第62話 衆議院選挙③
東京都。千代田区。内閣総理大臣官邸。首相執務室。
衆議院選挙、投票最終日。午前11時55分。執務机に座るのは、千葉一鉄。
「……入れぇ」
表情は険しく、厳かな声が部屋に響く。
その声に従い、重厚な両開きの扉がゆっくりと開かれる。
「――――」
入ってきたのは、裸足で水浸しの女性。
白黒の袴を着た、伊勢神宮の中身。千葉薊。
眼光は鋭く、射貫くように正面の人物を見ていた。
「何か言いたげな顔だな。遠慮なく言ってみたらどうだ」
一鉄は眉一つ動かさずに、話を促してくる。
どうせお前には何もできない。そう言われているようだった。
(……変わってない。あの頃から何も)
目の前にいるのは、吃音症と男性恐怖症の元凶。
思い出すのは幼少期。千葉家の道場で厳しく指導される光景。
足も体もがくがくで、立っているのがやっと。逃げていいなら逃げたかった。
「あ、あなたが、ち、父上が、わたしを出馬させた、ち、違いますか?」
でも、全部はっきりさせる。そのためにここに来たんだ。
どんな結果になろうとも、それが一番後悔のない選択。それ以外なかった。
「だとしたら、なんだ」
返ってきたのは、はぐらかすような答え。
肯定も否定もしない、いかにも政治家らしい回答。
不利になるような回答はしない。だから、ここまで上り詰めた。
(下手な探りは逆効果。一言で核心を突かないと……)
選択肢を間違えば、会話すらしてもらえない。
扉の外で待機するSPに捕まり、外へ放り出されてしまうだけ。
「せ、選挙でわたしを負かし、千葉家の跡目を継がせる。それが目的、ですよね」
そうして、切り出したのは、精一杯考え抜いた答え。
きっかけは、地下牢で一心のそばにいた、ごつい鬼の言葉。
『アンタの目的は、千葉家の跡目が欲しい。だったよな?』
一心の目的は、千葉家の跡目だった。
その跡目を決める権利を持つのは父。千葉一鉄。
恐らく、父は彼を拒絶した。だから、八つ当たりしてきた。
そう考えれば全て繋がる。点と点が線になる。欲しがるものが見えてくる。
「……」
父は無言だった。ただ、眉がぴくりと動いた。
当たりかもしれない。いや、当たってくれないと困る。
「わたしが千葉家を継ぐ、と言えば、邪魔、しないでもらえますか」
アザミは続ける。当たっている前提でまくしたてる。
そうせずにはいられなかった。そうしないと不安で仕方がなかった。
「邪魔とは、なんのことだ」
父は必要最低限の言葉しか話さなかった。
それでも食いついた。少なくとも興味がない情報じゃない。
「せ、選挙と、さ、最後の曲のお披露目を、です」
ここで差し込むのは、こちらの要望。
メリットをちらつかせた上で、条件を呑んでもらう。
不利な交渉を何度も持ち掛けられた末に見つけた、自分なりのやり方だ。
「邪魔さえなければ、この状況から逆転できるとでも言いたいのか」
見下すような目線。馬鹿にするような声音。
本来、投票の状況は開票前に知ることはできない。
ただ、選挙管理委員会に手を回しておけば知ることは可能。
その途中報告を知っているからこその余裕。だから、父は強気なんだ。
「で、できます! あ、あの曲なら……いいえ、わ、わたしの歌声なら!」
それでも、大差なんだとしても力強く言い切った。
今回は路上ライブの時のような、薄っぺらい自信じゃない。
挫折と成功を経て形成された硬い土台の上に築かれる、強固な心の城だ。
「多少の修羅場はくぐった、というところかぁ」
鼻で笑われるかと思ったけど、反応は悪くなかった。
この手応えならいけるかもしれない。そんな期待感が高まる。
「じゃ、じゃあ……っ!」
「だが、足りんな。選挙と曲の披露を諦めろ。さもなければ、ユリアを動かす」
上げて落とす。期待させて裏切られる。
(やっぱり、一筋縄じゃいかない……)
千葉家の跡目を継ぐ。この手札は効果があった。
それでも対等な交渉には遠く及ばない。その原因は一つ。
シスターユリア。保有する能力からして、核兵器クラスの特記戦力。
(あの鎧との衝突を避けるには諦めるしかない……。でも……)
選挙と曲を取るか、仲間の命を取るか。
まただ。また、大事なものを天秤にかけられる。
それも勝手に、こちらの意思に関係なく、力で脅してくる。
(歌いたい。選挙で勝ちたい。逆転してやりたい。これは我がままなんだよね)
考えても、考えても、結局は一つの場所に行きつく。
自分勝手な我がままで、仲間を傷つくのはもう見たくない。
全部諦めれば丸く収まる。身内がこれ以上、死ぬのを見なくて済む。
「……お前はどちらを選ぶ。己のエゴか、他人の命かだぁ」
理解していないと踏んだのか父は二択を提示する。
言われなくても分かってる。どちらが正しいかも分かってる。
(自分か、他人か……)
答えは二者択一。限りなく抽象化された選びやすいテーマの選択。
「そ、それって、『わたし』が、諦めるだけで、いいんですよね」
アザミが選んだのは、他人。
一筋縄じゃいかないのは分かってた。
だから、手は打ってある。ここからが本番だった。
シーン冒頭の開始時刻ですが、11時→11時55分に変更しました。




