第4話 『職場に舞い降りた、銀色の毛玉』
その日、俺たちの店を襲ったのは、聖騎士の襲来よりもずっとタチの悪い事件だった。きっかけは、ディアボロが厨房の奥で見つけてきた、出所不明の古いクリスタルだった。本人は「我の魔力を増幅させ、至高のパンナコッタを瞬時に冷やすための触媒にする」とか何とか豪語していたが、その禍々しい結晶体が俺の目に止まった時には、もう手遅れだった。
「マスター、それ、絶対にやばい代物じゃ……」
俺の言葉が終わるより早く、パリンという乾いた音が響いた。ディアボロがその結晶を、磁器のように白い指先で無造作に握りつぶしたのだ。瞬間、厨房は眩いばかりの銀色の光に包まれ、俺はとっさに小麦色の手で目を覆った。
「アル……。なぜ、我の視界が、先程から急激に床へと近づいているのだ……?」
光が収まった後、足元から聞こえてきたのは、いつもの威厳に満ちた低音ではない。どこか頼りなく、しかし不遜さを隠しきれない、鈴を転がしたような高い声だった。
俺がおそるおそる視線を下げると、そこには燕尾服の残骸と、後頭部を結んでいたはずの銀のリボンが虚しく散らばっていた。そして、その布の山の中心で、一匹の生き物がもぞもぞと動いている。
「……マスター?」
俺が呼びかけると、銀色の長い毛に覆われた「それ」が顔を上げた。ルビーのような深紅の瞳、誇り高くピンと立った耳、そして背中まで流れる絹のような銀の毛並み。かつて世界を恐怖に陥れた魔王は、手のひらに乗るほどではないが、抱き抱えるにはちょうどいいサイズの、見事な長毛の猫に成り果てていた。
「貴様、何を間抜けな顔で我を見下ろしている。早く我を拾い上げ、高い位置から厨房を監視させろ。この視点では、小麦粉の袋すら巨大な魔獣に見えて不快だ」
猫になっても、その口の悪さと傲慢さは少しも変わっていなかった。だが、その愛くるしい口元が動くたびに、ぴくぴくと揺れる白い髭が俺の理性を削っていく。
「……マスター、これ、魔力の暴走ですよね。さっきの石のせいで、マスターの魔力が底をついたんでしょう。元の姿に戻るまで、どのくらいかかりそうですか」
「ふん、我が魔力の回復速度を侮るな。……まあ、おそらく丸一日はこの姿のままだろうな。アルフレッド、何をしている。早く我を抱けと命じているのだ!」
俺は溜息を吐きながら、小麦色の手を伸ばした。普段なら、この手に触れるのは硬い魔王の皮膚だ。だが、今の俺の指先が触れたのは、信じられないほど柔らかく、弾力のある極上の毛並みだった。
「……あ」
「な、何を呆けている。さっさと持ち上げ……。貴様、その指の動きは何だ! 顎の下を執執に攻めるな! 貴様、不敬だぞ!」
俺の指が、無意識に猫化した魔王の顎の下をくすぐっていた。柔らかい。驚くほどに、そして我を忘れるほどふわふわしている。
勇者としての誇りが、これは魔王だぞ、と警鐘を鳴らす。だが、料理人としての指先が、この極上の素材を放っておくなと囁くのだ。
「すみません、つい手が滑りました。……ほら、マスター。今日はもう臨時休業にしますから、奥の部屋で寝ていてください。その姿で客の前に出るわけにはいかないでしょう」
俺が抱き上げると、ディアボロ……いや、銀色の毛玉は、俺の腕の中で「ぐるる」と喉を鳴らした。本人は威嚇のつもりだろうが、猫の構造上、それは甘えの音にしか聞こえない。
「待て、アル。営業を休むなど許さぬ。我が城の看板に泥を塗るつもりか。今日の我は看板猫としてカウンターに鎮座し、客どもを威圧してやろう。王としての威厳は、姿形が変わろうとも不変なのだ」
「無理です。あんた、鏡を見てください。威圧感ゼロですよ。むしろ誘拐されます」
俺は必死にディアボロを説得したが、魔王の強情さは猫になっても健在だった。結局、俺は彼を厨房の隅に設置した高い椅子に座らせることで妥協した。もちろん、客から見えないようにカウンターの陰で、クッションを座布団代わりにして箱座りさせている。
だが、運命というのは常に残酷だ。ランチタイムのチャイムと共に、またしてもあの金属音が店の外から聞こえてきた。俺は咄嗟に布巾をかぶる。
ガシャン、ガシャン。
「ほう。今日もいい香りがするな。店員さん、いるか?」
入ってきたのは、やはり聖騎士団のガイルだった。彼は俺の正体を疑っているが、確信には至っていない。俺はとっさにカウンターの下で、飛び降りて暴れようとする銀色の毛玉を、スラックスに包まれた俺の足の間に挟み込んで、必死に押さえつけながら言った。
「……ガイルさん。今日はあいにく、マスターが体調を崩しまして、簡単な軽食しか出せないんですが」
「体調を? あの威圧感の塊のようなオーナーがか。それは心配だな……。む? 店員さん、足元で何か動いていないか?」
ガイルが怪訝そうにカウンターの奥を覗き込もうとする。俺は必死に脚に力を込め、暴れる毛玉をはさんで固定した。
「いえ、何も! ネズミですよ、大きな銀色のネズミです!」
「貴様、我をネズミと呼んだか! 万死に値するぞ!」
ディアボロが足元で叫ぶ。だが、ガイルの耳には「ミャー! ミャー!」という、可愛らしい鳴き声にしか聞こえていないようだった。
「ほう、ネズミにしては随分と澄んだ声だな。見せてくれないか。私はこう見えて、小動物には詳しいんだ」
ガイルが身を乗り出す。俺はとっさに、ディアボロをひっ掴んで背中に隠した。
「だ、ダメです! このネズミは非常に凶暴で、噛み付かれると魔王の呪いにかかるんです!」
「魔王の呪い? 穏やかではないな。ますます興味が湧いてきた。レオナルド、網を持ってこい!」
「持ってこなくていいです! 帰ってください!」
俺は背後で爪を立てて俺のベストを引き裂こうとしている毛玉を必死でなだめながら、ガイルを追い返そうとした。だが、ディアボロは怒りの限界だったらしい。俺の小麦色の腕をすり抜け、銀色の閃光となってカウンターの上に飛び出した。
「下俗な人間よ! 我をネズミと呼んだ無礼、その命で贖うが良い!」
ディアボロが勇ましく叫び、ガイルの鼻先に飛びかかった。ガイルは驚いて身を引いたが、その瞳は恐怖ではなく、未知の感動に輝いていた。
「……なんと。これほどまでに美しく、気高い猫がいるとは。銀色の毛並み、深紅の瞳。まさに、猫の中の王ではないか」
ガイルはとっさにディアボロを空中でキャッチし、その逞しい腕の中に閉じ込めた。
「放せ! 貴様、この魔王の体に触れるとは……。あ。おい、そこを揉むな! やめろ、我は……ぐる……ぐるるる……」
ガイルの手は、流石に歴戦の戦士なだけあって、ツボを捉えるのが驚くほど上手かった。ディアボロは必死に抗おうとしていたが、次第に瞳がトロンと溶け始め、その銀色の尻尾がリズミカルにパタパタとガイルの腕を叩き始めた。
「よしよし、いい子だ。名前は何というんだ?」
ガイルが満面の笑みで俺に尋ねる。俺は顔を布巾の上から抑えながら、深い溜息を吐き、答える。
「……ディア、です。オーナーの大切な飼い猫なんですよ。だから、早く返してください」
「ディアか。いい名前だ。オーナーにそっくりな、傲慢で美しい猫だな。ハッハッハ!」
ガイルはしばらくディアボロをもふり倒した後、満足げに店を去っていった。扉が閉まった瞬間、ディアボロは椅子から飛び降り、床に転がって激しく毛繕いを始めた。
「屈辱だ……。あのような人間に、我の聖域を蹂躙されるとは。アル、なぜ黙って見ていた!」
「仕方ないでしょう。あんたが自分から飛び出したんですから。……でも、マスター、案外気持ちよさそうでしたよ」
「貴様の見間違いだ! 我はただ、あやつの隙を窺っていただけだ!」
ディアボロはそう言いながらも、自分の銀色の前足で顔を洗い、またしても喉を鳴らした。魔力低下による猫化。それは、ホワイトな職場に訪れた、史上最高に柔らかく、そして史上最高に胃の痛い一日だった。
俺は小麦色の指先に残るもふもふの感触を思い出しながら、明日、元の姿に戻ったディアボロに何を言われるかを想像して、再び深い溜息を吐いた。
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