零と一
【零と一】
ベンタイン市場の下水道で瀕死の重傷を負った伊佐武だったが、彼は東京医療大学付属病院が派遣したヘリコプターに乗せられ日ノ本衣舞と共に救助され、そのままホーチミン市の隣にあるビエンホア市の病院へ搬送された。
ホーチミン市内の感染爆発は、すでに人の手で抑え込める規模ではなくなったたのである。
ヘリコプターに乗せられた当初は予断を許されない状態だったが、衣舞の懸命な応急処置と伊佐武の異常な回復力によって生死の境をさまよいつつもなんとか病院までたどり着いた。
特に伊佐武の回復力は常人の比ではなく、集中治療室に運び込まれた際にはすでに右脇腹に空いた穴が血栓によって塞がりかけていたほどだ。治療後は全治三カ月と診断されたにも関わらず、二週間後に全快し、怪我をする以前と変わらない身体能力を発揮していた。とはいえ、心にも体にも、大きな傷を残したままだったが……。
ベトナムの医師たちは口々に奇跡だと言ったが、衣舞を含めた東京医療大学付属病院の医師たちは違った。伊佐武の驚異的な回復力。それは彼の中に流れるミュータントへの抵抗力を持った血が原因だったのだ。彼の血は寄生生物を寄せ付けないだけではなく、ウィルスや細菌などのあらゆる有害な物質に対する抵抗力も持っていた。度重なる過剰なストレスは血液の性質を著しく変化させ、結果的に傷口をゼラチン状の血液で覆う血栓を生成する時間を大幅に短縮したのだ。
そんなことが現実にありうるのか?
答えはありうると言わざるを得ない。実際に2017年ごろの精神科では血中に含まれる|リン酸エタノールアミン《PEA》の濃度でうつ病を診断する手法が確立されている。
東京医療大学附属病院は、伊佐武が今回の怪我で安全に生きる尊さを知っただろうと考えていた。さらに今回の大怪我のデータも合わせ、別の角度から伊佐武の体を調べる準備を進めていたのだった。ところが伊佐武の考えは----まったく逆だった。
寄生生物への抵抗力だけではなく常人よりも遥かに死ににくい体。これはもはや、ミュータントと戦うために与えられた力だと彼は思った。伊佐武は予定よりも二カ月早くビエンホア市の病院を退院すると、すぐさま日本へ帰国した。そして病院ではなく、MSTUの本部へと足を運んだのだ。彼は戦いに身を投じる道を選び、その後世界各地に飛び回る日々が続いた。
それからおよそ二年と半年が経過した頃、伊佐武はニューヨークの上空にいた。ベトナムで奇跡の生還を果たした伊佐武は、アフリカ、インドネシア、中国の三つの現場を渡り歩いていた。その間に彼が殺したミュータントの数は、公的に記録されているものだけで十万から十万五千体。過去にベンタイン市場を占拠していたミュータントを三回全滅させても足りないくらいの数を二年半で殺したのだ。伊佐武はMSTUの絶対的エースとして、三つの勲章を授与された。
だが同僚の隊員たちは、彼を狂気に駆られた殺戮者として畏怖し『クレイジーマッドキラー』という渾名で呼んだ……。
そんな彼は2033年四月現在、アメリカ合衆国ニューヨーク市のマンハッタン島へ派遣されていた。行きのヘリコプターの中で、彼は傷だらけになった黒い筋電義手を撫でていた。数々の戦闘に連れ添った相棒だ。
フレームはところどころヒビが入り、包帯とガムテープで補強してある。すでに整備でどうにかなる限界を越えていることは明白だった。この現場が、これまで共に戦ったこの義手との最後の戦場になる。土間臥牙丸からのメールによると、すでに新しい義手が用意されていると彼は聞いていた。
新しい義手の名前は、『ドレイクジャガー』。搭載された機能についての詳細も送られていたがーー臥牙丸はやたらとロケットパンチについて熱弁していたーー特に興味を持つことなく、ありのまま受け入れた。
伊佐武は臥牙丸といまだに直接的な面識はほとんどなかった。この二年と半年の間でも、顔を合わせたのは一度だけ。彼の左脇の下にぶら下がっているホルスターの中に収められた黒い『ベオウルフ』を渡された時だけだ。
群がっているミュータントを一発で大量に殺したい。両手が塞がれるのは嫌だから拳銃タイプが良い。という伊佐武の無茶な要望を、まるで当てつけの要に反映した大口径拳銃。もはや手のひらに収まる大砲と呼んでも差し支えない。熊のようにパワフルで、狼のように俊敏。だからベオウルフ。皮肉にも、邪竜と相打ちした英雄と同じ名前。
常人ならば両手で打っても肩が外れてしまいそうなその銃を、伊佐武は筋電義手と自身の回復力を使い無理やり扱っていた。彼は戦闘中に脱臼しても、無表情で肩を嵌めなおす。今夜もこの銃で多くのミュータントを殺すつもりだった。早く殺したくて仕方がなかった。
伊佐武が紺色のヘルメットの下で獰猛な笑みを浮かべたその時、前のめりに傾いていたヘリコプターが地面と平行になった。そして後部ハッチが開き、その先に自由の女神が見えた。
外はあいにくの雨。女神の顔を伝う雨水で、まるで泣いているかのように見える。伊佐武は、誰よりも早く座席に取り付けられていたベルトを外した。そして他の隊員たちの前を通り過ぎ、ハッチの脇に丸められていたロープを外に放り投げた。
ロープはヘリコプター内から地面すれすれにまで伸び、そのロープに伊佐武は腰につけていたカラビナを括り付け、躊躇することなく地上へ降りた。隊長らしき男の怒声が聞こえたが、彼にはなんの意味もない言葉だった。カラビナと手で減速しつつ地上に降り立ち、周囲を見ると、そこはマンハッタン島の湾岸沿いにある工場地帯だった。
いたるところで小さな爆発が起きている。工場で取り扱っている薬品が燃えているようだ。空には濛々と黒い煙が立ち上っている。伊佐武は他の隊員たちが降りてくる前に走り出した。水たまりを踏み飛沫を上げ、トタンと鉄骨で出来た工場の外壁沿いを走り抜ける。そして大きな通りに出ると、彼は口元を三日月のように歪めた。
「ああ……今日は、最高だ」
通りを埋め尽くすおびただしい数のミュータント。標準型が多いものの、そもそも人口の母数が日本とは桁違いなニューヨークでは変異型も散見された。彼がぐるりと周囲を見回すと、通りの中央でタンクローリーが横転しているのが見えた。タンクローリーの傍ではミュータント共が人間を捕食している。そこが狙い目だと思った伊佐武はベルトに下げていたオクタニトロキュバン手榴弾を手に取り、グリップを握りながらピンを抜いてタンクローリーに投げた。
五秒後。手榴弾が弾けると同時に、タンクローリーから漏れていたガソリンに引火。さらに気化したガソリンに燃え移り火は爆炎となって周囲のミュータントを飲み込んだ。
一瞬雨が止むほどの衝撃波が周囲を襲う。目の前で舞い上がる紅蓮の炎が伊佐武の頬を焦がす。飛び散る肉片が濡れたアスファルトに飛び散り、通りの両端に並ぶ建物の壁をも赤い鮮血で染め上げた。伊佐武はゆっくりとヘルメットの顎紐に手を伸ばし、外した。
ベトナム以降、彼は視界が狭くなるヘルメットを嫌っていた。どちらにしろミュータントの力で頭を攻撃されればヘルメットなど発砲スチロールの如く容易く潰される。それなら無い方がマシだと彼は考えていた。
肩まで伸びた黒髪を炎が作り出した火の粉交じりの熱風に揺らしつつ、右手で黒い愛銃を抜き、左手を肩の上に伸ばして、背負っていた刃渡り四六センチの黒いマチェットを手に取った。二つの凶器を構え、己の狂気に駆られ、彼は走り出す。燃え盛る炎の中心。いまだ蠢くミュータント共の群れの中に突っ込んでいく。
そこから先はただただ単純な作業だった。通りの端から反対側の端まで走る抜ける。その間に目に映ったミュータントは全て殺す。ただそれだけだった。
纏まっていれば銃で、単体ならマチェットで、建物の中にいる場合は手榴弾を投げ込んで。あらゆる行動に無駄がなく、まるで映画やゲームのように次々とミュータントが肉塊に変わる。もしかしたら彼が殺した中には、まだ人の意識を持った者がいたかもしれない。だがそんなことは、彼にとって些細な問題だった。
成人女性一人分の重さだったバックパックは、通りを抜ける頃には三〇キロ前後にまで軽くなっていた。彼は自分が通った道を振り返り、無感情な黒い瞳で煌々と燃える町を見つめた。
「綺麗だ」
彼が呟くと、雨がその言葉を掻き消そうとしているかのように激しさを増した。黒いアスファルトを赤く汚したミュータントの血が濯がれて、通りの脇にある排水溝に流されていく。赤と黒が入り交じる世界。この世界が、伊佐武には居心地が良かった。




