第12話 『聖女の潜入と、敗北のオムライス』
※エレン視点
聖堂の窓から差し込む朝日は、今日も汚れなき光で世界を照らしている。私、聖女エレンは、純白の法衣に身を包み、祈りを捧げながらも、その心は王都の片隅にある忌まわしき食堂へと飛んでいた。あの、邪悪な魔王が店主を騙り、勇者を監禁している『キッチン・ブラン』。そして、そこに囚われ、魔の毒に侵されつつある我が愛しのアルフレッド様。
「待っていてください、アルフレッド様。今、私がその魔窟から、あなたを救い出して差し上げますわ」
私は立ち上がり、聖堂の備品室へと向かった。潜入調査。そう、今の私に必要なのは、魔王の目を欺き、内部からアルフレッド様の救出機会を伺う隠密行動だ。私は用意していた究極の変装道具を取り出した。
それは、レンズの片方が無惨に割れ、歪んだ黒縁眼鏡と、つばの広すぎる麦わら帽子だ。さらに顔の下半分を視覚的に抹消するための、大きな赤い布巾。仕上げとして、法衣の上に「私は名もなき放浪者です」と大きく刺繍された古びたボロ布を羽織る。鏡に映る自分の姿を見つめ、私は確信に満ちた表情で頷いた。
「よし。これで私の正体を見破れる者は、この地上に誰一人として存在しませんわ。完璧を超えた完璧です」
正直に言えば、視界は最悪だし、呼吸をするたびに布巾が口に吸い付いて苦しいが、背に腹は代えられない。私は黄金の杖をボロ布の下に隠し、抜き足差し足で聖堂を抜け出した。
職人街の通りを歩いていると、すれ違う人々がこっちを見て悲鳴に近い声を上げたり、子供が母親の陰に隠れたりしている。やはり、私の放つ隠密の覇気があまりに鋭すぎて、一般市民には無視できないほどの圧力を与えているのだろう。
私はわざとらしく腰を曲げ、いかにも死の間際にある流浪の民を演じながら、『キッチン・ブラン』の扉を蹴るようにして開けた。
「なんだ、その不快な塊は」
低く、地の底から響くような重厚な声が、私の鼓膜を暴力的に震わせた。カウンターの奥には、漆黒の燕尾服を寸分の狂いもなく着こなした男、魔王ディアボロが、まるで王のように不遜な構えで立っていた。ルビーのような瞳が、私を価値のない石ころのように冷酷に射抜く。バレたのか。いや、この究極の隠密装備を突破できるはずがない。
「おい。聞いておるのか。貴様だ、そのレンズの欠けた不気味な装飾品をつけた怪しげな女。我が城に一歩足を踏み入れた以上、相応の対価を支払う覚悟はできているのだろうな」
魔王は顎を尊大に跳ね上げ、私を見下ろした。その声には、客を歓迎する意志などひとかけらも感じられない。むしろ、なぜ我の視界にゴミが入り込んだのかという純粋な不快感だけが満ち満ちている。
「い、いえ!! これは最新の王都の流行ですの!! 私はただの、腹を空かせた哀れな流浪者ですわ!! さあ、早く席へ案内しなさいな!!」
私は必死に声を裏返らせ、変装に合うようなかすれ声で言い放った。すると魔王は、鼻でせせら笑うようにフンと息を漏らした。
「ふん。流行だと。貴様のその腐った美意識などどうでも良い。座れ。そして、我が下僕の手を煩わせぬよう、大人しくしていろ。さもなくば、その麦わら帽子ごと貴様の存在をこの場から抹消してやる」
魔王は指先で窓際の席を、まるでゴミ捨て場を指し示すかのような無造作な動作で示した。勝った。やはり、この眼鏡による認識阻害魔法は、大魔王の目すらも欺いたのだ。彼は私をただの浮浪者として認識し、警戒を解いたに違いない。
私は隅の席に陣取り、メニューを盾にしながら厨房へと視線を送った。いた。私の、アルフレッド様だ。彼はいつものように、眩いばかりの小麦色の腕を剥き出しにして、大きなフライパンを振っていた。その逞しい腕に浮き出る血管、滴る汗。ああ、なんて痛ましいのでしょう。あのような神に愛された筋肉を、魔王は私欲のために、アルフレッド様に野菜を炒めるという卑俗な重労働を命令させているのです。
「アルフレッド様。あんなに必死に肉を叩いて。あれはきっと、魔王への呪いを拳に込めているに違いありませんわ」
私は胸が締め付けられるような思いで彼を見つめた。彼が時折、小麦色の腕で額の汗を拭い、ふう、と小さく吐き出す溜息。そのわずかな吐息すらも、私にとっては「助けて! エレン」という悲痛な叫びに聞こえてくる。
その時、アルフレッド様が私の席へと近づいてきた。彼の手には、一杯の麦茶が握られている。
「お客さん、その格好、大丈夫ですか? 暑くないですか? これ、サービスですから飲んでください。無理はしないでくださいね」
アルフレッド様が、私に向けて慈愛に満ちた眼差しを向けた。その声。かつて魔族の軍勢を前にしても、希望を捨てずに仲間を鼓舞した、あの気高き勇者の声。至近距離で見る彼の小麦色の腕は、想像以上に逞しく、そして、少しだけ、いい香りがした。肉の焼ける香ばしい匂いと、爽やかな石鹸のような清潔な匂い。不覚にも、私の頬に熱を帯びるのを感じた。
「あ、ありが、ありがたく頂戴いたしますわ。私はただの、喉を枯らした孤独な旅人ですのよ」
「そうですか。あそこのオーナー、言葉はキツいですけど、味は保証しますから。ゆっくりしていってください」
アルフレッド様は、私の正体を疑う気配を微塵も見せず、再び厨房へと戻っていった。なんて清らかなお方。私のこのような、社会的に抹殺されかねない異様な姿を見ても、偏見を持たずに接してくださるなんて。やはりアルフレッド様は、私の、そしてこの国の唯一の希望です。
私は再び、魔王の動向を監視した。すると、信じがたい暴虐が繰り広げられた。魔王ディアボロが、アルフレッド様の焼いた厚切り肉を、シルバーのフォークで傲慢に突き刺し、一口食べると不遜に言い放ったのだ。
「アルフレッド。この肉の火入れ、わずかに早すぎるのではないか。貴様のその小麦色の腕は、近頃たるんでいるのではないか?」
「えー、そうですか? 完璧な焼き加減だと思ったんですけど。じゃあ、次はもう少しじっくり焼きますよ」
「ふん。貴様が我の舌を満足させられぬというのなら、今夜のまかないは無しだ。精進するが良い、下僕め」
魔王はルビーの瞳を冷たく光らせ、喉の奥から、ぐるる、という威圧的な音を漏らした。なんという傲岸不遜。アルフレッド様の丹精込めた一皿を、あのように足蹴にするとは。
ところが、私の予想に反して、アルフレッド様は怒るどころか、楽しそうに笑いながら魔王の隣に並んだ。そして、彼が手に持っていたフォークで、魔王の皿から一口、肉を掠め取ったのだ。
「どれどれ。ああ、本当だ。言われてみれば、中心部がほんの少しだけ余熱を計算しきれてないかも。さすがマスター、よく見てますね。じゃあ、お詫びに夜はマスターの好きな最高級の茶葉でミルクティー淹れますから、機嫌直してくださいよ」
「ふん、当然だ。貴様の淹れる茶だけが、我が城の水準を辛うじて超えているからな。淹れ方を間違えるなよ、下等生物」
魔王は不機嫌そうに顔を背けたが、その耳の端がわずかに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。さらに、魔王の手が、無意識にアルフレッド様の小麦色の腕の筋肉を、確認するように軽く叩いた。それは、かつて戦場で仲間たちが交わしていた信頼の合図よりも、ずっと深く、密接な関係を物語っていた。
「な、なんですの。あの、一瞬の隙もないほどに完成された空気感は」
私は麦茶を持つ手を震わせた。救出しなければならないはずのアルフレッド様が、魔王の隣で、この世で最も居心地が良さそうに微笑んでいる。魔王もまた、アルフレッド様の小麦色の腕を頼りにし、その献身を当たり前のように、しかし大切に受け入れている。
二人の間には、私が聖なる杖を何千回振るおうとも、決して断ち切ることのできない、強固な絆の円環が出来上がっていた。
「私が知っている勇者アルフレッド様は、もっと孤独で、もっと義務感に縛られていたはず。なのに、あのような、あのような年相応の少年のように笑う姿なんて」
私は、自分が入り込む余地などどこにもないことを悟らされた。聖女として、彼を正しい道へ連れ戻そうとしていた私の正義は、二人の幸せそうな日常の前で、ただの無作法な乱入者のエゴへと成り下がっていたのがわかった。
「お客さん、お待たせしました。特製オムライスです。うちのマスターが、貴様のような痩せこけた者には栄養が必要だ、ってうるさくて。たっぷり卵を使いましたよ」
アルフレッド様が、黄金色に輝くオムライスを運んできた。その皿の上には、ケチャップで「完食せよ」という魔王の尊大な命令が書かれている。しかし、その文字の横には、小さな、しかし丁寧な卵の模様が施されていた。
一口、口に運ぶ。それは、私が聖堂で食べていた、冷たくて厳かな食事とは正反対の、温かくて、慈愛に満ちた味がした。小麦色の腕が、魔王の厳しい要求に応えようと、何度も何度も試行錯誤して辿り着いた、極上の調和。
私は、眼鏡の割れたレンズ越しに、視界が滲むのを感じた。悔しい。魔王に負けたことが悔しいのではない。アルフレッド様を、あんなにも幸せそうな顔にさせているのが、聖女である私ではなく、邪悪な魔王であるという事実に、私は完膚なきまでに敗北したのだ。
「おい。なぜ泣いている。我が従業員の料理に、ひとかけらでも不満があるというのか。貴様のその安っぽい布巾を涙で汚すな」
カウンターから魔王が冷たく言い放つ。だが、その言葉の裏には、自分の店で泣き出した客に対する、不器用な気遣いが隠れていることに気づいてしまった。
「いえ!! なんでもありませんわ!! 私はただの、料理に感動した旅人ですのよ!!」
私はオムライスをかき込み、逃げるように店を飛び出した。背後から、ありがとうございました、またどうぞ、という、アルフレッド様の明るい声が追いかけてくる。その声に、私は胸の奥が張り裂けるような思いを感じながら、王都の夕闇の中を走り抜ける。
聖堂へ戻る道すがら、私は自分の手を見つめた。アルフレッド様の小麦色の腕が作った料理の熱。そこに宿っていた、魔王と勇者の、歪で、しかし確かな愛の形。私はそれを思い出し、唇を噛み締めた。
「いけませんわ、エレン。私は聖女。アルフレッド様を、あの魔王の毒牙から、いいえ、あのホワイトな檻から救い出すことだけを……」
そう言い聞かせながらも、私は夕陽に染まる王都の空に、二人の仲睦まじい姿の残像が思い出される。でも、私は負けない。
次は、さらに完璧な変装。そう、お店で働く薄幸の美少女メイドとして潜入して、今度こそ、今度こそあの二人の間に、聖なる楔を打ち込んで差し上げますわ。
私は聖堂の階段を駆け上がりながら、敗北の悔しさを明日への原動力に変えて、新たな作戦を練り始めた。愛と、正義と、そして耐え難いほどの嫉妬が入り混じった、私の戦いはまだ始まったばかりだ。
「待っていてください、アルフレッド様。次こそは、必ずやあなたを奪い返してみせますわ。でも、その前に。あのオムライスの隠し味、調査のために聞き出さなければなりませんわね。純粋な、調査のためにですわよ」
聖女の祈りは、いつしか明日への不純な決意へと変わっていた。職人街の夜は更けていく。傲慢な魔王と、健気な勇者、そして敗北を認めない暴走聖女。このホワイトな職場に、本当の平和が訪れる日は、まだひとかけらも予感できなかった。
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