第64話 衆議院選挙⑤
桃子がアザミの声を聞いた、数分前の出来事。
東京都。千代田区。内閣総理大臣官邸。首相執務室。
衆議院選挙、投票最終日。午後12時ちょうど。約束の時間。
室内にある古い壁掛け時計が、ボーンという無機質な音を響かせる。
(早く決着をつけないと……)
アザミは父、一鉄との交渉を進めながらも、内心焦っていた。
官邸よりすぐ近くの国会議事堂前で『エンジェルロード』を披露する。
そうSNSで拡散し、今頃はフェスで聞きそびれた観客が集まっているからだ。
「……『お前が』諦めるとは、つまり、どういうことだ」
ただ、こちらの事情なんて、父には一切関係ない。
示されたのは選挙と曲を取るか、仲間の命を取るかの二択。
対し、アザミが答えたのは『わたしが諦めればいい』という回答だった。
「い、伊勢神宮としての、わたしは死にます。そ、その代わり、仲間の命は……」
選んだのは仲間の命。選挙と曲を諦める選択。
でも、裏はある。この条件が吞まれれば、勝てる。
(わたしが駄目でも、きっと桃子さんがなんとかしてくれる……)
Vtuberを形作っているのは、外見。
中身を引き継いでくれる人がいれば、死なない。
選挙と曲をここで諦めることになったとしても、代わりがいるんだ。
「ほぅ。伊勢神宮を仲間が演じ、『お前は』諦める。といったところかぁ」
しかし、父は裏の意味を読み取り、言い返してくる。
見抜かれていたんだ。Vtuberの中身を入れ替える。なんて小細工は。
「……い、いけませんか?」
だとすれば、開き直るしかなかった。
嘘をついたところで、この人には通用しない。
「痴れ者が。そんな子供騙しの理屈が、この私に通じるとでも思うのか?」
低い声。険しい顔。射貫くような視線。
背中に雨か汗か分からないものがすぅっと伝う。
言葉が鋭利なナイフのように、心をえぐってくるようだった。
「お、思いません。でも、ち、千葉家の跡目を継げるのは、わたしだけのはず」
それでも、勇気をもって食い下がる。
議題に出したのは、有利を作れる唯一の取引材料。
これ以上の手札なんかない。ここから話を有利に進めるしかない。
「選挙と曲の披露を諦めろ、と私は言った。跡目を継げなどと言った覚えはない」
しかし、当然のように通じない。
正論だった。思い返せば、確かに言っていない。
眉がぴくりと動いただけで、勝手に有利だと勘違いしただけ。
あくまで、選挙を潰すことが目的。跡目を継ぐことに価値なんてなかったんだ。
(跡目はもう有効じゃない。だったら、このまま上手く時間を引き延ばせば……)
考えを切り替え、時間稼ぎをするために知恵を絞る。
実際、もう指定の時刻は来ているし、父は恐らく気付いてない。
どうにか交渉を長引かせれば、シスターユリアの妨害なくお披露目できる。
「……次は、時間稼ぎをすれば上手くいく、とでも考えている頃合いか」
どきりと心臓が高鳴る音が、体から聞こえる。
図星だった。でも、どうにか悟られないようにしないといけない。
「な、なんのことですか」
表情を引き締め、できるだけ声を震わせず、返事をする。
合の手を多くして、会話を遅延させる。それだけに注力しよう。
「シスターユリアは、すでに国会議事堂前に向かっている」
そんなものは関係がなかった。
用意する手札がことごとく通用しない。
それどころか全て先回りされ、手を打たれている。
「……っ!!」
体は勝手に反転し、背後の扉に手をかけていた。
交渉のことなんか忘れて、すぐに助けに行きたかった。
「己のエゴを取る、というのだな」
それを父は呼び止める。最高に頭が冷える言葉を添えて。
「え、エゴじゃない! な、仲間を助けるのに理由なんて――」
それでもアザミは必死で頭に浮かんだ言葉をまくしたてる。
「全て諦めろぉ。そうすれば、この私が責任をもってユリアを止めてやる」
それを遮るように父が懐から取り出すのは、携帯。
全て諦めれば、電話をかけて止めるということだろう。
(己のエゴ……。夢を諦めれば仲間は助かる。でも、諦めなければ……)
考えを巡らせても、ぱっと答えは出てこない。
何が正しくて、何が間違ってるのか分からなくなる。
(ナナコさんなら、鬼龍院みやびなら、一体どっちを選ぶんだろう……)
時間が限られている中、思いすがるのは、理想の人物。
彼女なら、きっと切り抜ける。その模範が、答えが欲しかった。
『夢を現実に変えるのは、行動したからではありません。行動しようと思った自分自身の心が根っこにあったからです。人も鬼も、悩みや問題の答えを、自分の外側に求めがちですが、大体の答えは、自分の内側にあるものなんですよ』
そこで思い起こされるのは、広島で特訓していた時の言葉。
(違う。ナナコさんは関係ない。答えは、今、わたしがどうしたいか……っ)
頭の中で何かが繋がっていく。教わっていたんだ、とっくに。
「……あ、諦めません! せ、選挙も曲も、この手でやり切ります!!」
心の声を、そのまま言葉にする。
リスクは全部承知の上。それでもやりたい。
自分の力でやってのけたい。そんな好奇心が勝っていた。
「やめておけ。お前の母親がどうなったか、忘れたわけではないだろう」
当然、父は止めてくる。
物理的な障害じゃなく、精神的な障害。
最悪の思い出に繋がる言葉。二度と思い出したくない記憶。
(……分かってる。全部、分かってる)
胸の内から嫌なものが体中に広がっていくのを感じる。
立ち止まるには、妥当すぎる理由。諦めるには、十分すぎる理由。
きっと諦めても、事情を説明すれば誰も文句を言わない。分かってくれるはず。
「……あ、あの時と、同じじゃない!!!」
それでも、胸の内は決まっていた。
今更変えられない。諦められるわけがない。
アザミは裸足のまま駆け出した。夢を現実にするために。




