第2話 『甘美なる魔王の罠と、勇者の胃袋』
王都の朝は、石畳を叩く馬車の音と、焼き立てのパンの香りで始まる。
しかし、職人街の裏路地に佇む『キッチン・ブラン』の厨房から漂ってきたのは、それらとはおよそかけ離れた、禍々しくも甘ったるい、形容しがたい香りだった。
銀髪を後頭部で完璧に結び、漆黒の燕尾服を翻したディアボロが、勝ち誇ったように叫ぶ。
「アルフレッド! 見ろ、ついに完成したぞ。これぞ一口食べれば魂が天に昇り、二口食べれば我が軍門に降るという至高の甘味、『魔王の吐息』だ!」
ディアボロが差し出した皿の上には、深い紫色の正体不明なゼリー状の物体が、綺麗な半球体となって静かに置かれていた。表面には銀粉のようなものが散らされ、窓から差し込む朝日に妖しく光っている。
「マスター、その料理にその名前はやめてください。それにその色、食欲をそそるどころか毒物判定を食らいそうです。一体、何の材料で作ったんですか」
アルフレッドは額に浮いた汗を拭い、一歩引いた位置でその物体を凝視した。
かつて勇者として数々の罠を潜り抜けてきた直感が、全力で警報を鳴らしている。
しかし、目の前の魔王は自信満々に胸を張った。
「ふん、下僕の分際で我の感性を疑うか。これは極上のベリーと、我が魔力を一分子だけ注ぎ込んだ特製のシロップを融合させ、スライムの分泌液で固めたものだ。さあ、貴様が味見をしろ。光栄に思うが良い」
ディアボロがスプーンを突きつける。その際、期待と緊張のせいか、白い指先からシャキッと黒い爪が飛び出し、スプーンの柄を危うく傷つけそうになった。
「爪、出てますよ。……それとスライムの分泌液は、人間界では一般的な食材ではありません」
アルフレッドは、期待に満ちたディアボロの視線から逃れられないことを悟り、深く長い溜息を吐き出して肩を落とした。
「はぁ、わかりました。もし俺が倒れたら、今日のディナーはマスターが一人で回してくださいね」
アルフレッドは覚悟を決め、突きつけられたスプーンを受け取ると、その紫色の塊を一口掬って口に運んだ。ディアボロは深紅の瞳を爛々と輝かせ、反応を少しでも見逃すまいと食い入るように見つめている。
「……う……あ、あま……」
「どうだ! 我が魔力の高みを感じたか! 跪いて泣きながら賛美するが良い!」
「甘い。甘すぎて、奥歯が全部溶けるかと思いました。魔力は感じましたが、それより甘さが凄まじすぎてそれどころじゃなかったです。マスター、これは砂糖の量を間違えています。これでは客は天国に行く前に病気になりますよ」
アルフレッドはそれだけ言うとカウンターに突っ伏し、あまりの甘さに頭を押さえた。魔王の感性は、常に過剰だ。美味しいを極限まで追求するあまり、物理的に限界を超えた分量を投入してしまうのが、彼の最大の欠点だった。
「な! 甘さが足りぬよりは良いではないか! 貴様の舌が、我の高貴な味覚についてこれぬだけだ!」
「いいえ、これは単純にレシピのミスです。作り直しですね。ほら、次は砂糖を今の十分の一にしてください。あと魔力投入も禁止です。普通にハチミツを使ってください」
「我に、平民の使う甘味料を使えと。屈辱だ。爪が出るぞ!」
ディアボロは憤慨して長い足を振り上げ、厨房の狭い床を激しく踏み鳴らした。しかし、アルフレッドは動じない。淀みない手つきで失敗作の紫色の塊を容赦なく片付けていった。
「文句を言っている暇があったら、リンゴの皮を剥いてください。今日のデザートはリンゴのコンポートにします。マスター、爪を立てないように、丁寧にですよ」
「貴様、我をリンゴ剥き係にする気か。この魔王ディアボロを。あ。おい、皮が。皮が千切れたではないか!」
ディアボロは不器用にナイフを握り、リンゴと格闘を始めた。結んだ銀髪が、彼の苛立ちに合わせて背中でぴょこぴょこと跳ねる。長い爪を出さないように意識するあまり、指先が不自然に震えていた。
「マスター、もっと力を抜いてください。リンゴは敵じゃありません。お手本を見せますから」
アルフレッドは少し距離を置いて、手元を見せる。ナイフを固定し、リンゴを回す。研ぎ澄まされた刃先の動きに合わせて、赤い皮がスルスルと一本の紐のように繋がって剥けていく。
「……ふん。その程度、我にもできるわ」
ディアボロは負けじと次のリンゴを掴んだ。静かな厨房に、ショリショリとリンゴを削る音だけが響く。魔王とは、集中すると周りが見えなくなるものらしい。
次第にその瞳から険しさが消え、無心でリンゴを剥き続ける姿は、どこか職人のようでもあった。
形はまだばらばらで、皮も厚い。それでも、ディアボロの手が、確かにリンゴを剥き続けていた。アルフレッドは何も言わず、次の仕込みへと手を戻した。
ランチタイムが始まると、キッチン・ブランは再び戦場になった。今日は新作デザートの噂を聞きつけた、職人街の娘たちが大勢詰めかけていた。
「マスター、デザートの注文が一度に十組入りました! 盛り付け、お願いします!」
「任せろ! 我の美学を皿の上に刻んでやる!」
ディアボロは燕尾服の袖を捲り上げ、煮上がったリンゴを皿に並べていく。彼の集中力は凄まじい。一ミリの狂いもなくリンゴを花の形に配置し、その上から透明なシロップを落としていく。その際、あまりの集中に、喉の奥から「ぐる……」という微かな音が漏れていたが、幸いにも店内の喧騒にかき消されていた。
「お待たせしたな。これぞ我が慈悲によって作り上げた、至宝の果実だ。心して食すが良い」
ディアボロが低い声で語りかけながら皿を置くと、若い女性客たちはその美貌と威厳に圧倒され、顔を赤らめてフォークを握った。
「美味しい! 甘すぎなくて、すごく優しい味がする!」
客席から上がる歓声に、ディアボロは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「当然だ。我の計算に狂いはない。アルフレッド、見ろ。客たちは我が味に屈服しているぞ」
「レシピを変えたのは俺ですけどね。まあ、喜んでもらえて良かったです」
アルフレッドは手早く布巾でカウンターを拭きながら、安堵の溜息を吐いた。
ディナータイムが終わる頃、店内には再び静寂が戻ってきた。ディアボロはいつもの窓際の特等席で、月の光を浴びて目を細めている。
「アルフレッド。今日の戦果は悪くなかった。明日は更なる高み、三千層のパイ生地で作る伝説の菓子に挑戦するぞ」
「却下です。そんなの作ったら、マスターがまた粉まみれになって店中が真っ白になります。明日は普通に、パンナコッタにしましょう」
「貴様は常に、我が野望に水を差すな。だがパンナコッタという響き、悪くない。許可してやろう」
ディアボロは結んでいた銀髪を解き、満足げに大きく伸びをした。その瞬間、彼の喉の奥から「ぐるる……」という、昼間よりも少しだけはっきりとした音が漏れた。
「今、確実にゴロゴロ言いましたね。しかも結構長めに」
「……貴様の空耳だ。我の喉が夜の冷気に共鳴しただけだ。おい、アルフレッド。茶を淹れろ。今すぐだ」
「はいはい。マスター、爪、出っ放しですよ。引っ込めてください」
魔王は不器用に視線を逸らし、月明かりの下で自身の白い手を見つめていた。そこには、鋭い爪が少しだけ顔を出していたが、こちらを気にしながら身を隠すようにシュッと引っ込んだ。
それを見ないフリをした勇者の長い一日は、こうして紅茶の温かな香りと共に幕を閉じるのだった。
まさか裏路地の店に、あんな客が訪れるなんて、このときは思っていなかった。
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