第110話「ガラン違和感」
「先に休め」
ガランは族民にそう言って、自分は火の脇から動かなかった。
夕食の鍋はとっくに底が見えていた。冬の本体の夜は煮炊きの湯気も早く立ち消える。空き地の中央で焚き火だけが橙の舌を低く保っていた。
寒さの底はまだ来ていない。だが空気の重みは半月前とは別の段に入っていた。吐く息が火明かりの縁で一拍だけ白く立つ。立った白さは火に吸われてすぐ消えた。
ソウは契約板の脇にしゃがんで革袋の口の結びを確かめていた。半月で動いた数が、まだ頭の中に並んだままだった。来た毛皮の枚数。出した粒の袋。覚えておかなければならないものが、夜になっても掌の重みのように残っている。
*
族民が一人また一人と、住居の方へ戻っていった。
アズが子の手を引いて東寄りの革幕をくぐる。ノタは毛皮を一枚肩に掛けたまま、サガと低く何か交わして別れた。カヤは薬草の籠を抱えて、自分の小屋の方へ。
ゴンとカグは古小屋の方へ歩いた。ナギの四人とガンとハクが先に入っている小屋だった。南西から来た二人は、もうここの夜の散り方に馴染んでいる。
冬の本体に入ってから夜の人の散り方が一段早くなっていた。寒さは人を住居の奥へ押し込む。革幕の縁を絞る手が、どの小屋でも夜ごと固くなる。
四十五人。揺れていない数が夜ごと革幕の向こうに収まっていった。ソウは頭の中でその数を一度なぞって、また置いた。
空き地の中央には、焚き火の音だけが残った。
*
火の前に、二人が残った。
ソウとガランだった。
ガランは焚き火の脇のいつもの位置にいた。膝の上で両手を組み、火の方を見ている。
ソウは契約板の脇から斜め向かいへ座り直した。四つの形が火明かりの縁に並んでいた。バアの椀。掌一つ分の隙間。カナの椀。その隣にカナの薬の板。半月前に加わった契約板が、いちばん火に近い。
ソウはバアの椀の縁に、一度だけ指の腹を触れた。縁の欠けの影が火に揺れて伸びる。触れて、すぐ離した。
冷えが北の縁から薄く渡ってきた。
うなじの裏を一度なで、また退く。焚き火の煙が鼻の奥で松脂の匂いに変わって抜けていった。指先の感覚が火に近い側だけ戻ってくる。反対の手の甲は夜の冷えの方に置かれたままだった。
火の縁の薪が一本、低く爆ぜる。粉が立って、消えた。二人ともしばらく何も言わなかった。
*
ガランが口を開いたのは、しばらくしてからだった。
「ソウ」
声は低かった。火を見たまま出た声だった。
「ん」
「お前を見ていると、たまに——」
ガランは言葉を切った。
ソウの肩の奥で、何かが一度、止まった。
前にも、この切り方を聞いた。あの冬の夜だった。ガランは同じところまで言って、続きを口の中に残したまま立ち上がった。今夜はその切り方の先に、まだ間が続いている。
火の中で炭が一つ、赤く息をした。
「どこから来た男なのか、分からなくなる」
ガランは、続きを言った。
*
ソウは、すぐには答えられなかった。
答える言葉はいくつもあった。どれも、この火の前に置く形ではなかった。
ソウは自分の膝の上で片手をゆるく握った。握った中に、半月の数も契約板の渦も、何も入ってこなかった。
「……俺は、ここの男です」
声は、自分で思っていたより低く出た。
「分かっている」
ガランは即座に返した。
声に押しはない。否定でもない。確かめる声に近かった。
「だが、たまに、思う」
その二つの短い文の間に、わずかな間があった。
*
ガランが、火から目を上げた。
ソウの方を見た。
いつものガランは、こういう話を火に向けたまま落とす。リアの話も後を継ぐ者の話も、火の薪を見たまま口にした。今夜は違った。顔の角度がソウの方へまっすぐ向いていた。
目を逸らさない。
ソウは、その目を受けた。
逸らせなかった、と言う方が近かった。同じ目を、前にも受けたことがある。粘土板の脇でリアがソウの横顔を探した時。丘の墓の前で、テツが盛り土の上の束に目を落としながら、ソウの方へ伸ばさなかった視線の重さ。
あの二つの目と、今夜のガランの目が、火明かりの中で一本に重なった。三人とも別の場所からソウの同じ一点を見ている——そう思うと、肩の奥がわずかに固くなった。
沈黙が、長かった。
ガランの目は揺れなかった。火明かりが瞳の表で一度光って、また沈む。その目の奥に責めも問いもなかった。ただ、何かを見ようとして止まっている目だった。
ソウの喉の奥で唾が一度下りた。下りた音は火の爆ぜに紛れて消えた。聞かれなくてよかった。
焚き火だけが、低く爆ぜた。炭の縁が崩れて、火の高さが膝の半分まで落ちる。橙の光が二人の足元だけを照らし、顔の上半分は闇に沈んでいた。
*
ソウは、それ以上は答えなかった。
弁明する言葉を、口の手前で止めた。
「ここで生まれた」と取り繕えば、ガランの目の重さが軽くなる。「何が違うのか」と問い返せば、ガランの今夜の沈黙を壊すことになる。どちらも火の前に置く形ではなかった。
ソウが置けるのは、さっき置いた一つだけだった。俺は、ここの男です。その声がまだ二人の間に座っていた。
ガランは、それ以上は追わなかった。
問い詰めもしない。答えを引き出そうともしない。「たまに、思う」で止めた口は、もう次の言葉を探していなかった。
探さないと決めた口だった。
ガランの目が、ソウの上から、また火の方へ戻っていった。
*
火の脇で、咳が一つ落ちた。
「埃だ」
短い。低い。
冬の本体の夜に、埃は立たない。立つはずのない三音だった。だがガランは、いつものそれを口の脇に置いた。
ソウは置かれた三音の場所を知っていた。場の温度を測る咳だった。今夜は測るというより、何かを元の高さへ戻すための咳だった。
ガランが、立ち上がる準備に入った。
膝の脇に右手を一度当てて、半秒で離す。それから腰を上げた。上げる動きの間に、いつもよりわずかに重い間があった。膝が伸びきるまでの、その半呼吸の遅れだった。
ソウだけが、その手の動きを見ていた。見ていることを、ガランに気づかせない角度で見ていた。
「先に戻る」
ガランは短く言った。
「火を見ておれ」
ソウは頷いた。
*
ガランの背中が、住居の方へ歩いていった。
背中はまっすぐだった。歩き方も、いつものガランに見えた。
だが歩幅が半月前より少しだけ短くなっている。革幕の向こうに背中が消えるまで、ソウはその短さを目で追う。
空き地に残ったのは、焚き火とソウ一人。
焚き火が、また一つ爆ぜた。
その音だけが、長く残った。
ソウは、火の方を見たまま動かなかった。
どこから来た男なのか、分からなくなる——ガランの言葉が、頭の脇に音もなく残っている。リアは「思いつく」を尋ねた。テツは「知ってた」を置いた。今夜のガランは、その二つより一段奥の場所に立っている。思いつくでも知っていたでもない。ソウという男の、立っている地面の下を見ようとする目だった。
三人とも、追わなかった。問わずに見るという同じ形が、別々の場所からソウの一点に向いていた。
答えは、まだどこにも置けない。置く場所のない答えを、ソウは組んだ両手の中に握り込んだ。
*
火の高さが、さらに落ちた。
夜の冷気が火の縁まで近づいてくる。
ソウは膝の上で両手を組んだ。組んだ手の中に、椀の温かさはもう残っていない。掌に残ったのは、さっきバアの椀の縁に触れた、冷えた欠けの感触だけだった。
四つの形が火明かりの縁に並んでいる。掌一つ分の隙間も、いつもの場所にあった。
ガランの目は、解けなかった。
今夜は、それでよかった。追わない目は、いつか追う目に変わる。リアの「ふうん」も、テツの「分かる」も、いつまでも宙に置いたままではいられない。ガランの「たまに、思う」も、いつか続きを持つ。
変わる時が来るまで、この冷えた火の脇に答えの形は置かれないままでいい。
北の縁から、本体の冷たさがもう一度渡ってきた。
うなじの裏をひとなでして、退いていった。火の高さが、また少し落ちた。




