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第9話 沈黙の内側

 馬車は揺れていた。


 石畳の継ぎ目を越えるたび、車体がわずかに跳ねる。窓の外では夜の灯りが流れ、通りの人影が断続的に切り取られていく。


 誰も何も言わなかった。


 向かい合って座るには狭すぎる空間で、アメリアは窓際に身体を寄せていた。背中が板に触れている。揺れに合わせて、骨が小さく軋む。


 王宮の香がまだ衣に残っていた。


 甘く、重たい匂い。杯の酒と、花の油と、他人の呼気が混じったような、濁った芳香。それに紛れて、自分の身体から立つ別の匂いがあるのを知っていた。


 消えていない。


 昨日の夜の続きが、まだ皮膚の下でくすぶっている。


 アメリアは目を閉じた。


 まぶたの裏に、炎の色が残る。形を失っていくものの重さが、腕に蘇る。呼吸が浅くなる。


 馬車が大きく揺れた。


 その拍子に、隣から手が伸びてきた。


 逃げる間もなかった。


 セドリックの指が、肩口を掴んだ。


 抱き寄せる、というより、引き寄せて固定する力だった。骨の位置を確かめるように、無遠慮に食い込む。衣越しに伝わる圧が強すぎて、息が詰まる。


「‥‥離して」


 声はかすれていた。


 拒絶ではなく、空気を求める音。


 セドリックは応じなかった。


 彼の顔は近い。だが目はアメリアではなく、どこか別の場所を見ている。自分の中に広がる何かを、必死で押し留めているようだった。


「見た」


 彼は言った。


「王子の顔を」


 指の力がさらに強まる。肩甲骨が軋む。


「壊すつもりだ」


「ええ」


「君を」


「ええ」


 短い応答が続く。


 言葉が会話の形を取らない。ただ、確認のために投げられ、落ちていく。


 セドリックの呼吸が乱れていた。香水と酒と灰の匂いが混じり、狭い馬車の中で濃くなる。


「‥‥逃げる気はないのか」


「ありません」


「死ぬぞ」


「ええ」


 その「ええ」は、まるで他人事のように軽かった。


 セドリックは、ようやくアメリアの顔を見た。


 瞳の色が変わっていることに気づく。


 昨日までそこにあった光が、薄くなっている。代わりに、何か濁った深さが増している。底の見えない水のような色。


 生きている者の目ではなかった。


 それでも彼は、手を離さなかった。


 むしろ、さらに引き寄せる。胸と胸がぶつかり、呼吸が重なる。苦痛を分け合うように。


 それが、彼なりの抱擁だった。


 


 屋敷に戻ると、灯りがいくつか消えていた。


 夜はもう遅い。廊下に足音は響かない。静けさが壁に貼りついている。


 アメリアは自室の扉を開けた。


 中に、誰かいる。


 匂いでわかった。


 甘い花の香り。昨日まで王宮で嗅いでいたものよりも、もっと整えられた匂い。


 クリスチーネが椅子に座っていた。


 白い手袋を膝に重ね、微笑んでいる。完璧な姿勢。完璧な角度。まるで夜会の延長にいるようだった。


「お帰りなさいませ」


 声も整っている。


 だが瞳だけが冷たい。


「遅くに失礼いたしました」


 机の上には皿が置かれていた。


 銀の蓋がかかっている。


「お好きだったでしょう」


 クリスチーネは言う。


「蜂蜜漬けの果実。庭でよく召し上がっていたと伺いました」


 アメリアは歩み寄った。


 蓋を取る。


 甘い匂いが立つ。胃が反応する。吐き気が込み上げる。


 昨日の煙が、喉の奥で蘇る。


「‥‥ええ」


 手が震えそうになる。


 指先に力を込める。爪が食い込む。


 皿の上の果実を取る。唇へ運ぶ。


 噛む。


 甘さが広がる。舌が拒絶する。飲み込めない。


 それでも、喉を動かす。


 クリスチーネは瞬きをしなかった。


 観察している。


 反応を、呼吸を、瞳孔の動きを。


「美味しい?」


 問いは柔らかい。


 だが逃げ道はない。


「ええ」


 声を出すと、胸が痛んだ。


 身体が拒絶している。胃が反転しそうになる。だが吐けば終わる。


 アメリアは笑った。


 唇の端を持ち上げる。鏡の前で何度も練習した形。


 クリスチーネが立ち上がる。


 近づく。


 距離がなくなる。


 香りが重なる。


 そして、耳元で囁いた。


「‥‥あなたは、誰?」


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