とある恩と呪いの夜
轟音が響いていた。叫び声、たくさんの人間の足音、金属がぶつかる音。外から、何かが押し寄せてくる。
つい昨日まで、賑わい豪華絢爛であった城の中はもぬけの殻だった。数人の足音と怒鳴り声だけがあり、美しい調度品も、飾られたバラの花も空虚なばかり。でもきっとこの空虚感もすぐになくなる。外にいる群衆が仲に入れば、何もかもが終わるのだ。
私は、何かしてしまっただろうか。いや、何もしてはいない。それでも、誰も私を許さないことくらいは知っていた。なぜ怒り狂う人々がいるのかも知っていた。
私が私である限り、咎を負うことになるのだろう。
「陛下、お妃さまがお亡くなりになりましたっ……!」
「どうせいつかは死ぬのだ。ただそれが今であったというだけ。いずれその知らせを聞くとは思っていた。刻一刻と命を削っているのだから。」
広間に飛び込んできた医者が顔を真っ青にして父に言った。しかし悪鬼の形相をした父にとってそれは些事だったらしい。
母が死んだ。
それほど寂しいとも思わなかった。だってきっとすぐに会えるだろうから。
「お母様は、どこに、」
「……お妃さまは、寝室に。しかしご覧にならない方が、」
「ありがとうございます。それから、」
草臥れた白衣をちょいと引けば壮年の医者、シートンはしゃがんで私の口元に耳を寄せる。
「早く逃げた方が良いですよ。もうお父様はあなたのことを気にもしていません。」
「ですが、」
「あなたは何も悪くないんです。なのにここにいてはあなたも殺されてしまう。」
この医者は心を病んだ母のために連れてこられた。自分にできることはなく、心の傷は自ら治すしかないといったシートンに、父はひたすら治せと命じた。断れば殺される。けれど治せずとも少なくはない報酬は支払われる。だからこそ残ったのだろう。しかしこのまま城に残ればきっと私たちもろとも殺されてしまう。
「私は、確かに医者としてここにいるだけです。罪は犯していないでしょう。しかしそれは姫も同じことです。貴女は何も責め立てられる謂れも、まして殺される謂れもありません。……私は逃げましょう。しかしそれならば姫も、」
「私は残ります。」
「姫、」
「私は罪人です。私は何もしてはいないでしょう。しかし、お父様の娘であることが、罪なのです。」
シートンは顔を歪めたが反論の言葉が見つからなかったようだった。彼とてわかっているだろう。一族郎党殺さねば、関係者の全てを殺さなければ怒る人々は収まらないだろうと。
どこか遠くで何かが壊される音がした。それに続き、雪崩れ込んでくる足音。城全体が揺れた気がした。
「シートン先生、行ってください。逃げてください。母を診ていただきありがとうございました。そして父が無理を言って申し訳ありませんでした。」
「コルキス様……、」
「早く。調理場の窯、奥から二番目の窯が地下通路の入り口です。……王都の外まで繋がっています。そこから逃げてください。」
いつか探検した時に見つけた地下通路。誰にも言わずに秘密にしていたが初めて人に教えてあげる時がこんな緊急事態だとは思わなかった。
シートンは少し逡巡するように私と広間の出口を交互に見た。一刻の時間もない。私たちなど目に映っていない父が、鎧を着こみ、何もない所に向けて剣を振るっていた。ああ今父が呼んだ名前は数年前何者かに暗殺された同僚の名前ではなかっただろうか。
「早く、」
「……申し訳ございません。私は先に出ています。コルキス様、どうか貴女様もすぐにお逃げください。」
心底悲しそうに言ったシートンに少し申し訳なくなる。けれど彼もわかっているだろう。私が逃げ出すことがないことを。
父を恐ろしげなものを見るような目で見た後、彼は出口へと走って行った。
喚く父を一瞥した後、母のいる寝室へと足を向けた。もう父とは会話をすることも叶わないだろう。今まで父自身が殺してきた亡霊と、これから来るだろう怒る人たちにしか、父の目は向いていない。
がらんとした廊下を歩いていくと、すすり泣く女性たちの声がした。きっと母の部屋だ。扉が開け放たれたままの寝室には数人の侍女たちがいた。近づくと、血の匂いがする。
「お母様。」
呼んでも、返事はない。代わりに侍女たちのすすり泣く声がぴたりとやんだ。暗い部屋の中で、青白い侍女たちの顔が浮いているように見える。彼女たちのいるベッドの側に寄ると、道を開けられ、横たわる母の顔が見えた。
綺麗な人のはずだったのに、見る影もない。眼は大きく見開かれ、口は断末魔をあげるように固まっていた。紙のように白い顔と、真っ赤に染まった首が対照的だった。
「お母様は、自ら?」
「は、はい……、突然花瓶をお割りになり、破片で首を……、」
「そう……、」
開いたままの口も、目も、閉じさせた。花瓶の破片を握ったままの手からも血がしたたり落ちていた。ふと思い出す。母は必死に手を洗っていた。何で汚れているのかは、知らない。しかし狂ったように一心不乱に手を洗っていた。丁度、彼女が病んですぐのときからだった。血に塗れた手を拭うと洗いすぎて皮のめくれた掌が見えた。
終わりだ、何もかもが終わりだ。
「あなたたちも、逃げなさい。もうここに残る義理もないでしょう。」
「……はい、申し訳ございません、コルキス様。」
侍女たちはパッと蜘蛛の子が散るようにいなくなった。おそらく彼女たちは大丈夫だろう。ただの侍女だ。見つかったとしても殺されることはない。振り返ることなく逃げだしたことに対して何ら思うことはなかった。
寝室に残ったのは、私と、冷たくなった母と、それから一人の侍女だった。
「何してるの、ミオゾティス。早くあなたも逃げなさい。」
「コルキス様は、どうなさるおつもりですか。」
「……私も後で逃げます。あなたも逃げなさい。時間がないわ。」
「コルキス様は嘘つきですね。」
緑色の目が私を少しだけ睨んだ。
嘘つき呼ばわりを叱ることはない。私の世話係だったミオゾティスは誰よりも私に近い場所にいた。歯車が合わなくなり、少しずつけれど確実にずれていった両親よりも、彼女が私の傍にいてくれた。
「……行きなさい。あなたにはとても感謝してる。あなたはここにいてはいけない。巻き込まれてしまう。」
他の侍女とは違い、ミオゾティスは若かった。10代後半、私よりも年上であったけど童顔に小柄なせいで見た目は私とほとんど変わらないとしに見えた。そのうえ、彼女の目は私たちによく似ている。そのせいで父の不義の子なのでは囁かれることもあった。
城にいては、彼女まで殺されてしまうかもしれない。彼女は無関係なのの。ただこの城で働いていただけだというのに。
「コルキス様、私は陛下に、お妃さまに、貴女様に感謝しているんです。身寄りのない私に、仕事をくださいました。たった一人の姫のお世話を私にさせてくださいました。それはとても名誉なことで、嬉しかったのです。」
「何を、」
「貴女様も、私にとてもよくしてくださいました。私が何か失敗をしてもお怒りになられることなく、クビにすることもなく御側に置いてくださいました。ここで働くことができたという恩は、決してお返しすることができないほどの大きさなのです。」
またどこかで大きな音が聞こえた。時間がない。それなのに、ミオゾティスはどこか穏やかだった。薄ら寒さを感じるほどに。
「ミオゾ、」
「お妃さまにはなにもお返しすることができませんでした。きっと陛下にも。私にできることは何もございません。……しかし、私は貴女様を逃がすお手伝いくらいなら、できると思うのです。」
彼女は侍女の証であるエプロンを脱ぎ捨てた。団子にまとめていた髪をすべて下ろしてしまう。何をしようとしているのかわからず、私はただ彼女を見ていた。
「今着ている服、これは以前コルキス様にいただいたものです。本来ならば私のような下等な者が身につけていいものではございません。ですが今これを着ることができていること、心から感謝いたします。」
ミオゾティスは寝室にあった棚の中から何かを取り出した。暗くて何を持っているかわからない。彼女は続けて言う。
「コルキス様、どうかお逃げください。きっと誰も気づきません。どうか、お逃げください。貴女様のご恩に、こうして報いることができるのが至上の喜びにございます。」
「っミオゾティス!待って!」
彼女の手の中で火が付いたとき、私はようやく彼女が何をしようとしているのかを理解した。
同じ背格好、私がかつて着ていた服、よく似た目、似た年恰好、死んだ母の部屋。
「やめて!逃げるから、私も一緒に逃げるから!ミオゾティス!」
「お役に立てて、嬉しいです。貴女様と過ごせたこと、私は決して忘れません。本当にありがとうございました。どうかコルキス様、お元気で。」
赤い光に照らされた頬が、濡れているように見えた。しかしそれも一瞬で。
擦られた幾本のマッチから火が吹き出し、もうもうと煙たつ。
「ミオゾティス!」
「もし貴女様が、ほんの少しでも私のことを覚えていてくださるなら、私には何の悔いもございません。」
燃えていく。毛足の長い絨毯も、カーテンも、ベッドも、みるみる火が移っていく。昼もさしも、部屋は明るく照らされた。
「ああでも一つ、」
私は煙に咳き込むのに、彼女は炎の中凛と立っていた。一際大きな声、両手を広げてこの世の全てに聞かせるように彼女は叫んだ。
「どうか、どうかこの城を襲った不届き者たちに罰をっ!忌まわしく愚かしい、身の程知らずに、死を!私から幸福も主も、何もかもを奪った者たちに復讐を……、次期国王に呪いあれ!!」
もう目を開けていることもできなかった。チリチリと服の端が燃えた。真っ赤な炎の中、ミオゾティスは立っていた。もう彼女なのか彼女でないのかわからない。黒い影が、微動だにせず幽鬼のように立っていた。
気が付けば、私は後ずさって走り出していた。
耳の奥に、彼女の言葉反響する。瞼の裏には真っ赤な景色に黒い影が浮かぶ。城のどこかから金属がぶつかり合う音がした。階段を駆け下りて、厨房につき窯へと走る。叫び声が聞こえた。地下通路に入ったとき、人々の歓声が響き渡る。
「国王陛下万歳!国王陛下万歳!」
喜びと賛美の声。国王陛下とは、私の父のことではないだろう。
父も、死んだようだ。
賛美の声を背中で聞きながら私は暗く狭い通路を一人、走った。
何もかも終わったと、何もかも諦め、何もかも忘れてしまおうと思っていた。
忘れてはいけない。私は忘れてはいけない。この日のことを、この日の恨みも、怒りも。私は、私だけは覚えておかなくてはいけない。
「次期国王に、呪いあれ……、」
口の中で呟いた言葉は、湿った通路の中に反響した。
「コルキス様、よくぞご無事で……!」
通路の終わりごろ、先に逃がしたシートンがいた。駆け寄った彼は少し躊躇してから私の頬を拭う。煤でもついているのかと思ったが、そこでようやく自分が泣いていたことに気が付いた。
「シートン先生、」
「お怪我は……火傷をされています、ここは暗いので、外に出てから診ましょう。」
「皆、死んでしまいました。」
ピタリと彼は検分する手を止めた。
悲しいとは、思っていないはずだった。殺されることも、何もかもを奪われることも仕方のないことだと、そんなこととっくに諦めていたはずだった。皆ともに逝けるんであれば、それは贖いの中の唯一の救いであると。罪人の娘として、粛々と死のうと思っていた。
「私は、これからの国のため、来たる為政のために死なねばいけませんでした。」
「それは……、」
「ですが私は、助けられてしまいました。逃げてしまいました。」
私は死ななければいけなかった。
彼女は生きなければいけなかった。
なのに彼女が死んでしまった。
ならば私は生きねばならない。
「私は、生きなくてはいけません。恩人のため、命を賭して私を助けてくれた方のために。」
「恩人、」
「死んだ彼女の悲願を、果たさなければなりません。」
本来であれば、こんなことシートンに言ってはいけない。彼は私の代わりに死んだ一人の侍女のことなんて一欠けらも知らないけれど、誰にも告げてはならないことだった。死を偽装した彼女のことを知っているのは私だけでなくてはならない。けれど私は話してしまった。誰かに思いを話さなくては、遣り切れなかった。
「次期国王に、呪いあれ。」
シートンは悲し気に眉を顰めた。そしてそれを咎めることも怒ることもなく、黙って私を抱き上げた。暗い地下通路を私を抱えたまま歩き出す。
「コルキス様、外に出たら火傷の治療をしましょう。それから膝も擦り剝いています。悪い菌が入る前に清潔にすれば、跡が残ることもありません。……ああ、その髪も切った方がよろしいでしょう。貴女様ほどの長さとなるとすぐに高貴な身分であることが知れてしまいます。」
「シートン先生、」
「お嫌でしょうが、仕方がありません。市井で暮らしていくためには街並みになじむ必要があります。若い女性の間では短い髪も流行っているようです。きっと貴女様にもよくお似合いですよ。」
「違います、先生。これ以上先生にご迷惑をおかけするわけには……、」
「ではどうなさるおつもりなのですか、お一人で。」
返す言葉もなく、口を引き結んだ。
行く当てなどあるはずもなかった。しかしこれ以上彼に迷惑を掛けたくないのも事実だった。ただでさえシートンには迷惑をかけてきた。実質的に迷惑をかけたのは私ではないが、実の父である。治せるはずのない病を治せと迫り、治せぬと言えば罵り。錯乱した父の側に寄るのはいつ斬り捨てられてもおかしくない危険を孕んでいて、挙句の果てこれだ。シートンは医師であり、父はその雇い主ではあったが、傍若無人な振る舞いにも限度というものがある。
黙りこくった私に呆れるでも追及するでもなくシートンは続けた。
「……ちょうど娘が欲しいと思っていたところなんです。」
「っですが、もしそれが知れれば貴方が、」
「その時はその時でしょう。そんなことよりも、貴女様のことです。」
階段を上る。もう通路の出口なのだろう、地下とは違う匂いがした。
「貴女様はまだ幼く、これからの未来はいくらでも何とでもなります。……ひとまず、身体も心もお休めください。それからじっくり、また考えていけばいいのです。」
遠回しに考え直せと言うシートンに私はただ無言を返すことしかできなかった。
どこかから歓声が轟く、月のない夜だった。
私とシートンは、深く重々しく大地に根を下ろす森の中へと紛れていった。
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一夜にして、スコールベス王国の国王が倒されたことが広まった。そして新たな王政がたったことが知れ渡る。新たな王は年若いものの何一つ反対の声も上がることなく、王位についた。
「ルヴァンシュ王万歳!」
ルヴァンシュ・モルセール。
錯乱王と呼ばれたアヴァール・ツヴェルシュタインが謀殺したとされる王、フィブオ・モルセールの息子であった。錯乱王さえいなければ王位を継いでいたはずのルヴァンシュの、仇討ちの末の即位。父たるフィブオ謀殺後、隣国に亡命していたルヴァンシュだが、その国で品位を磨き更なる教養を得た。そんなルヴァンシュに異論を唱える者がいるはずもなかった。
錯乱王の首は衆目の前に晒された。しかし晒されたのは王のみであった。王妃、ツヴァルシュタイン夫人とその娘は焼死体として見つかったためであった。それが晒される屈辱を厭うたためか、それとも彼女たちもまた王と同じく錯乱していたのか、それはもう誰にも分らない。
国中が新たなる若き王の即位に湧いた。
誰一人、逃げ去った侍女と姿を消した医者を探す者はいなかった。




