第44話「穏やかな日々」
柵が四十本に届いたのはナギの一族が来てから、十一日目のことだった。
柵の北西の角の見張り台も、二日目の夕方には足場まで仕上がっていた。ヒガがてっぺんに登って両手を腰に当てた。当てた肘の高さが、林の縁の梢より、わずかに上にあった。
「南の林の奥が見える」
ヒガはそれだけ、言って降りてきた。
降りてきたヒガの背中を、ハルが見ていた。
*
畑の方は十日のあいだに、形が変わった。
第一の畑はすでに種を蒔き終えていた。第二の畑も、半ばまで畝が切られていた。第三の畑は、去年の南端の二列を避けて、その北側に新しい畝が引かれていた。
去年の三倍。とナツが自分の覚えの中で、何度か確かめた。三倍と言っても、人手が五人増えただけだ。だが五人のうち、二人は、ほぼ専任で、畑に出ていた。ヨルとハルだ。
ヨルの畝の切り方はもうガラの民の誰もが認めていた。土の起こし方に迷いがない。一日にこれだけは終える、と決めた量を、ヨルは必ず、終えた。終えたあとで、ヨルは、地面に座ってしばらく自分の畝を見ていた。見ているあいだ、口を結んでいた。何を考えているかは、ナツにも、ソウにも、分からなかった。
ハルは、トウカについて、回っていた。
種の置き方を覚えた。畝の幅を覚えた。鍬の柄の握り方を覚えた。覚えるたびに、ハルは頷いた。指の震えはもう止まっていた。
昼に、トウカがハルに聞いた。
「お前、東の谷でも、こういうのやったか」
「やった。だが——」
ハルは言葉を止めた。
「やったが続かなかった」
ハルはそれだけ、言った。トウカは、それ以上、聞かなかった。
*
ソウは、丘の上の別の畝の脇に立っていた。
立って芽の出ていない地面を見ていた。蒔いたばかりの場所だ。芽はまだ出ない。出るのは、四日先か、五日先か。
背後で、足音がした。
「お前」
リアの声だった。
ソウは振り向いた。リアは、弓を、肩に提げていた。だが訓練の途中ではないようだった。空き地の方から、ゆっくり歩いてきていた。
「何を見ている」
「芽の出ない地面」
「出ないのを見て何になる」
「いつ、出るか、考えている」
リアは、ソウの脇まで来て、立った。立ってソウと同じ地面を見てから、息を吐いた。
「お前は」
リアは言った。
「いつも、先のことを考えてるな」
ソウは答えなかった。
「たまには、今を、見ろ」
リアはそれだけ、言った。
ソウは、リアの方を見た。リアは、ソウを見ていなかった。地面の方を見ていた。地面の上に、小さな、四足の虫が、一匹、這っていた。リアの目は、その虫の動きを追っていた。
虫は、土の塊の脇をゆっくりと回った。回って消えた。
「消えた」
リアは低く言った。
「いま、消えた」
ソウは頷いた。
リアの言いたいことが、ソウには分からないわけではなかった。だが、頭の中ではまだ別のことが動いていた。芽。出る日。出たあとの間引き。間引いた粒の扱い。次の畝の整え。それから——足跡。五日前から、増え続けている知らない足跡。
頭の中の動きを、ソウは止めることができなかった。
止めることができないが、リアの目の動きは見ることができた。リアの目が虫を追って、地面の上をゆっくりと移った、その動きは見ることができた。
見たあとに、何が残るか。それは、ソウにも、分からなかった。だが見た、ということだけは覚えておこうと思った。
*
夕方、空き地の南の縁の柵の脇でテツと、カナが話していた。
ソウは、住居の脇から、その様子を目の端に見ていた。聞こえる距離ではなかった。だが二人の口の動きと、肩の動きは見えた。
しばらくしてソウは、二人の方に歩いた。
近づくと、声が聞こえてきた。
「バアの咳、最近、また、ひどいね」
カナの声だった。低くはなかった。だが、いつもの明るさはなかった。
「うん」
テツはそれだけ、答えた。
カナは、柵の丸太の表面に、手を置いていた。指で、丸太の木目をなぞっていた。なぞりながら、続けた。
「バアがいなくなったら、寂しいな」
テツが、口を開きかけた。開きかけて、止めた。
「みんな」
カナは続けた。
「みんな、いなくなる時はいなくなるんだろ?」
カナの目は、丸太の木目を見ていた。テツの方を見ていなかった。空の方も、見ていなかった。木目の節のぎざぎざした輪郭を、目でゆっくりなぞっていた。
テツはようやく口を開いた。
「縁起でも、ないこと言うなよ」
テツの声は低かった。怒っている声ではなかった。だが、平らな声でも、なかった。
「ごめん」
カナは答えた。
「でも——」
カナは息を吸った。
「みんなが、元気でいてほしいな」
カナはそれだけ、言って、丸太の木目から、指を離した。離した手を、自分の腰の前で軽く組んだ。
ソウは、二人の脇に立っていた。
立っているだけで、声はかけなかった。
カナの目は、ソウの方を見て、それから、すぐ地面に戻った。戻った目の中にいつもの明るさは、半分しか、なかった。半分だけ、いつもの明るさでもう半分は、別の何かだった。
カナが、空き地の方へ、歩き出した。
歩き出した背中を、テツが見ていた。見てから、テツは、自分の脇の丸太の柱に、手を置いた。置いた手の指がわずかに丸太の表面を握っていた。
*
夜、ソウは、住居の中で、革幕の隙間から、外を見ていた。
外には、空き地の中央の焚き火と五本の住居の煙ともう一本、ガランの古小屋の煙と合わせて六本の細い煙が立ち上っていた。
六本の煙は、夜の空気の中で、上にまっすぐ、伸びていた。風はもう止んでいた。
ガランが、住居の入口から、入ってきた。
入ってきて、ソウの脇に座ってから、しばらく何も、言わなかった。
「ヒガが」
ガランは低い声で言った。
「昼間に、見張り台の上から、人影を見たそうだ」
「人影」
「南の林の奥。一人。木の影に入っていた。すぐに消えた」
ソウは答えなかった。
「昨日も、ヒガは、別の人影を見たと言っていた」
ガランは続けた。
「二日続けて、だ」
ソウは頷いた。頷いた頭の中で、リアが昨日の夜に言った足跡の話が重なった。革の底の形が、ナギの一族のものではない。
「数は」
「分からん。一人ずつ、見たそうだ。だが見えたのが一人だけだとは、限らん」
ガランはそれだけ、言って、火の方へ視線を戻した。
ソウは、革幕の隙間から、もう一度外を見た。
六本の煙はまだまっすぐ、上に伸びていた。
穏やかな夜だった。柵は立っていた。見張り台も、立っていた。畑には、種が蒔かれていた。粥は、夕方に回された。バアは、咳を、しながらも、薬草の鉢を、手元に置いて寝床に入っていた。
全部が整っていた。
整っているからこそ、見えてしまうものがある。林の奥に一人。昨日も、一人。
ソウは革幕を閉めた。
閉めた革幕の内側でガランの吐く息が低く聞こえた。
穏やかな日々の、形はできていた。
形ができていたから、形の外側に、何かが入ってこようとしていることが分かった。




