第14話 『月下の聖域と、小麦色の腕の残響』
王都の喧騒が深い眠りにつく頃、職人街の一角にある『キッチン・ブラン』の裏庭では、昼間の穏やかな空気とは一線を画す、鋭い緊張感が漂っていた。
そこは高い石壁に囲まれ、常緑の蔦が這い、中央には古びた石畳が敷かれた小さな空間だ。普段はハーブの鉢植えが並び、アルフレッドが小麦色の腕で丁寧に水をやる穏やかな場所だが、今宵は二人の男が対峙する戦場へと変貌していた。
「……随分と鈍ったな、アルフレッド。その踏み込み、我が一族の幼子でももっと鋭く地を蹴るぞ」
月光を背に受けて立つディアボロが、不敵な笑みを浮かべて言い放った。彼はいつもの重厚な上着を脱ぎ捨て、薄手の黒いシャツ一枚という軽装だ。月光を浴びて輝く銀髪が、夜風にさらさらと美しく波打ち、磁器のように白い肌は闇の中で冷たい光を放っている。
その姿は、この世のものとは思えぬほどに気高く、恐ろしかった。
「これでも毎日、重いフライパンを振り回して鍛えているつもりなんですけどね、マスター。でも、確かにあんたの前に立つと、昔の感覚が嫌でも呼び起こされる」
対するアルフレッドも、調理着の袖を肩まで捲り上げ、逞しい小麦色の腕を惜しげもなく晒していた。その筋肉は、昼間の優しい笑顔からは想像もつかないほどに硬く、実戦の熱を帯びている。彼は腰を落とし、かつて数多の魔物を屠ってきた勇者の構えを、武器を持たぬ素手のまま再現した。
二人の間に、張り詰めた糸のような沈黙が流れる。夜風が蔦を揺らし、カサリと音を立てた瞬間、アルフレッドが動いた。
石畳を蹴る衝撃音が一度だけ響く。アルフレッドの体躯が、重力を無視したような速さでディアボロの懐へと滑り込んだ。突き出された右拳。小麦色の腕に浮き出た血管が、彼全身全霊の力を物語っている。
ディアボロは眉一つ動かさず、最小限の動きでその拳をかわした。磁器のように白い手が、アルフレッドの小麦色の腕の軌道をわずかに逸らす。アルフレッドの拳が空を切り、生じた風圧がディアボロの美しい銀髪を激しくなびかせた。
「ふん。力任せだな。それでは我が肌をかすめることすら叶わぬ」
ディアボロが優雅に、しかし逃れようのない速度で掌をアルフレッドの胸元へ突き出した。アルフレッドは即座に左の小麦色の腕を盾にしてそれを受け止める。肉と肉がぶつかり合う鈍い音が静寂を切り裂き、激しい衝撃がアルフレッドの腕を伝わって全身を震わせた。
「くっ。相変わらず、重い一撃だ」
アルフレッドは口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。彼は受け流された反動を利用し、今度は回し蹴りを放つ。ディアボロはそれを片手で受け止め、アルフレッドの足を掴もうとするが、アルフレッドは即座に身を翻して距離を取った。
「面白い。料理人として包丁を握りながら、その闘争の本能をひとかけらも失っていないとは。やはり貴様は、我が城に置くにふさわしい男だ」
ディアボロの声に、隠しきれない歓喜が混じる。彼はゆっくりと歩み寄り、出し入れ可能な爪を、月光の下でわずかに出現させた。白い指先から覗く鋭利な輝きは、決してアルフレッドを傷つけるためのものではなく、全力で挑んでくる好敵手への最大級の敬意の表れだった。
「マスター、あんたこそ。店で猫みたいに丸くなってる姿しか知らない連中が見たら、腰を抜かしますよ。その圧倒的な圧力を前にして、笑っていられるのは俺くらいでしょうね」
アルフレッドが再び地を蹴った。今度は一撃を狙うのではなく、左右への細かなステップを交えた翻弄だ。小麦色の腕が残像を描き、ディアボロの死角を突こうと連撃を叩き込む。ディアボロはそれらをすべて完璧な動作で捌き、時折、鋭い指先でアルフレッドの頬をかすめる。白い肌と、小麦色の肌。対極の色を持つ二人の身体が交差するたび、火花が散るような錯覚を覚えるほどの熱量が生まれた。
夜の空気は二人の熱気によって、夏の盛りのように熱く、濃密に変わっていった。呼吸が重なり、互いの鼓動が石畳を通じて伝わってくる。言葉など必要なかった。拳を交わし、その速度と威力を肌で感じるだけで、二人は互いがどれほどの信頼を積み重ねてきたかを確認し合っていた。
「そろそろ、終わらせようか」
アルフレッドが深く息を吸い、全身の筋肉を限界まで膨張させた。小麦色の腕が、月光を吸い込んで鈍く光る。彼は今日一番の踏み込みで、ディアボロの正面から正拳を突き出した。
ディアボロはその拳を避けるのではなく、自らの拳を突き出して真正面から迎え撃った。二人の拳が空中で衝突し、衝撃波が裏庭の木々を激しく揺らした。
しばらくの間、二人は拳を合わせたまま、動かなかった。視線が絡み合い、荒い息が白く夜気に溶けていく。
「……ふん、及第点だ。貴様のその腕、まだ我が飯を作るに足る力を保っているな」
ディアボロが拳を引き、爪を収めた。銀髪を指先で払い、乱れたシャツを整える姿は、再び絶対的な支配者のそれに戻っている。磁器のような白い肌には、わずかに高揚による赤みが差していた。
「はは。手厳しいな。でも、おかげで全身の血が巡りましたよ。明日の仕込みは、もっといい仕事ができそうだ」
アルフレッドは捲り上げていた袖を下ろし、小麦色の腕に滲んだ汗を拭った。先程までの鋭利な気配は消え、いつもの穏やかな料理人の顔に戻っている。
「貴様が怪我でもして、明日カブを切る手が鈍りでもしたら、我はこの庭を灰に変えていたところだぞ。アルフレッド、あまり我をハラハラさせるな」
ディアボロはそっけなく言い捨て、裏口へと歩き出した。その背中は、どんな時でも自分を守り、支え続けてくれるアルフレッドへの全幅の信頼を物語っていた。
「わかってますよ。さて、寝る前に特製のハーブティーでも淹れましょうか。マスター、今夜はよく眠れますよ」
「……ふん、貴様の淹れる茶なら、なんでも美味いからな」
二人は肩を並べ、夜の闇が深い店の中へと消えていった。そこにはもはや、魔王も勇者もいない。ただ、互いを唯一無二の存在と認めた二人の男の、完成された静寂があるだけだった。
職人街の夜が、静かに更けていく。二人の呼吸の残響だけが、裏庭の石畳にいつまでも漂っていた。
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