第26話 『幻のドラゴンの逆鱗と、魔王の不機嫌な執着』
王都の朝は早い。石畳を叩く馬車の音や、開店準備を急ぐ商人たちの威勢の良い声が、職人街の隅々まで響き渡っている。
そんな賑わいから少し離れた路地裏に佇む『キッチン・ブラン』の厨房では、すでに規則正しい音が刻まれていた。
トントン、トントン、と小気味よくまな板を叩く音。
アルフレッドは肩までまくり上げた袖が落ちてこないよう、気にしながら、包丁を動かした。窓から差し込む朝の光が、自分の手元を白く照らす。手に馴染んだ包丁の重み。
指先に伝わる、野菜の確かな弾力。この場所で毎日繰り返してきた音が、店の中に流れている。かつては魔王を倒すための刃を握っていたこの手も、今ではすっかり慣れたものだ。
店の奥、朝日が最も長く留まる窓際の特等席では、銀髪をひとつに結んだディアボロが、静かに目を細めていた。磁器のように透き通る白い肌に、ルビーのような真紅色の瞳。
彼は、アルフレッドが刻む野菜の音を聞き流しながら、静かな時間を過ごしていた。この時間が、彼にとって最も穏やかなひとときであることを、アルフレッドは知っている。
ガタンッ!
裏口の扉を蹴る乱暴な音が、店内の静寂をかき消した。
「……ふん。朝から騒々しいことだ」
ディアボロが、不快感を隠さず吐き捨てる。その視線の先には、開け放たれた裏口からふらりと現れた夜色の髪の男、ギャレットがいた。
「よぉ、相棒。元気だったか?」
ギャレットは不敵な笑みを浮かべ、手にしていた古びた銀の箱を、アルフレッドが野菜を並べている調理台の端に、無造作に放り出した。銀細工の鍵開け道具を指先でくるくると回しながら、彼はアルフレッドの手元を覗き込んでくる。
禍々しくも美しい幾何学模様が刻まれたその箱は、およそこの清潔な調理場には似つかわしくない。
「ギャレット。営業前の仕込み中に、不潔なものを調理台に置くのはやめてくれと言ったはずだ」
アルフレッドは包丁を止めず、視線だけで釘を刺した。一定のリズムを崩さぬまま、鮮やかに野菜を断ち切っていく。勇者としての技すべてを調理に注ぎ込んでいる今、この聖域を汚されることだけは看過できなかった。
「まあそう言うなよ。俺様が、魔界の最果てまで足を運んで掠め取ってきた逸品だ。こいつの封印だけは俺でも手が出せねぇ」
ギャレットが箱の蓋を指先で弾くと、隙間から重厚なスパイスと、悠久の時を閉じ込めたかのような肉の匂いが漏れ出した。
その香りが届いた瞬間、窓際で微睡んでいたディアボロの、ルビーのような真紅色の瞳が爛々と輝き出した。
「……っ! この香気。間違いなき、伝説のドラゴンの逆鱗! アルフレッド、今すぐこれを開けろ! 我は今、猛烈にこれを欲しているのだ!」
ディアボロは椅子から立ち上がると、期待を隠しきれず、その指先から鋭い爪をチリリ、と出し入れした。まるで、獲物を前にした獣のような、無邪気で傍若無人な欲求。だが、アルフレッドは料理している手を止めることはなかった。
「マスター。今はソースを仕上げるのが先です。そんな箱にかまっている暇はありません」
「不敬であるぞ! 我が命じているのだ!」
「またそんなこと言い出して。デザートの大きい方は俺がもらいますよ」
「な、なんだと! いつも我に真っ先に選ばせるのに!」
「なら、仕事に戻ってください。ギャレット、お前もその箱を持って職人街の爺さんのところへ行け。あそこの技術なら、開け方のヒントくらいは掴めるだろ」
アルフレッドはいつも通りの口調で告げると、再び包丁を動かした。
ディアボロは不服そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は食い下がらずに元の席へと戻っていく。ギャレットも「敵わねぇな」と肩をすくめ、再び箱を抱えて職人街へと消えていった。
今日もランチタイムからディナーまで、『キッチン・ブラン』は途切れることのない客で賑わっていた。
厨房では、アルフレッドが腕を振るって、次々と具材を仕上げていく。
今日の日替わりランチから提供している、鶏肉と冬野菜のクリームグラタンが飛ぶように売れる。大ぶりな地鶏の腿肉を熱したフライパンに放り込めば、皮目がきつね色に焼ける香ばしい匂いが立ち上る。そこへ、朝一番で刻んだ甘みの強い玉ねぎと、ホクホクとした食感の里芋、彩りのブロッコリーを合わせる。
ディアボロが心血注いで練り上げた至高のホワイトソースは、まるで絹のような光沢を放っていた。アルフレッドはそれを、たっぷりの具材の上から惜しみなく回しかける。仕上げに数種類の濃厚なチーズを散らし、灼熱のオーブンへと放り込んだ。
「アルフレッド、そこのグラタン、温度が一度下がっているぞ。焼き上がりまであと数秒待て」
「そうですか? じゃあそう合わせます。ちょうど予熱でチーズが溶け切る頃に出しますね」
アルフレッドはオーブンの前で、腕を組んでじっと中を見つめる。ディアボロの指示通り、完璧な気泡が弾ける瞬間を見極め、一気に皿を取り出した。
ディアボロはその皿を華麗な手捌きで受け取ると、フロアへと進み出た。ルビーのような真紅色の瞳を細め、尊大な態度を崩さぬまま、優雅に皿を置いていく。
しばらくして、職人街から戻ってきたギャレットが、忙しく立ち働くディアボロに近寄り、その耳元に顔を寄せた。
「あの爺さん、開け方を突き止めたぜ。この箱、触れてる奴の鼓動が静まらねぇと、主人の気を感じて絶対に開かねぇ仕組みなんだとよ。……じゃあな、俺は夜の仕事があるんでね。開いたら中身を拝ませろよ」
夜色の髪を揺らして、ギャレットは軽やかに店を去っていった。
夜の営業が終わり、店の扉に「CLOSED」の札を掲げたのは、日付が変わる少し前だった。
「……アルフレッド」
ディアボロは、トレイを置くやいなやアルフレッドの元へ詰め寄ってきた。
「一日中待ったのだ。今すぐ、これを開けろ。我は……もう、限界なのだ!」
彼は自ら箱に触れるが、一日溜め込んだ高揚と焦燥が魔力を昂ぶらせ、爪が完全に露出して箱の表面をカリリ、と削る。
箱は拒絶するように、鈍い魔力の光を放ち、一向に開く気配を見せない。
「何故だ! 条件は分かっているというのに!」
「マスター。それでは逆効果ですよ」
アルフレッドはやれやれと苦笑し、一息つくためのお茶を淹れた。
ディアボロは苛立ちを隠せない様子だったが、月光が静かに差し込むいつもの椅子へと身を沈めた。アルフレッドはそんな彼の元へ歩み寄り、熱を持ったその手を、自身の大きな手でそっと包み込んだ。
「マスター。落ち着いてください。あんたが一番安らいでいるのは、いつものこの場所でしょう?」
アルフレッドの体温が、彼の指先を伝わって、荒ぶる魔力を静めていく。
鋭い爪が、ゆっくりと指先の内側へと収納されていく。しばらくするとディアボロの喉の奥から、無意識に「ぐるぐる……」という、低い音が漏れた。
彼が完全に平穏を取り戻したその瞬間。ディアボロの手が、銀の箱の蓋に触れた。
カチリ。
夜の静寂を告げるような音が店内に響き渡り、銀の箱が静かに口を開けた。中から現れたのは、淡い月光を吸い込んだかのように、青白く、それでいて深い藍色を湛えた伝説のドラゴンの逆鱗。
「……っ!」
ディアボロは歓喜の声を上げる間もなく、その一切れを掴み、口へと運んだ。ルビーのような真紅色の瞳が、期待に爛々と輝いている。
ギリ……、と耳障りなほど硬質な音が響く。魔王の顎は、その恐ろしく硬そうな鱗を事も無げに噛み砕いていく。ディアボロは、まるで極上の甘味を頬張ったかのように、うっとりと瞳を細めていた。
「ふむ……。これだ。この抗いをねじ伏せ、深淵を暴く悦び。やはりこれこそが至高」
幸せそうに爪を出し入れし、喉を鳴らすその姿は、高貴な魔王というよりも、ただの大きな猫のようでもあった。
ディアボロはしばらくその至福を堪能していたが、ふと思い立ったように、その鋭い破片を小さく割いた。
「……アルフレッド。お前も食せ。我が慈悲である。この至高の味をお前にも教えてやろう」
ディアボロは、どこか誇らしげに、その一片をアルフレッドに差し出してきた。期待に満ちた視線を浴びながら口にしてみたものの、顔をしかめるしかなかった。
「……マスター。これ、ただの石か鉄の板みたいに硬いですよ。味もしないし美味しくない。歯が折れそうだ」
「な……っ!」
ディアボロの顔が、驚愕と屈辱で真っ赤に染まる。彼はアルフレッドの手から逆鱗をひったくるように奪い返すと、残りと共に大切に銀の箱へと戻した。
「お前のような無粋な者には、二度と分けてやらぬ! 価値の解らぬ口など、一生砂でも噛んでおれ!」
ディアボロは本気で憤慨し、箱を抱きしめるようにして奥の部屋へと引っ込んでいった。
「……やれやれ。あんな硬いもののどこがいいんだか」
アルフレッドは苦笑しながら、静まり返った店の後片付けを始めた。いつも通りの賑やかで、どこかちぐはぐな、温かな夜が更けていった。
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