第一章 吹雪の夜の逃亡
外が荒れ狂うかのような吹雪に見舞われていた、ある日のこと。俺は休憩のために、ロリアーナ嬢のもとから一時離れ、執事室へと向かっていた。
ふと、廊下の窓に目を向ける。空は黒く濁った雲に覆われ、強風が窓をしきりに打ち続けていた。
ここブライダル王国は北の最果てに位置しており、年における降雪期間が半年以上も占める。そんなブライダル王国で暮らす俺たちにとって、この光景はもはや見慣れたものだ。
執事室に到着し、中に入ると、一人の女性が先にソファでくつろいでいた。茶髪のシニヨンが特徴的な、家令のオルガ婦人だ。喪服のような濃紺のドレスは、常に厳格な彼女の性格を表しているかのようである。
オルガ婦人と目が合い、俺は「お疲れさまです」と会釈する。すると、オルガ婦人は待っていたとばかりにすっくと立ち上がり、吊り上がった眉をそのままに告げた。
「あんた、今夜はワインセラーの業務もやっておきなさい」
俺はすぐに返事しながらも、内心で焦りを募らせた。ワインセラーでは、ワインを良質な状態で保存するため、執事が定期的に温度や湿度の調節を行っている。これにはワインに関する知識を必要とするため、経験が浅い俺には難題な仕事だったのだ。
とはいえ、怒ると恐ろしいオルガ婦人の前で弱音を吐くわけにはいかない。俺は大きくため息を吐きたい気持ちを押し殺し、平然と振る舞った。休憩を終えて執事室を出たところで、俺はたまりにたまった息をぶふうと吐いた。
「ずいぶんと大きなため息ですね」
柔和な声が背後から聞こえ、俺は慌てて振り返る。視線の先では、見知ったご老体がほっほっと笑いながら立っていた。白髪を一つ結びにし、俺と同じ黒のタキシードを着ている。
このお方は、オルガ婦人の次に身分が高い、上級使用人のバトラーさんだ。物腰が柔らかく、部下にも気さくに接してくれるため、俺もこの人の前では緊張を解くことができる。かのロリアーナ嬢も、幼少のころはよくピアノの演奏をしてもらったと前に語られていた。
「脅かさないでくださいよ」
安堵しながらそう返すと、バトラーさんは笑みをそのままに言った。
「それは失礼。初めてワインセラーの業務を命じられて、不安に感じていることだろうと思ったもので」
「ご存じだったのですか?」
俺の問いに対し、バトラーさんはこくりとうなずいて答える。
「今回アスームくんに任せるのは、事前にオルガさまと打ち合わせて決めたのですよ。私がアスームくんのフォローをすることもね」
それはありがたい限りだと思い、俺は恐縮しながら礼を言った。よくわからないまま手を付けようものなら、何十年と熟成したワインを一瞬で台無しにしかねない。そうなれば、解雇になるだけでは済まされないだろう。
時間を見つけて指導すると約束していただいたあと、俺はバトラーさんと別れた。立ち話が少し長くなってしまったので、早足でロリアーナ嬢がおられる私室へと向かう。
中に入ると、ロリアーナ嬢はソファに腰かけ、演劇に関する専門書を読みふけっていた。やはり長く待たせてしまったようで、ロリアーナ嬢はむくれながら「遅いわよ」とお怒りになった。
「何か話でもしていたの?」
ロリアーナ嬢の問いに対し、俺は隠すことでもないと思い、素直に打ち明ける。
今夜にワインセラーの業務を行うよう命じられたこと。初めての業務なので、バトラーさんに指導の時間を作ってもらったこと……。一通りを話したのだが、ロリアーナ嬢は業務のことなど知ったことではない様子だ。
「なるほど、今夜は夜遅くまで起きているのね……」
にやりと上がった口角を片腕で隠しながら、ロリアーナ嬢はそう呟かれた。
ロリアーナ嬢のそばに仕えてから、かれこれ九年ほど経つ。彼女が浮かべておられる悪ガキのような顔を見て、俺は悪巧みをしておられるのだとすぐに勘繰った。
「一体何を企んでおられるのです?」
呆れ気味に俺が問うと、ロリアーナ嬢は慌てふためきながら「何もないわよ!」とはぐらかした。俺がじいっと訝しげな目で見つめるも、ロリアーナ嬢はそっぽを向きながら口笛を吹き、白状する気がない。埒が明かないと思い、俺はため息とともに詮索を諦めることにした。
「ねえ、アスーム」
突然ロリアーナ嬢から声をかけられ、俺は目を丸くする。
「いかがなさいましたか?」
俺がそう尋ねるも、ロリアーナ嬢は何か葛藤しておられるようで、すぐに話そうとしない。俺が首を傾げていると、ロリアーナ嬢はしばらくの沈黙の末、口を開いた。
「今から言うことは他言無用でお願い。誰かに姿を見られるのもだめ。そのワインセラーでの業務が終わったら、執事室に戻らないで私の寝室に来てほしいの」
ロリアーナ嬢の決然とした目を見て、これも演劇絡みのことなのだろうと想像する。であるならば、ロリアーナ嬢のわがままに過度な加担をするわけにはいかない。そう思い、俺はとりあえず丁重にお断りしてみた。
「もし言うことを聞かなかったら、あなたに襲われかけたってお父さまに言いつけるわよ」
予想どおり脅迫されたので、俺は仕方なしに了承した。
吹雪の激しさは衰えることなく、深夜になっても続いている。王家や執事たちが寝静まる中、俺はランタンと革靴を手に持ち、ロリアーナ嬢の寝室へと向かっていた。
バトラーさんの丁寧な指導のおかげで、業務のほうは失敗せずに終えられている。問題は、廊下を巡回している近衛兵たちだ。
この時間になると、数十人もの近衛兵が城の各所で見回りを行う。彼らに姿や影を見られてはならないし、足音も立ててはならない。そのために革靴は脱ぎ、窓や壁がけ燭台の明かりはできるだけ避けるようにした。
どうにか寝室前に辿り着き、俺は指示されたとおりのリズムで、扉を小さくノックする。俺が来たと伝わってくれたようで、ロリアーナ嬢は手早く扉を解錠した。
半分ほど開いた扉の隙間からロリアーナ嬢の手が伸び、俺の片腕を掴んで中に引き入れる。ここでようやく、ロリアーナ嬢のお姿を目にしたわけだが、俺はその変貌ぶりに思わず唖然とした。
無理もない。彼女は就寝のためのネグリジェではなく、苔の色をした地味なチュニックワンピースを着ておられた。そして何より、ハーフアップにまとめていた金髪を切り落とし、ショートカットの髪型に変えていたのだ。よく見ると、床には切り落とされた彼女の髪が見る影もなく散らばっていた。
「まるで庶民の格好ではないですか。一体全体いかがなされたのです?」
俺が問うと、ロリアーナ嬢は真剣な面持ちをそのままに答えた。
「あなたなら協力してくれると思ったのよ」
一体何を、と重ねて問おうとしたが、俺は察しがついてしまい口を止めてしまう。
ロリアーナ嬢が何か企んでおられるときは、大方演劇が絡んでいる。夜中に信頼できる者と密会し、計画を実行するとなると、その計画が何なのかは自ずと絞られる。
ロリアーナ嬢は俺の腕をぎゅっと掴み、言葉を続けた。
「聞いて、アスーム。今から近衛兵たちの目を盗んで、王城から抜け出して逃亡する。それにあなたも付いてきてほしいの」
「……それは、演劇の道へ進まれるためのご決断ですか?」
俺の問いに対し、ロリアーナ嬢は無言のままこくりとうなずく。
「あなたには、次期国王となる責務があるはずです。そう簡単にご決断をなさっていいのですか? リシャール王があなたに裏切られたらどれほど悲しまれるか、お考えになりましたか?」
われながら相当意地悪な物言いだと思った。だが、国への裏切りが、一時の気の迷いで決断していいものでないのは確かだ。
俺の説得に対し、ロリアーナ嬢はうつむいて涙ぐみながらも、思いの丈を口にした。
「わかってる。お父さまには本当に申し訳ないことをしていると思う。それでも、どうしても諦めきれないの。アテナの舞台に立つのを夢見ながら、あなたと稽古に励んだ日々を無駄にしたくないの。だから、お願い、アスーム」
ロリアーナ嬢を泣かせる気はなかったので、俺はこれ以上責めるのを止めた。ブライダル王国とロリアーナ嬢のどちらを選ぶか、俺は視線を落として黙考する。
この九年間、ロリアーナ嬢と共に過ごしてきた日々が脳裏に蘇った。初めて言葉を交わした日、わがままに振り回された日々、そして、共に演劇の稽古に励んだ日々――。今まで何のために仕えてきたのか、俺は自らに問いかける。
演劇に心血を注ぐ彼女を止めなかったのは、従者だからという単純な理由などではないはず。彼女の演劇に対する熱意と才能を、誰よりも信じていたからではないのか。今こそが、アテナの舞台を夢見る彼女を支えてやるときではないのか。
不安の色を浮かべているロリアーナ嬢に対し、俺は決意を固めて言った。
「急ぎましょう、ロリアーナ嬢。見回りをしている近衛兵の位置は、おおよそ把握しております。私があなたを裏口までご案内します」
俺の言葉を聞き、ロリアーナ嬢はぱあっと晴れやかな表情を浮かべ、歓喜のあまり俺に抱きついた。
その後、ロリアーナ嬢は俺に防寒具を手渡してくれる。毛皮の手袋、フード付きコート、そしてスノーブーツだ。俺は手袋とコートを先に身に着け、頭をフードで覆い隠した。
隣を見ると、ロリアーナ嬢は大きな巾着袋を抱え、すでに同じ格好になっておられた。こうなるといよいよ、城下町の裏路地に潜んでいるようなこそ泥と外見が大差なくなってしまう。
支度が済んだところで、俺たちは目を合わせてうなずき、逃亡を開始する。ランタンとスノーブーツを手に持ち、ロリアーナ嬢と共に寝室を後にした。
近衛兵と鉢合わせないように道筋を判断し、ロリアーナ嬢を先導していく。用心深く行動した結果、どうにか衛兵に見つかることなく、一階に辿り着くことができた。
さらに先へ進み、裏口前の曲がり角まで来たところで、俺たちはいったん足を止めた。そして、壁際に並び立つ甲冑の陰に身を隠す。
「裏口の扉の前では、近衛兵が見張っております。最後に彼らを誘導して、扉から遠ざけなければなりません」
声を潜めて説明すると、ロリアーナ嬢は両手で口を押さえたままこくりとうなずいた。ロリアーナ嬢にランタンと靴を預け、俺は一人で曲がり角へ向かおうとする。
途端、周囲を灯すランタンの明かりに、大きな影が重なった。何だと思い後ろを向き、視線の先にいる人物を見て、俺たちは跳び上がって悲鳴を上げかける。
俺たちの前には、なんとバトラーさんが立っていた。ロングコートを着ており、片手にはスノーブーツを持っている。そして、夜逃げしている俺たちを目の当たりにしながら、不気味なほどに柔和な笑みを浮かべ続けている。
なぜ気づかれたのかと尋ねようとしたが、バトラーさんは手を上げてそれを遮った。そして、人差し指を立てて静かにするよう合図し、口を開く。
「アスームくんがなかなか執事室に戻ってこないから、心配になって捜していたのです。そして、密かにロリアーナお嬢さまの寝室へと入っていく姿を偶然見つけました。扉の近くで聞き耳を立て、それでお二方が逃亡なさろうとしていることを知ったのです」
納得するとともに、俺は自分の不注意で見つかってしまったことを悔やんだ。そして、バトラーさんに頭を下げて懇願する。
「バトラーさん、お願いします。ロリアーナ嬢のアテナに出演する夢を叶えてあげたいのです」
ロリアーナ嬢も頭を下げたが、バトラーさんは首を振り、いつもの柔らかな声で言った。
「私などに頭を下げる必要はありませんよ。私はお二方のご決断を立派だと思います。そして、お二方の味方であり続けることを、僭越ながら願っております。たとえそれが、王国を裏切る決断になろうとも」
予想外の言葉に、俺は唖然としてしまう。その一方で、ロリアーナ嬢は感極まってバトラーさんにも抱きついていた。
「すぐにでも城から離れましょう。夜明けまでに王国から逃亡できるかわかりませんから」
バトラーさんの呼びかけに、俺たちは無言のままうなずいた。
当初の予定どおり、俺は二人を置いて先に曲がり角へ向かう。顔だけを出して覗き込むと、少し広めに設けられた空間の先に、裏口の扉が見える。そして、その扉の左右に二人の兵士が立ち、見張りを続けていた。めったに異常が起こらないからか、二人とも退屈そうにしているようだ。
二人が談話をし始めたところで、意を決して作戦を決行する。俺はポケットにある懐中時計を手に取り、扉から遠く離れた所の壁を目がけて放り投げた。懐中時計は壁にぶつかり、ガシャンと大きな音を立てて落ちた。
見張りの兵士たちが何事かと慌てながら、騒音のしたほうへ走っていく。俺は後ろで隠れている二人を手招きして呼んだ。そして、兵士たちが振り返らないうちに急いで駆け抜け、扉から外へ飛び出した。
扉を開けるときの軋む音で、さすがに兵士たちもこちらの存在に気づいたようだ。すぐに後を追いかけてきたが、外は吹雪が吹き荒れており、少し先を目視することすらままならない。俺たちは兵士に見つからないうちに、裏門から続く雪が積もった石橋を一目散に駆け抜けた。
どうにか振りきることができ、俺たちは足を止めることなく王城を後にする。雪の冷たさでさすがに足の裏が痛みだしたので、俺たちは各々の靴を履いた。
いつにも増して激しい吹雪は、自分たちの身を隠すのに一役買ってくれた。ランタンだけが灯る夜中の城下町は人気がなく、しんと静まり返っている。石畳の道のみならず、レンガの邸宅や古びた木造の民家も、荒天により等しく大雪に見舞われていた。
道なりに歩いていたところ、突然ロリアーナ嬢が足を止められる。俺たちが気になって振り返ると、ロリアーナ嬢は遠くにある壮観な佇まいの王城を見上げておられた。
彼女はリシャール王のご期待を裏切ったので、相当な罪悪感を抱いておられることだろう。俺も、王への裏切りに加担したことを思うと、同様に罪悪感が湧いてしまう。
それでもなお、俺は見届けたいと思った。演劇の才能を秘めたロリアーナ嬢が、どこまで輝けるのか。そして、アテナの舞台に立つ夢を叶えられるのか。執事の職を手放し王国を裏切る決断をしたことを、俺が後悔することはないだろう。
俺はロリアーナ嬢に、とある言葉について話した。陽気な道連れは旅の音楽という、古くから伝わることわざである。
自分たちの決断は褒められるものではないが、新たに選んだ演劇の道も陽気なものになってくれるはず。そう励ますと、ロリアーナ嬢はわずかながら笑顔を取り戻してくれた。




