決着
相手投手がセットに入った。
二死二、三塁。
三対二。
遊撃手が右打席で、静かにバットを構えている。
三塁には右翼手。
二塁には後輩。
二人とも、投球と同時に動けるように少しだけ腰を落としていた。
僕たちはベンチの前に並んでいる。
声を出しているのは肉屋と元四番くらいだった。
「一本でいいぞ!」
「抜ければ二人還れる!」
遊撃手は振り返らない。
相手投手だけを見ていた。
初球。
外角への真っすぐ。
バットは動かない。
「ボール!」
わずかに外れた。
相手捕手が返球する。
銀髪の遊撃手が守備位置を少しだけ変えた。
三遊間を詰めたわけではない。
前へ出たわけでもない。
ほんの一歩。
打者と走者を見て、自分が一番動きやすい場所へ立ち直っただけだった。
二球目。
内角への真っすぐ。
遊撃手が振る。
鋭い音。
打球は三塁側へ切れた。
ファウル。
一ボール一ストライク。
「合ってるぞ!」
元四番が声を飛ばす。
遊撃手は一度だけバットを回し、構え直した。
三球目。
低めへの変化球。
途中までバットが出る。
止めた。
けれど。
「ストライク!」
一ボール二ストライク。
遊撃手が少しだけ口元を歪めた。
判定に不満があるわけではない。
追い込まれた。
ただ、それだけだった。
相手投手がボールを受け取る。
二塁の後輩が、少しだけリードを広げる。
三塁の右翼手も同じだった。
次の一球で終わるかもしれない。
次の一球から、まだ続くかもしれない。
遊撃手が打席の土を踏み直した。
初めて会ったときから、あいつは軽かった。
冗談を言って。
少し生意気で。
どこか余裕があるように見えた。
この試合で初めて、自分より明らかに上にいる遊撃手を見た。
それでも。
「みんなで勝てばいいんだ」
そう言った。
今も、銀髪の遊撃手を見てはいない。
勝つ相手は、あいつ一人じゃない。
相手投手が足を上げた。
四球目。
外角へ向かう真っすぐ。
少しだけ中へ入る。
遊撃手が踏み込んだ。
バットが出る。
捉えた。
低い打球が、三遊間へ飛んだ。
「抜けろ!」
誰かが叫んだ。
僕も、同じことを思った。
速い。
低い。
三塁手の横を抜ける。
左翼へ抜ければ、三塁走者は確実に還る。
二塁の後輩も、もうスタートを切っていた。
一点。
いや。
二点。
一瞬だけ、そんな景色が見えた。
銀色が動いた。
相手の遊撃手だった。
打球が飛んでからではない。
音がしたときには、もう最初の一歩を切っていた。
三塁方向へ走る。
間に合わないように見えた。
それでも、さらに身体を伸ばす。
地面と平行になるように飛んだ。
右手のグラブが、低い打球の先へ入る。
白い球が消えた。
銀髪の遊撃手が、土の上へ落ちる。
グラブは閉じたままだった。
数秒にも満たない時間だったと思う。
誰も声を出さなかった。
銀髪の遊撃手が、ゆっくりとグラブを上げる。
中に、ボールがあった。
「アウト!」
審判の声が響いた。
後輩が二塁と三塁の間で止まった。
三塁の右翼手も、ホームへ向かっていた足を止める。
遊撃手は一塁へ走りかけたまま、立ち止まった。
スコアボードを見る。
三対二。
変わらない。
「ゲーム!」
終わった。
僕たちは、勝てなかった。
遊撃手はしばらく打席の近くに立っていた。
銀髪の遊撃手が起き上がる。
ユニフォームの胸と膝には土がついていた。
それでも、ボールは最後までグラブの中にあった。
遊撃手が小さく息を吐く。
それから、ベンチへ戻ってきた。
「悪い」
最初に出た言葉は、それだった。
「何で謝るんだよ」
元四番がすぐに返す。
「抜けたと思ったんだけどね」
「俺も思った」
肉屋が言う。
「俺もです」
後輩も戻ってくる。
布団屋が、いつもの調子で言った。
「いい当たりでしたよ」
「それ、慰めになってる?」
「事実です」
遊撃手が少し笑った。
「そっか」
「最後に回ったのが、お前でよかった」
遊撃手が僕を見る。
「……それ、負けたあとに言う?」
「打っただろ」
「捕られたけどね」
「それでも」
少しだけ間があった。
「そっか」
今度は、さっきより少しだけ笑った。
右翼手が出た。
後輩がつないだ。
同期が送った。
僕も、抜けてもおかしくない打球を打った。
最後に遊撃手が、もっといい打球を打った。
それでも。
向こうが取った。
ほんの少しだけ。
最後まで、その少しが届かなかった。
僕たちはベンチを出た。
相手チームも一列に並ぶ。
銀髪の遊撃手も、その中にいた。
さっきまで土の上を飛んでいたとは思えない顔で、こちらを見ている。
「ありがとうございました!」
両チームの声が重なった。
頭を下げる。
顔を上げた。
負けた。
それは変わらない。
悔しい。
当然だった。
でも。
肩を壊したあの日とは、少し違った。
あのときは、何も残っていないと思った。
今日は違う。
僕たちは、持っているものを全部出した。
それでも、一歩だけ届かなかった。
だったら。
その一歩がどれくらい遠いのか。
今は、もう少し知りたかった。




