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——深夜。ノラが深い眠りに落ちて間もなく、眠っていたはずのイヴァンが目を開けて、ゆっくりと上体を起こした。
「……眠ったか」
ノラの寝息を確認してから、イヴァンは安心したように呟く。そして、そっと自身の唇に触れた。
(危うく、理性を失いかけるところだった……)
本当は、もう少し早い段階で薬が効いたふりをするつもりだった。それなのに、一度彼女とキスをすると、自分を止められなかった。
「……君はまるで、俺を狂わせる毒のような女性だよ」
責めるような口調とは裏腹に、イヴァンは優しい手つきでノラの顔に掛かった髪を取り払ってやっていた。
そして、イヴァンはしばらく、スヤスヤと無防備な少女のような表情で眠るノラを、愛おしそうな瞳で見つめていたのだった。
「んん……」
ノラが寝返りをうつ。その拍子に捲れてしまった毛布を、イヴァンは優しく掛け直してやった。
「ユリアナ、君とのゲームはとても楽しかったよ」
もちろん、チェスの事ではない。イヴァンはバスローブを羽織り直して自身の乱れた格好を整えると、ベッドから出て浴室へと向かう。
「……予め解毒剤を飲んでおいて、正解だったな」
そう呟きながら鏡の前を通り過ぎた時、彼の表情はこれまでノラに見せてきた『恋に溺れる愚かな男』の表情ではなかった。これまで一度も見せたことのない、鋭い目を細めた計算高い男の笑みだった。
浴室に入ったイヴァンは、シャワーの蛇口を捻って冷水を浴び始める。
「それにしても、我慢がここまで辛いとは……なんとか熱を鎮めないと、今度こそあの子を襲ってしまいそうだ」
興奮を鎮めるように冷水を頭から浴びるイヴァン。彼は、全部分かっていた。今日、妻が自分に薬を盛ることも……
「可愛い俺の奥さん。俺達の初夜は、君の本当の名前を知るその時まで、大切にとっておこう」
『ユリアナ』が、彼女の本当の名じゃないことも。
イヴァンがシャワーの蛇口を捻って水を止める。濡れた黒髪の隙間から覗く金色の瞳は、誰かを射殺してしまえるほどに冷淡な温度で、その表情はまさに、戦場で恐れられてきた冷酷な軍部総司令官のそれだった。
イヴァンが濡れた体のままガウンを羽織り、寝ているノラの隣を通り過ぎて窓辺へと寄りかかる。
「総司令官」
すると、外から男の声がした。
「定時報告です。新たに帝国に紛れ込んだスパイを捕らえました。いかがなさいますか?」
「これも仕事だ……俺も後ほど向かうから、それまでに出来るだけ情報を吐き出させておけ」
「かしこまりました」
短い会話の後、再び夜の静寂が部屋の中を包み込む。
最近では、このヴァルキリアス帝国へ送り込まれる諜報員が多く、イヴァンの仕事は増えていくばかり。
彼はこの国の『軍神』として、軍兵を使って捜査網を広げ、潜入するスパイ達を炙り出している。捕らえてきたスパイは数知れず……見つかれば、誰一人としてイヴァンから逃げられた者はいない。
(やれやれ、こっちは新婚初夜だというのに……)
イヴァンは窓から見える月を見上げた後、ベッドの方へと向かった。
そこには、安らかな表情で眠るノラの寝顔が……イヴァンは目元を和らげると、クスリと笑って妻の額に口付けを落とす。
「仕事に行ってくるよ。俺の奥さん」
イヴァンは最後にノラの頬を優しく撫でると、立ち上がり部屋の扉の方へと向かった。ドアノブを掴み、ふと、何かを思い出した様子で顔を上げる。
「ところで……『ケリス伯爵家』も詳しく調べる必要があるな」
イヴァンは冷え渡る声で呟くようにそう言って、今度こそ部屋を後にしたのだった。
◆
翌朝、ノラが目覚めた時、ベッドには彼女一人だった。
(……イヴァン・アルノルフォは……?)
自分が横になっていたところ以外のシーツを触り確認すると、ひんやりと冷たい。どうやらイヴァンが起きて、かなりの時間が過ぎているようだ。
窓に目を向けると、朝日が眩しかった。ノラは登っていくその太陽を見つめながら、昨日の出来事を思い出していた。
(偽装とはいえ、『ユリアナ』が結婚したなんて……まだ実感が湧かない……)
そんな事を考えながら、見慣れない公爵家の寝室を遠くなる目で呆然と眺めた。しかし、彼女の瞳にはすぐに強い光が宿っていく。
(……とにかく、私はついに公爵家へ潜入したんだ)
その時、部屋の中にノック音が響いた。ノラは少し警戒しながらも「はい」と短く答える。すると、寝室の二枚扉が左右同時に開かれた。
「おはようございます。奥様」
現れたのは、中年女性の侍女を筆頭としたメイドの列だ。
その侍女の顔は覚えている。昨日、公爵家に到着したノラを捕まえて、彼女を花嫁に仕上げたメイド軍団の指揮者。そして、式が終わってこの寝室に入れられる前に、身の回りの世話をしてくれた侍女長だ。
名前は確か……
「ハリントン夫人……」
ノラが呟くように名を呼ぶと、アルノルフォ公爵家侍女長のマーガレット・ハリントンは目尻の皺を深め、穏やかに微笑んだ。
「奥様。どうぞ私の事はマーガレットとお呼びくださいませ」
マーガレットは頭を下げてそう言うと、ベッドから出ようとするノラの元へすぐさま歩み寄った。
ノラの手と肩を優しく支えて、彼女がベッドから出るところを丁寧に補助してくれるマーガレット。
(別に一人でも起き上がれるのに。貴族って、身の回りの全てを使用人に世話されると聞くけど……)
平民のノラには、この貴族のしきたりがとても面倒で非効率的だと感じていた。
(起き上がる事すら他人の手を借りないといけないわけ?)
そんな驚きと皮肉を混ぜた気持ちで、ノラは思わずマーガレットを見つめる。すると、彼女の穏やかで落ち着いた深緑色の瞳とすぐに目が合った。
「昨晩は、旦那様と遅くまでお過ごしだったご様子……お体に無理はありませんか?」
マーガレットの優しい微笑みを受けて、ノラは思わず顔を真っ赤にして俯いた。
(そうか……この人達、私とイヴァン・アルノルフォが熱い初夜を過ごしたと思ってるんだ……)
だからこのように、ノラの体調を一段と気遣ってくれているのだろう。
(ううぅ……本当は違うのに……恥ずかしい……)
昨夜、イヴァンと結ばれたなんて誤解、今すぐにでも声を大にして否定したいが、それは公爵夫人らしくない。
ノラは羞恥心から熱くなる顔で俯いたまま「大丈夫です」と、ぽつりと小声で答えるしかなかった。
「それは何よりでございます」
そして、ノラの返事を聞いたマーガレットはそう言って、安心した様子で笑ったのだった。




