とある街医者の娘
豊かで栄華を誇るスコールベス王国。王都から森一つ挟んだこの街にも様々な情報が流れてくる。監査はいつ、税の徴収は、王の生誕祭は、誰かしら口々に噂する。現王は優れた為政を行う。そう言っておそらく相違はないだろう。少なくとも、激しく不満をため込んでいるという話はあまり聞かない。一揆が起きるよりも奏上し便宜を図ることの方が浸透し、争いも諍いもほとんどない。平和。絵に描いたような平和だった。
とある話が私の耳に入るのは、他の噂が耳に入るのと同じように必然であったが、私にとっては千載一遇、まさに天の思し召しとしか思えなかった。
「王城で使用人を募集している。」
そう噂していた宿屋の女将に、詳しく話を聞いたのは聞くまでもない。
悲し気な顔をしたシートンは、数年前と表情こそ同じであったが、その細められた目の目尻に浮かぶ皺がその月日を感じさせた。
「……本当に行くのかい、キスツス。」
「ええ、今まで本当にありがとうございました、先生。そして申し訳ございません。」
「……ほかに、道はないのかい。」
「五年です。貴方にいただいた五年間をかけて熟考しました。それでも、それしか道はないのです。」
何もかも失くなってから、あの城から逃げ出して五年がたった。子供だった私ももう大人の部類に入り、荒れた政権交代も落ち着き国は安穏さを取り戻していた。
錯乱王アヴァール・ツヴェルシュタインの一人娘、コルキス・ツヴェルシュタインが死んで五年がたった。
平民に身分を窶し、医者であるシートン・トレラントの養女、キスツス・トレラントとして彼の手伝いをしながら一般常識やごく一般的な生活について学んだ。その間、患者や街の人々との交流も多くあった。しかし誰一人として私を城から逃れた王女だと疑う者はなく、孤児院でシートンが資質を見極め拾われた養女という設定を信じ切っていた。実際、そのような子供は少なくないらしく、いっそ不安になるほど自然に受け入れられてしまった。王女であったころ表にほとんど出たことがなかったことも幸いしたのだろう。言われるがままに髪を切り、平民らしい服に着替えれば一片の疑惑すら掛けられないまま簡単に紛れ込めてしまう。
ひどく平穏な五年間だった。
追っ手もなく、疑いを掛けられることもなく、誰かに命を狙われることもない。私のような罪深い人間が享受してはいけないと思うほどに、穏やかで幸せな日々だった。
「私は決して忘れません。いえ忘れてはいけないのです。私を生かすために自ら命を絶った方がいたことを、その恩に報いねばならないことを。」
ミオゾティスは、赤の他人であった。けれど誰よりも幼い私の側にいてくれた。母や父に何かを褒められた記憶はないけれど、彼女に褒められていたことは覚えている。
遊んでくれたことも、勉強を教えてくれたことも、記憶にある楽しいと感じたことはいつも彼女の側にあった。
ミオゾティスはただの侍女だった。
けれど私にとってミオゾティスはかけがえのない姉であった。
父が死んだのは因果応報だった。母が自害したのは仕方のないことだった。
けれど彼女は違う。彼女は生きることができたはずだった。私さえいなければ、彼女は無事に城から抜け出すことができたはずだった。
「私は、報いなければならないのです。」
「キスツス、『ねばならない』『しなければならない』という考えはやめた方が良い。その考え方は時に視界を狭くし、本心さえ見失わせる。」
「先生、逆なんです。」
「逆だって?」
苦しそうに諭すシートンに、やめました、忘れました、息をひそめ身を隠し、ささやかな幸せを抱えながら生きていきましょう、なんて言ったら、彼は笑ってくれるだろうか。それは口が裂けても、言えないのだけど。
「視界を狭くしなければ、復讐なんてできないんです。」
さらに歪められた顔から視線を逸らして、荷作りの済んだ鞄を見た。
「……君の言う復讐ほど、意味のない復讐はこの世にはきっとないだろう。」
「有意義な復讐など、そうあるものでもないでしょう。それこそ現王ルヴァンシュ・モルセールのような場合くらいで。」
「王城に行ったとしても、君はただ苛まれるだけだ。復讐を果たしたとして、果たせなかったとしても、君の手には何も残らない。何も得られない。」
「それで良いんです。私の手の中にはもう何もありません。失うものもなければ得るものない。それで結構です。」
ごめんなさい、それは嘘です。失いたくないものもあります。しかし私はそれを今ここに置いていきます。
それは言わない。言ってはいけない。口にすれば、きっと縋ってしまいたくなるから。縋ってしまえば、この心優しく親切な養父は困った顔して、それでも少し嬉しそうに私を抱き留めてくれるだろうから。
「私が欲しいのは、奪われた城でも、身分でも、まして王位でもありません。私が欲しいのは、私の愛した恩人に報いることができたという事実、彼女の最後の言葉を叶えることができたという事実だけです。」
確かなものなんて何も残らない。人からしたら無意味で、再び命を捨てるだけの行為。
それで構わなかった。誰に呆れられようと、誰に嘲笑われようと、彼の王を地獄に引き摺り下ろしてやろう。罪人の私は最初から地獄行きだ。ならば巻き込んでやろう。それが、ミオゾティスへの手向けになるなら。恩返しになるのであれば。
消毒用のアルコールの匂いもこれでお別れだ。窓から入る朝日を反射させる色とりどりな瓶の並ぶ戸棚を見るのもこれで最後だ。歩くと少し軋む床板も、太陽の匂いのするベッドも、寝転がると見える北斗七星のような板の目も、患者から掛けられる「ありがとう」の声も、磨きなれた鈍色の医療器具たちも、暗くなっても専門書を読む暖かい明かりの色も、帰ってくると掛けられる「お帰り」の声も、すべてここに置いていこう。
思い出すことすらなく、誰かに語ることもなく、何一つ私の手元には置かず、この街に残していこう。
無益な復讐譚に、ささやかな幸せも、暖かな声も、穏やかな見慣れた景色も必要ない。
必要なのは『次期王に呪いあれ』この言葉だけだ。
玄関の前で頭を下げると、頭上から慌てるような気配がした。
「本当にありがとうございました。この五年間のご恩、お返しできず申し訳ございません。親子ともども大変ご迷惑をおかけしました。」
「……キスツス、私は君のことを迷惑だと思ったことは一度だってない。君と過ごせた時間は、私にとってもとても意義深いものだった。」
顔がとても上げられなかった。声色に嘘の色は見えない。本心からそう言ってくれているということがうれしく、申し訳なかった。
「ただもし、君が恩返ししたいと少しでも思ってくれているのなら、お願いがある。」
上から降ってきていた声がやみ、頭を下げる私の視界にシートンの姿が映った。もはや王女でもなんでもない私にシートンは傅いた。
「どうか、どうかご無事で……。もう一度私にコルキス様のお姿をお見せください。」
「先生っ、私は、」
「最後まで言われますまい……貴女様の覚悟は重々承知の上、しかしどうか……、」
喉を焼くような悲痛な声だった。目を逸らすこともできず、私はただ懇願するよう見上げるシートンを見ていた。
「行って参ります。どうかお元気で、お父様。」
いつか戻るとも、約束することはできなかった。できるはずがなかった。するつもりなどないのだから。もし言って、彼が安堵した顔をしたとしても、それはあまりにも不誠実だ。
「このご恩、コルキス・ツヴェルシュタイン、生涯忘れません。」
膝をついたままのシートンに背を向け、扉を開けた。外の目が届くとわかった途端、シートンはさっと立ち上がりあくまで私の養父の顔をする。これもこの五年で染みついたことだった。
もし、もしも私の正体が人に知れたとき、どうか私のことを狡猾で恐ろしい小娘であったと語ってほしい。自身は騙されていただけなのだと、王女であるとは知らなかった。ただの憐れな孤児だと思い拾ったと。素知らぬ顔をしていてほしい。
私の選択は、恩を仇で返すような結果となってしまった。ミオゾティスを優先するがために、シートンに憲兵から掛けられる疑いの種を残してしまった。
だからどうか、そんなとき、一欠けらの情など持たないでほしい。王女だと知っていたならば突き出していたと、殺していたと。人を騙し利用するなど、罪人に相応しい所業であると、憤怒し罵ってほしい。