D-2
「……これで良い」
スマートグラスに表示されている情報を眺めながら、その赤縁眼鏡を掛けた少女は柔らかい原っぱの上に腰を下ろしていた。湖を眺めながら、彼女はクマのぬいぐるみを抱えていた。
警告。
当地点危険域。
脱出推奨。
逃走ルート表示。
あらゆる情報がスマートグラスに広がって視界がいっぱいになるが、その少女は首を振って邪魔なそれを消去した。
この街で一つしかない、最も綺麗な森なのだ。
機械の映し出す情報の方に集中するなど勿体ない。
月明かりを反射して輝く湖、夜空を埋め尽くす星座、森の木々を揺らす暖かい風。五感を介して、これでもかと脳に入ってくる気持ちの良い情報は何でも映し出してくれるスマートグラスでも実現できないはずだ。
その光景の中に、異物があった。
「よお」
ダークスーツを纏った集団だった。数は七名。
その手に三つ又の槍『スタンスピア』を持つ連中だった。確か『プレグナント』とかいうギャングだったはずだ。
「『女王』から伝言だ」
「……当ててあげる。私は用済みだ、でしょう?」
「話が早くて助かるよ」
柔らかい笑顔もドラマチックな演出もなかった。
槍が振り上げられる。当然のように、槍の先端は凶悪な音と共に紫電を散らしながら帯電していた。雷雲を連想する電撃を纏う凶器が、赤い眼鏡を掛けた少女に振り下ろされる。
位置エネルギーをたっぷり加えた攻撃だった。
そして、その小さな女の子は逆らわなかった。
彼女は賢い。必死で横に飛べば、一度や二度は回避できるかもしれないが、相手は七名の集団だ。いずれ捕まり殺害されるのは目に見えていた。
どうせ、助けが来ないのは分かっていた。
だから、彼女は潔く諦めていたのに。
槍が振り下ろされた瞬間、横合いからの強い衝撃によって少女が突き飛ばされた。
『スタンスピア』が標的を食いそびれていく。何もない地面を叩きつけ、落雷のような音と共に美しい緑色の芝生を焼き尽くしていく。
「どう、して……?」
「それはね」
同じ女性だった。
手からこぼれ落ちそうになっていたクマのぬいぐるみを自分に押し付けるのは、絵本と人形を抱えてやたらとしつこく彼女とコミュニケーションを取りたがっていた女子大生だった。
「私達大人は本来、あなたみたいな子どもを守る義務があるからよ」
義務と、彼女は言った。
だけど赤縁眼鏡を掛けた、その賢い少女は知っている。
自分は違う境遇だけれど、この孤児の施設に集まっている子ども達はどうしたって愛情に飢えた子が多い。だからどうしても、彼らは薄っぺらい笑顔を浮かべる大人よりも純粋に子どもを可愛がる大学生に懐く傾向があるのだ。
そこに違いがあるとすれば、それはボランティア活動か仕事としての活動か、である。
彼女は前者。ゆえに、義務なんてないはずなのだ。
眼鏡を掛けた少女の計算が正しければ、万が一にでも助けがあるのならここに駆け付けるのは施設の職員でなければおかしい。だというのに、実際はこうだ。
一方で、自らを見る荻野真奈も少女の心境を悟ったのだろう。
くすりと笑って、命懸けでダークスーツのギャングの前に躍り出た彼女は言う。そう、どこかの少年と同じく、英雄の血を継いでいるその女性が言い放つ。
「そう絶望する事はないわよ。知っているかしら? この世界はね、善悪をぎゅっとまとめて全体を眺めてみたら、ほんの少しだけ善性の方が多いものなのよ」
「……」
検討外れも良いところだ。
そんな風に世界は計測できない。それに赤縁眼鏡の少女が絶望するように命を諦めている理由は、きっと女子大生が思い浮かべているものとはきっと違う。
だけどおそらく、大学生の女性にとっては同じなのだ。
部屋の隅っこに座る少女に声を掛けるのと、子どもの命のために身を挺して守る事は。
「逃げて」
意味不明な言葉が聞こえた。
冷めた心が温かさで溶けていく錯覚が、確かにあった。
「こう見えて、お姉ちゃんは強いから。だからあなたはみんなの所へ行きなさい」
少女を庇うように背にする女子大生に、最後まで言わせてはいけない。次の言葉を終わらせる前に打開策を算出しなければならない。
こんな人が、この世界には必要なのだ。失う訳にはいかない。助けたい。手を差し伸べたいのだ。自分だって助ける人になりたいと願って何が悪い。
スマートグラスが限界まで複雑な状況を整理する。頭脳が策を組み上げていく。
だけど間に合わない。
どうしても力が足りない。
「森だから逃げ道はたくさんあるわ。そのスマートグラスもあるなら何とかなるわよね」
「ダメ……」
「賢いのなら分かるよね。大丈夫、きっと他のみんなも助けてくれる」
「そんなのダメええええええええええええええええええええええええええええええええ‼」
ダークスーツの男達から槍が放たれる。
女子大生の心臓が貫かれる。一体人間の厚みでどれだけの防御性能があるのだろうか。きっと二人とも串刺しにされて終わる。そんな最悪の想定すらしてしまった時だった。
その背後から、固く握り締められた拳がとんでもない速度で飛んできた。
それは情け容赦なく『スタンスピア』を掲げるクソ野郎の頬骨を打ち抜いていく。
ゴンッッッ‼ という音がいっそ遅れて森中に響いていく。先頭のダークスーツの男が吹っ飛び、そいつの背後に控えていたヤツらも一緒くたになって後ろに転がって行く。
束の間ではあるが、ギャングどもは機能不全に陥っていく。
「無事で何より」
それは黒い影だった。一瞬ダークスーツの男の集団かと思ったが、すぐにその情報は脳内で修正されていく。
「済まないが時間がない。すぐに答えてくれ、名前は?」
「……へっ、ヘレン。ヘレン=フェストパレス」
「へえ、一発で当たりを引いたか。随分とツイている」
レザージャケットを纏う少年は、深く被ったフードの奥で静かに笑ったようだった。
「なら僕のスマートフォンをハッキングしろ。ペンタゴンに喧嘩を売るくらいなんだ、君なら簡単だろう? 逃走用のルートをインストールしたアプリが入っている。女性の声をしたナビゲーターが案内してくれるはずだ。それに従え」
「……えっと」
「あの子なら状況を見れば誰が敵で誰が味方かくらいの判断はつく。ステラの言葉だ。他の子ども達を誘導して安全に避難させられるのは君しかいない。頼んだ」
「わ、分かった……っ‼」
女子大生の手を引っ張って行くヘレン=フェストパレス。
そして子どもに引っ張られたまま、その女子大生は遠くなっていく少年の背中にこう叫ぶ。
「ええと、誰だか知らないけどありがとう! あなたもすぐに逃げなさいよ‼」
片手を挙げて軽く応じた。
ダークスーツの男どもが立ち上がる。個ではなく集団としての力を見せつけるために、再びハイテク兵器の『スタンスピア』に紫電が走っていく。
「良いのかな」
腰に手を伸ばし、レザージャケットの背中から警棒を引き抜きながらその少年は涼しく告げた。
フードの奥の瞳にこれ以上なく、危険な色が躍っていたのは、果たして有象無象に理解できたか。
「寝ていた方が幸せになれたと思うけど」




