前代未聞ですわね……」と困惑した表情を浮かべた。
しかし姫さまの反応は違った。
「ホント!?私、人間に会ってみたいわ!」
凄い勢いだった。
また瞳がキラキラと輝いている。
「え!?いや、姫さま。さすがにそれは……」
予想外の反応と食いつき方に、正直なところ私は困惑してしまった。
なにせ相手は“人間”。
可愛らしい小動物とかではないのだから……
——いや、しかし。
そういえば、この方はそう言う人だった。
とにかく好奇心の塊なのだ。
いくら外見が美しい女性へと成長を遂げていても、内面は少女のように素直で純粋無垢で、やや幼いところもある。
もちろん、そう言う面も含めて彼女の魅力であり、私はそこに強く魅かれたのだが。
「……だから話さなかったのです」
キロンが私に呆れた目を向け、溜め息をついた。
それから彼女の前へと進み出て、
「ダメに決まっているでしょう。何を言っているのです、姫様」
首を振ってきっぱりと断言する。
「いいですか。人間とは矮小だが残忍で狡猾な者どもです。いつでもどこでも同族同士で殺し合っている」
「別に、霧の中に入った人間達が今まさに殺し合ってるわけじゃないでしょう?それに私たちは彼らの同族ではないわ」
しかし、姫さまは引き下がらない。
「奴らは常に何かと争わずにはいられぬ強欲で野蛮な種族です。霧の外では、我らと近い系譜の者どもとも争いを繰り返していると聞きます」
「あら、それを言うなら私たちの近縁の中にだって、乱暴で好戦的な人も多いと聞いたことがあるわ。どちらかと言えば『ニヴルヘイム』の私たちのほうが変わっているのだとも」
姫さまがそう切り返すと、将軍は渋い顔をしてまた溜め息をついた。
「まったく、ああ言えばこう言う……少しは聞き分けてください。とにかく、人間を姫様に会わせるなんて絶対にできません」
「キロンの意地悪」
彼女はまた頬を膨らませてキロンを睨んだ。
「姫さま」
私は苦笑しつつも彼女を見つめなおして言った。
「……いずれにしても、私はこれから陛下にご報告に行かねばなりません。彼らの扱いをどうするかは、陛下と『円卓会議』で話し合って決めることになるでしょう」
「でも……」
それでも、姫さまは不満と不安が入り混じった幼い少女のような顔をした。
「そのニンゲンたちが、何か悪いことをしたの……?」
私はそれ以上、言うべき言葉が見当たらなかった。
少し迷った末、愛しいその人の頬にそっと手を触れる。
そしてその唇に、もう一度自身の唇を控えめに重ねた。
愛する人は、静かに目を閉じてそれを受け入れてくれた。
Ψ Ψ Ψ
時はわずかに遡る。
「ここは一体……?」
唐突に視界に光が飛び込む。
あまりの眩しさに、その黒髪の男は思わず目を細めた。
どこまでも深く暗い霧の中を抜けた先は、柔らかな陽の光に包まれた小さな草原と、その奥に広がる深い森だった。
さらにそのもっと先には大きな山々が連なっているのも見える。
突然、何の前触れもなく途切れた霧。
思わず振り返ると、やはり自分たちの真後ろには、薄暗く深い濃霧がまるで巨大な市壁のように立ちはだかっていた。ほんの数メートル先も全く見通すことはできない。
その黒い壁の中から、数千の同胞たちがポコポコと抜け出してきては、呆けた顔で目を丸くしている。
彼自身もきっと、同じような顔をしていたことだろう。
「草原と森、その奥に山……と谷か」
男の隣に並んでそう言ったのは、長い茶髪にやや吊り上がった切れ長の目をした男。
「助かった……のか?」
茶髪の男に続いて霧の壁から現れた男が、かすれた声で呟いた。赤みがかった金髪を短く刈り上げた男だ。
「油断するな」
茶髪の男の代わりに、黒髪の男が落ち着いた声で言った。
「レオン」
金髪の男が彼の名を呼ぶと、黒髪の男は頷いてから背後を振り返り、
「直ちに退魔香を焚け!戦闘員は周辺を警戒——『学者』、魔物の気配は?」
次々に霧の壁から姿を現す兵たちに指示を出す。
それから彼の背後にいたもう一人の金髪の男に視線を送った。
同じ金髪と言っても、この男のそれはやや色素が薄い。
それにこの男だけ、他の者と違って重厚な革鎧の代わりにゆったりとした灰色のローブを纏っていた。
「……今のところ、魔物の気配は一切ありません。驚くほどに静かです。……不自然なくらいに」
ローブの男は、不思議な輝きを放つ拳大の水晶球を睨みながら、首を振った。
「今は“名もなき女神”の慈悲に感謝するとしよう——少なくとも、おれたちはまだ、生きている」
黒髪の男は、水晶球を片手に怪訝そうな顔をする男の肩に手を置き、仲間たちの顔を見回してそう言った。
どちらかと言うと、自分自身に言い聞かせるような言い方だった。
それから彼は、霧の壁を越えたおよそ三千の仲間たちに向かって声を張り上げた。
「聖石の結界を張れ!」
凛とした力強い声が草原に響き渡る。
「いいか、みんな!当面、おれたちはしばらくここに留まって『大地の民』をやり過ごす。聖石が地脈に結びつくまでは、くれぐれも退魔香を絶やすなよ!それから、みんなで小屋を建てるんだ」




