番外編「雨に咲く百合の花・前編 〜黒翼の戦士と癒しの光〜」
今回はノエル視点で描く番外編・前編です。
王都リアンナハの薬師見習いとして働くノエルは、薬草採集の途中で黒翼の戦士——リゼと出会います。
森に咲く花の香りと、祈りに満ちた癒しの朝。
そして、静かな雨がふたりを近づけて……
運命の出会いの物語を、お楽しみください。
✧༺ 第一章 癒しの庵 ༻✧
王都リアンナハの朝は、いつも人々の笑顔と祈りで満ちている。
石畳の道を吹き抜ける風は、焼きたてのパンの香りを運びながら、市場区の一角の古びた建物の扉を優しく叩く。
真鍮の看板には、古風な筆記体でこう刻まれている。
——癒しの庵 《グレン堂》
扉を開けると、香草の香りと少し甘い薫香の匂いが混じり合って、深い森の奥に足を踏み入れたような空気に包まれる。
店の中は広くはない。
けれど、そこに並ぶ瓶や壺には、どれも一つひとつに店主のこだわりが詰められている。
ずらりと並んだガラス瓶の中には、乾燥したハーブ類が。
棚の上段には色とりどりの魔法薬の数々が並び、下段の陶器壺には、通称『ブリギッドの慈悲』と呼ばれる霊薬が鎮座している。
使い古された調合台の上には、すり鉢と乳棒。
魔法陣の刻まれた天板には、香草の粉が散っていた。
壁際には干したハーブの束が吊るされ、彩りを添えている。
「……いい香り」
作業の手を止め、ノエルは思わず深呼吸をした。
この匂いを吸い込むと、不思議と心が静まる。
店の中に入るだけで、まるで癒やしの魔法をかけられているように感じる。
彼女は吟遊詩人だが、薬の知識も身につけるために、ここで勉強をしながら働いていた。
店の奥から、渋い声が響く。
「おーい、ノエル」
振り返ると、そこには白い髭の薬師——
この店の主、グレンがいた。
彼はいつもの調合台の前に立ち、ハーブを指でちぎりながら薬の香りを確かめている。
無骨な手に似合わず、指先の動きは驚くほど繊細だ。
「は〜い」
呼ばれて顔を上げると、グレンが乾燥棚の方を指さした。
「エルダーベリーとセントジョーンズワートが不足しそうだ。
すまんが、森に行って採ってきてくれないか」
「わかりました」
ノエルは笑顔で頷いた。
「これから雨になるかもしれない、気をつけて行けよ」
「はい、行ってまいります!」
外出用のケープをはおり、採取用のポーチと籠を持つと気分が引きしまる。
扉を開けると、外はあいにくの曇り空だった。
風に乗って、どこからか祈りの歌が聞こえてくる。
それは、神殿の巫女たちの朝の詠唱だ。
この街は、今日も祈りと癒しで護られている——
ノエルはそう思いながら、森へ向かって石畳を歩き出した。
✧༺ 第二章 黒き翼 ༻✧
森に入ると、街の喧騒が嘘のような静寂に包まれた。
木々の間を渡る風が、サワサワと静かな音を奏でている。
「えっと……エルダーベリーは、日当たりのいいところ。
セントジョーンズワートは、少し湿った場所よね……」
グレンに叩き込まれた知識を思い出しながら、ノエルは森の奥へと歩みを進める。
鳥の鳴き声に、土の柔らかい感触。
どこか懐かしいような、祈りの国らしい穏やかな森だ。
やがて、小さな丘を越えた先に湖が見えてきた。
「……わぁ、綺麗……!」
透明な水面に木々が映り込み、風が渡るたびに波紋が広がる。
ノエルは大きく息を吸い込んだ。
湖畔の茂みには、紫の小さな果実がたわわに実っていた。
可愛らしい宝石のように輝くそれは、まさしくエルダーベリー。
そっと指先で摘み取ると、甘い香りが広がった。
まだ未熟なエルダーベリーには毒があるが、十分に熟したものなら心配はない。
そんな師の言葉を思い出しながら、ノエルは採れたての実を一つ、湖水で洗って口に入れた。
「……ふふ、おいしい♪」
彼女は夢中になって、籠いっぱいにエルダーベリーを摘んだ。
「……あら、あっちにもたくさんなってるわ」
ノエルはいつの間にか、さらに森の奥へと迷い込んでいた。
気付いた頃には陽も傾き、木々の影が長く伸びていた。
風の流れも変わり、急に気温が下がったように感じる。
ふと見ると、目の前には見たこともない大きな白い花の蕾があった。
釣鐘のように首を垂れた花弁はとても美しく、興味を惹いた。
「……何かしら」
新しい薬の材料にならないかしら。
そう思ってノエルがそっと手を伸ばした瞬間——
まるで意志を持つ生き物のように、カッと花が開いた。
そして花の中心には、ぬらぬらと光った禍々しい赤い目が現れた。
「……っ!?」
目玉はギョロリと動いて、ノエルを見据えた。
次の瞬間、四方から無数の蔓が生き物のように這い出してきた。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
足首に何かが巻き付いてきたと思ったら、ノエルの体はたちまち宙へと逆さに吊り上げられた。
それはルス・マーヴ——『死をもたらす草』。
森の木々に寄生する、呪われた魔物だ。
一度捕らえた獲物は蔓でがんじがらめにし、その体液を死ぬまで吸い尽くす……
人々はそれを架刑花と呼び、恐れていた。
「助けて……っ! だ、誰かーーっ!」
ノエルは必死に身を捩って振り払おうとしたが、蔓はびくともしなかった。
(だめ……動けな……い)
次第に頭に血が昇り、意識が遠のいてゆく。
獲物が大人しくなったと知ると、魔物は目玉をグリグリと動かしながら、さらに蔓を締め上げてきた。
そのとき——
「——動くな! 今助ける!」
鋭い掛け声とともに剣閃が走り、一瞬のうちに足に巻き付いていた蔓が切り落とされた。
「きゃっ!!」
地面に叩きつけられる寸前、ノエルの体を受け止めたのは、薄い外套と黒い軽鎧をまとった女戦士だった。
射抜くようなブラックスターサファイアの瞳を持ち、凛々しく美しい横顔には、強い意志が秘められている。
背後で束ねた長い黒髪が、彼女の動きに合わせて烏の羽ばたきのように優雅に舞った。
「無事か」
「……は、はい!」
しかしルス・マーヴは、獲物を奪われたことに怒り、猛然と触手のように蔓を伸ばしてきた。
「下がっていろ」
戦士は外套を跳ね上げると、剣を縦に構えた。
「女神モリガンよ、我に魔力を——
——黒炎刃!!」
ブワッと魔力の黒い炎が噴き上がり、刀身を包み込む。
「はぁッ!」
気合を込めて彼女の剣が振り下ろされた瞬間、闇の炎が渦を巻き、蔓を包みこんだ。
それは瞬く間に燃え上がり、ルス・マーヴの花弁は力尽きるように燃え落ちた。
「すごい……」
ノエルは震える手で口元を押さえた。
これだけの戦いを済ませた後でも、戦士は何事もなかったかのように無表情に剣を払った。
「怪我はないか」
「は、はい……ありがとうございます」
「戦う力もないのなら、こんなところに一人で来るな」
女剣士は感謝を受け取らず、厳しい言葉でノエルを咎めた。
ノエルはビクッと首をすくめる。
「いつでもこんなふうに助けが来ると思うな、自分の実力をわきまえろ」
「すみません……この辺り、普段は魔物なんて出ないはずなのに……」
女剣士は、魔物の燃え滓を一瞥した。
「最近、世界に異変が起きてるようだ。
本来のエリアから離れた地点での、魔物出現の報告も相次いでいる」
「そうだったんですね、気をつけます……」
ノエルはしゅんとしながら、落とした籠とエルダーベリーの実を拾い集めた。
「……私はリゼ。魔物発見の報告を受けて、この辺りを警備していた」
リゼは静かに剣を納め、ノエルを見つめた。
「あなたは、王都の者か?」
「はい。私はノエルといいます。南区のグレン堂で薬師の見習いをしています」
「そうか、ならば城門まで送ろう」
そう言って歩き出そうとした瞬間、リゼの体がふらついた。
「……っ」
剣の鞘が地面に当たり、鈍い音が響く。
「リゼさん、どうしました?」
ノエルは慌ててその腕を支えた。
見ると彼女の首筋には細い棘が刺さり、白い肌が紫色に腫れ始めていた。
「……大変! 毒が」
「くっ……このくらい大したことはない」
急いで棘を引き抜いた。
だが、頸動脈に近いところを狙われたせいか、毒の回りは思ったよりも早く、リゼはそのまま崩れ落ちた。
「大丈夫ですか……!?」
ノエルは慌てて抱え上げたが、その腕の中でリゼは急速に顔色を失っていく。
ノエルの頬に、ぽつ、ぽつ、と水滴が落ちてきた。
「雨? こんな時に……」
見る間に空が暗くなり、雨は激しく二人の身を打ちはじめた。
「困ったわ……どこか雨宿りできそうな場所は……」
辺りを見渡すと、近くの大樹の根元に大きな洞があった。
「リゼさん、ここへ!」
リゼの手を引きながら、二人で体をかがめて中へ入る。
中は想像より広く、古い木の香りと湿った土の匂いがした。
✧༺ 第三章 雨の洞にて ༻✧
「……すまない」
リゼは壁にもたれて息をついた。
雨音はだんだんと強まり、洞の入口では滝のように雨が伝い落ちている。
ノエルは地面の小枝を集めると、呪文を唱えた。
「フィア・ベグ——小さき炎よ、私の掌に」
手のひらの上に、小さな火が生まれた。
集めた小枝に火を移すと、焚き火の灯りが洞を照らす。
「ちょっと見せてくださいね〜」
リゼの首筋には、黒い棘の跡が残っていた。
皮膚の下を黒い筋が走り、毒が静かに広がっている。
ノエルは腰のポーチを開け、震える手ですり鉢を取り出した。
乾いた薬草がすり棒で潰されると、ほろ苦くもどこか心安らぐ香りが洞の中に満ちる。
「……何をしている」
かすれた声でリゼが問う。
「毒を抜く薬を作ります。——少し、沁みるかもしれません」
ノエルの指先は迷いがなかった。
グレンに教わった調合法を思い出しながら、薬草と軟膏を混ぜ、掌に乗せる。
「どうか……効きますように……」
ノエルが呪文を口ずさむと、掌に小さな魔法陣が浮かび上がり、淡い緑の光が漏れた。
その光がリゼの傷口を包むと、変色した皮膚が少しずつ元に戻っていく。
「……気持ちいい」
「はい。癒しの魔法です」
リゼはほっとしたように、小さく息を吐いた。
その横顔に、ノエルは安堵の笑みを浮かべた。
* * *
日が落ちても、外の雨音は途切れることなく続いていた。
けれど洞の中は焚き火に照らされて、ほんのりと暖かい。
ノエルはすっかり濡れてしまったケープの紐を解きながら、
「このままじゃ風邪をひいてしまいそうですね」
と笑った。
その様子を見て、リゼが慌てて止める。
「待て、服を脱ぐ気か?」
「え? はい、絞って乾かさないと……」
「やめろ……」
リゼは目を逸らし、わずかに耳を赤くした。
ノエルは不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか? ……女同士ですし、恥ずかしくないですよ〜?」
「……いや、そうなんだが……」
ノエルはリゼに背を向けるようにしてローブを脱ぐと、レーニェ(léine) と呼ばれる下着姿になり、隅の方で水気を絞った。
横ではリゼが、バツの悪そうな顔で俯いていた。
焚き火の炎が、二人の影を壁に落とす。
土の匂い、薬草の香り、雨の音。
不思議と落ち着くその空間で、ノエルは小さく息をついた。
「……もう少ししたら、薬が効いてくるはずです」
「すまない。助かった」
「いえ、当然のことをしただけです」
ノエルは外の景色に目をやった。
「まだまだ半人前ですけど、人の役に立てる薬師になりたくて」
「そうか……」
雨音が、二人の沈黙を埋めていく。
洞の中に、火と雨の音だけが響いていた。
ノエルは濡れた髪を整えると、腰のポーチに手を伸ばした。
小さな瓶から飴玉を取り出し、リゼに差し出す。
「はい、蜂蜜とハーブのドロップです。おひとつどうぞ」
リゼはちらりと見たが、すぐに視線を逸らした。
「菓子などいらん」
そう言いながらも、チラチラとドロップを気にしている。
そんなリゼの素直じゃない態度に、ノエルは小さく笑った。
「ふふっ、顔に『食べたい』って書いてありますよ〜?」
「……そ、そんなことはない!」
ノエルは飴玉をひとつ、リゼの手にそっと置いた。
「じゃあ、これは『薬』ということにしましょう。それならいいですよね?」
リゼは黙って包みを開け、飴を口に含む。
ほのかな蜂蜜の甘さが広がった瞬間、彼女の鋭い眼差しが、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……美味い」
「でしょう? 甘いものは疲れを取ってくれますよ」
ノエルが微笑むと、リゼは視線を落としたまま呟いた。
「ありがとう……」
焚き火がパチリと鳴って、二人の間の沈黙を繋いだ。
ノエルは焚き火の炎を見つめながら、
(この人……言葉は不器用だけど、きっと優しい人だ)
そんなことを考えていた。
——雨はまだ、止みそうになかった。
だが、心のどこかでノエルは信じていた。
この夜が明ける頃、きっと新しい何かが芽生えている、と……。
〜 To be continued 〜
ノエルとリゼが初めて出会った、雨の森での出来事でした。
無愛想なリゼと、まっすぐなノエル。
相反するふたりの『光と影』とが交わった瞬間です。
次回、後編『雨に咲く百合の花〜雨の中で寄り添う心〜』へと続きます。
静かな夜とぬくもりの中、二人の距離はさらに近づいて……?
……お楽しみに!




