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第45話 最終回

 

 同1891年(明治24)、退助は立憲改進党、大隈重信と会談、民党連合を形成、連携した。

 その後の民党連合と政府の官吏党は議会運営に於いて対立を深める。


 第二議会に於いて自由・改進両党は多数派を形成した。そして政府提出議案をことごとく否決、政府は直ちに議会を解散した。

 そして品川内務大臣は政府系機関を動員し、民党に対する選挙干渉を行う。

 買収、暴漢を使った警察官による脅迫、政府と関係する銀行、商社員、取引ある商工業者への投票行為妨害、選挙投票所前での暴漢奔走の威嚇行為。


 この結果、多数の有力民党議員が落選したが、それでも妨害にめげず依然として多数派を形成した。

 しかしその後も民党への干渉は続き、自由党のみならず立憲改進党も無事ではない。

 結果立憲改進党も求心力を得るため立憲革新党・大手倶楽部など国権派と合同し進歩党を結成した。

 進歩党は政府に近づき、次第に自由党は孤立化する。



 1896年(明治29)自由党はついに第二次伊藤内閣に協力する道を選んだ。

 退助は内務大臣として入閣する。


 しかし、そのことは世間の批判を浴びた。内務大臣とは、警察など治安維持を含む統制を職務とする部署であり、自由党などの民党はその弾圧を受ける立場だった。


 当然退助の入閣は裏切り行為にしか見えない。


 しかし、退助のその選択は決して裏切りではない。その逆であった。


 思い出して欲しい。退助は土佐藩時代、当時失脚中だったが土佐勤王党の武市瑞山を助けるため、ワザワザ審理する役目の大監察 (大目付)に復帰している。

 だから今回も自由民権運動を守るため、自ら取り締まりの本丸に飛び込み、彼らを守ろうと云うのだ。


 だが、そんな退助の本心を見抜けない世間は退助を批判、攻撃した。

 曰く「自由死すとも、板垣死せず」と。


 当時の新聞等で退助は伊藤博文、大隈重信と共に風刺界の大スターであった。

 けれども、退助は一切の言い訳をしていない。

 真意は自らの行動で証明する。


 余計な言い訳は見苦しいとでも考えていたようであった。

 内務大臣として退助は善戦した。だがアウェーでのその努力は所詮独りよがりの相撲に過ぎなかった。

 第二次松方内閣にも留任したが、その辺が限界だった。

 退助は内務大臣を辞任、真意を理解されないまま、1897年(明治30)無念にも自由党総理も辞任した。


 だが退助の存在はあまりにも大きく、抜けた穴は誰も埋められない。

 1898年(明治31)今度はそれまで対立していた進歩党と合同し、新党を立ち上げた。


 この時退助は、総理大臣就任を打診されている。

 しかし、彼は「それはワシの柄じゃない。」と云って断っていた。

 そしてまたしても内務大臣に就任。弾圧阻止に執念を燃やした。

 この時の内閣を有名な『隈板内閣』《わいはんないかく》と呼ぶ。


 日本初の政党内閣であった。(それまでの内閣は、表向き政党を装うが藩閥組織の域を出ていない。)


 しかし、所詮水と油。国権派が牛耳る旧進歩党と旧自由党は内紛に明け暮れ、4か月で崩壊、総辞職した。


 そして1900年(明治33)立憲政友会設立を見届け、退助は政界を引退する。


 引退後は機関紙を発行したり、華族の世襲禁止の活動に従事するなど、最後まで自由と平等と人権の確立のため戦い続けた。


 

そして1919年(大正8)7月16日肺炎のため薨去。享年83(満82歳)であった。



 ここであるエピソードを。


 退助は一切の財産を投げ打ち、自由民権のために供じたため次第に追い詰められ生活苦に陥る。


 1911年(明治44)維新の功により拝領した備前長船盛重の名刀を人を介して密かに売ろうとした。

「これはどこで手に入れたのか?」とその刀を持ち込んだ人に問うと、最初はためらったものの、その者は「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで『買い取ってもらうように』と頼まれて持参した」と打ち明けた。

  驚いた杉山茂丸は、「この刀は伯が維新の際にその功により拝領したものだと聞いているが…」と嘆息する。


 この後、「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからっている。


 何処までも頑固で決して信念を曲げない男。

 弱い者に慈愛の心をみせ、強い者を決して恐れない。(ただし、女性には弱かったが。)


 生涯この国に自由と平等と人権を確立させるため、戦い続けた。






 国会議事堂中央広間には議会政治の功労者である板垣退助、大隈重信、伊藤博文の銅像が鎮座する。

 だが、その台座はその3つだけではない。

 銅像がおかれていない台座がひとつ存在する。


 空席の台座。


 それは退助や重信、博文の志を継ぐ者のためにある。

 志を持ったあなたを待っているのだ。

 最後に退助は『自由死すとも板垣死せず』の風刺を自分流にこう理解している。


 即ち、『今、そして今後に於いて、自由を圧殺する者が出てきてもワシ(退助)が撒いた種である意思を継ぐ者が必ず現れる。自由が何度死んでも、必ず不屈の意思を復活させる。ワシが死んでもワシの意思は死なん。』







         おわり



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