閑話.巡る因果、望む未来
「……それでは、姚家は族滅。江家は主要官職を剥奪し、罪人・瑾萱の直系親族は宮刑に処したのち、官奴婢とする。良いな」
光啓帝・蘇 直謙の下した重い裁定に、家臣たちが一斉に頭を下げた。脇に座す皇太子・白晟が、その様を静かな目で見下ろしている。
長女の蓮瓔を下がらせたのち、今回の騒動に関わりのない家の者たちを呼び寄せ、朝堂の意見を纏めていた。実際に罪を裁くのは外廷の糾正院だが、彼らが朝堂の──皇帝の意向を無視することなどありえない。首謀者の二人は極刑に処され、その血縁たちは先ほど直謙が決めた末路を辿る。
崇義の生母・藩氏の生家の扱いには迷った。長い間、崇義の後見役だったのは趙家だ。取り扱いを間違えれば、朝堂の二大派閥を共に敵に回すことになる。
幾対もの、物言いたげな瞳。その圧力を振り切るように、直謙は敢えて淡々と告げた。
「──以上だ」
無言で揖礼した白晟に倣って、官僚たちも深々と頭を下げた。
久々に見上げた漆黒の夜空に月の姿はなく、吹き付ける秋の夜風が直謙の屈強な身体を震わせた。
今宵も後宮から遠ざかろうとする彼に、敬事署の長は苦い顔を隠さない。だが彼は一顧だにせず、央廷のとある建物に足を踏み入れた。
(遅くなってしまった。──起きておられるだろうか)
前を行く官の背を見つめながら、直謙は黙って歩を進める。やがて客間の一室に通され、直謙は用意されていた長椅子に腰を下ろした。
しばらくして、別の宦官が姿を見せる。直謙は立ち上がり、入室してきたその人に向かって頭を下げた。
「──頭を上げよ」
皇帝が頭を垂れる唯一の存在の片割れ──父であり、太上皇でもある蘇 冽然が、重々しくそう告げた。
直謙は端的に礼を述べ、その言葉に従って姿勢を戻す。長々とした挨拶の口上は、父が面倒そうに手を振るので省略した。
父は側に立つ宦官に一言二言命じて退出させた後、飄々と直謙に向き直った。
「……酒に付き合えと言っておいて、随分待たせたな。おまけに手ぶらか」
冷ややかな物言いではあるが、怒っているのではないことは、その眼差しの色で十分理解出来た。直謙も少しだけ肩の力を抜き、微笑を浮かべる。
「まだまだ、賢君と呼ばれる父皇には遠く及ばないもので。……酒は事前に預けてあります。じき、父皇好みの温度のものが出てくるかと」
「ならば良い」
ニヤリと口元を歪めた父が、楽しげに肩を揺らす。直謙は不思議なものを見る目で、そんな父を眺めていた。
直謙にとって父は長年、恐ろしく切れる頭脳と氷のような冷静さを持つ、雲の上の存在だった。
それが意外なほどにひょうきんで、捻くれたところのある人だと知ったのは、玉座を譲られる前後だろうか。以来、肩の荷を下ろした父に、こうして時折、私的な酒の席に呼ばれている。
空気が緩んだところで、はかったように、宦官が酒の燗と肴を携えて戻ってきた。
父も寄る年波には勝てず、背が縮み、髪も髭も真っ白になったものの、変わらず壮健そうだ。待っていたとばかりに杯を手にする父に、直謙は僅かな緊張と安らぎを覚えつつ、黙って酒杯を掲げた。
何かを語るわけでもなく、父子はただ無言で盃を傾け続ける。瞬く間に一本、二本と燗は空になり、三本目の酒を注ごうとする息子を制し、父はふと静かな目を向けた。
直謙は幾度か瞬きを繰り返し、やがて口元を苦笑に歪める。燗を机に戻し、彼は自嘲気味に呟いた。
「……因果とは、巡るものですね」
父は何も答えず、黙って杯を持ち上げる。
かつて直謙は父の命を受け、義弟の穏翊と共に、ある官僚父子を冤罪にかけた。その際、利用したのが義妹の澄蘭だった。
穏翊が澄蘭と温家の父子に、何か私怨を抱いているらしいことには気付いていた。それを晴らすため、父の命令を利用していると。
けれど、当時の直謙は気にもしていなかった。国という大器を守るために、小さな犠牲は仕方の無いことだと思っていた。礼国の伝統にそぐわない義妹を見下し、利用することに何の躊躇いも抱かなかった。
(崇義が蓮瓔を憎み、亡き者にしようと画策する。あの時と同じように……)
実際に、崇義の共犯であった姚氏は、「二十年前の事件を参考にして、『皇太子暗殺』という罪を蓮瓔に擦り付け、陥れようとした」と言っていた。自分のしたことが、今になって返って来たのだ。その知らせを聞いた時、直謙は目の前が真っ暗になった。
一言零して以降、沈黙を保ち続ける直謙に、父も無言を貫いている。幾度か手酌で杯を空けていた父が、やがて不意に口を開いた。
「……自分が血を流して、痛みを覚えて初めて、人は同じ傷を負った他人に意識を向ける。そういうものだ」
父の声はあくまで淡々としており、その言葉の真意を読み取ることは出来ない。慰めるようにも、窘めるようにも、諦めたようにも聞こえるその声を、直謙はどう受け止めるべきなのだろう。
ただ一つ分かるのは、父も、その光景に何かを思ったということだけ。
「……そうですね」
もっと早く気付いていれば、息子を止められただろうか。姚氏を思いとどまらせることが出来ただろうか。
いや、と直謙の冷静な部分が直ぐに否定する。見せかけの愛情、気遣いで翻意させられるほど、彼らが抱くのは軽い感情ではなかった。直謙は盃を持つ指先に、力を込める。
まだ半分も残っているその盃に、父が無理矢理酒を注ぎ込んだ。顔を上げると、父は加齢により曇った目で、真っ直ぐに直謙を見据えていた。
痛みも後悔も一人で抱え、隠し、人前では常に泰然と揺らがず、遥かを見つめる。それが皇帝の責務であり、背負った業。
直謙は小さく微笑み、黙って父に杯を掲げた。
(玲穎が、後宮に居てくれれば……)
皇妃になることを許されなかった女の姿が、ふと脳裏を過ぎる。直謙の価値観を塗り替え、道筋に大きな影響を与えた、彼の「運命」。
後宮を出て以降、一度も顔を合わせていないが、あの強く輝く瞳を一目でも見られれば、この苦難も耐えられただろうに。優しい彼女ならば、直謙が安易に逃げることを許さず、最後まで責務を全うするよう諭しただろう。
そんな甘えを見透かしてか、父が底光りする目でこちらを見ている。直謙は苦笑いを浮かべ、次々に注がれる酒を甘んじて受け止めた。
一つ一つの小さな判断、決意が、やがて運命を大きく変える。その時に悔やんでも遅く、人は選択の果てに辿り着いたその場所で、足掻き続けるしかないのだ。
直謙に今出来るのは、せめて崇義が苦しまずに最期を迎えられるよう、配慮をすることしかない。
直謙は苦い酒を飲み下し、月を喪った夜空に目線を向けた。




