1.博多の屋台街にて
職を失い根無し草になって半年が経とうとしている。
風に流され、こんなところまで来てしまったのかとタメ息をもらし、川向こうをぼんやりと眺めた。
重く垂れこめた雨雲は街灯りを反射し、ほの赤く染まっている。その雨雲を切り取るように伸びる建物、煙突は高さも太さもバラバラで、統一感の欠片もない。
廷都の、十二階に切り揃えられた建物、等間隔に居並ぶ煙突を見慣れた目には、なんとも落ち着かない様相だった。
蒸気機関の発する鈍く早い駆動音。かん高かったり低かったりする排気音。機構の軋み。それらが混然一体となった音響だけが、廷都と共通していた。
肩からずり落ちかけたトートバッグを直し、体の向きを変える。腕を預けていた木の柵に背中をもたれかけると、ずらりと並ぶ屋台を見渡した。
軒先から吊り下がる赤い提灯やガスランプが、行き交う人々を誘う。笑い声。明るい音楽。威勢のいい呼び込み。湿気を帯びた生ぬるい風が吹くと、甘く刺激的で香ばしい、ときに野性味あふれる濃密なにおいが漂ってくる。
活気に満ちた屋台街は、雑多な博多の街を凝縮したようだと思った。
自分が、ひどく場違いなところにいるようで、またタメ息がこぼれた。
――なんで俺、こんなところにいるんだろ……。
分かっている。自分の選択の結果だ。自分で西海に行くと決めた。
それでも、家族と離れ、廷都から千キロも離れた、この地に来ることは自分にとって意味があるのか。
俺は技師として……。
「お待たせー!」
喧騒を貫く元気な声で我に返る。するりと器用に人波を縫って駆けてきた女性は、整った顔に笑窪を見せて笑った。走ってきたせいなのか、飲酒のせいなのかは分からないが、頬を上気させた様子は愛嬌を添えて、魅力的に見えた。
見た目だけは。
「佐飛さんは?」
尋ねると、湊はきょとんとした顔をして振り返った。肩までの髪を無理やりまとめたバレッタで、小さなつまみ細工の花が揺れる。
「一緒に歩いとったとに、どこ行ったとやろ?」
――走って来たよな?
口先まで出かかった言葉を飲み込み、湊の来た方向を確かめる。
雨は止んで傘を差す人はいないが、俺たちが来た当初より人出は増えている。湊が後ろも気にせず独走したせいで、はぐれたんだろう。
虫よけについて行ってもらったのに、当人がこれでは、なんの意味もなかった。
「まー、そのうち来るけん、待っとったら良かばい」
やたらと度量の大きな雰囲気を漂わせて言うと、湊も柵にもたれた。
すぐに顔をしかめて柵から離れる。そして、不機嫌そうに見上げてきた。
「冷たかー」
「雨で濡れてたからな」
「なんで先に言わんと? 背中、濡れたやん」
「見れば分かるだろ」
「イサさんのなんかかっとったけん、うちもなんかかったと!」
――人のせいにするなよ。
そう言い返す代わりに、身振りで背中を向けるように示す。
周囲に目を走らせ、周りの人たちの注意が俺たちへ向いていないことを確認。右手に持っていた傘を左手に持ち直すと、軽く右の手のひらに力を集めた。ピリピリとした軽い刺激に手のひらが疼く。
もう一度、辺りを見回して人目を確かめると、紺地に大きな水玉模様をしたブラウスの表面をサッと払った。
「乾いたか?」
湊は後ろ手にパタパタと背中を触れ、振り返って頷いた。
「ありがとう。ばってん次からは、ちゃんと言わんといかんばい。気の効かん男は好かれんけんね。分かった?」
小さな子に言い聞かせるような口調。俺より二つも年下なのに、なぜ、こんなにも偉そうなのか。二年ぶりに再会しても、まったく変わらない態度が懐かしくも有難くも、鬱陶しくもあった。
返事はせず、湊の寄りかかっていた場所に手を触れて、表面についていた水滴をさり気なく飛ばす。湊は自分でもペタペタ触れて乾いたことを確認すると、身を投げ出すようにして柵にもたれかかった。
日野湊。彼女と知り合ったのは五年前だった。
彼女は西海政府に入庁早々、苑廷は廷都の西海府事務局に配属されてきた。同時期、俺の務めていた魔導事務所が事務局の事業に携わることとなり、湊と知り合った。
俺の祖父母と父が西海出身なこともあって、なんやかんやと仕事以外でも親しく付き合っていた。ほぼトラブルと面倒ごとと苦労の記憶しかないが。
湊が西海に帰ってからも、手紙のやりとりだけは一方的だが続いていた。
けれど、今回、西海へ来るのに湊と会うつもりはなかった。廷都で知り合った西海人の誰とも、顔を合わせたくはなかった。
なのに湊は当然のような顔をして目の前に現れた。梅雨時の、この蒸し暑い最中に振袖を着て。
唖然とする俺たちに平然と言い放った。
「お仕事ばい」
公務員が、どんな仕事なら駅に振袖姿で現れるんだ。
そう言いたかったが、湊ならさもありなん、と納得している自分もいた。結局、俺が築いた壁なんて湊は容易に乗り越えて、また飲むことになった。
「トイレ、混んでた?」
手持無沙汰で、どうでもいいことを聞く。
「十メートルぐらい並びよったばい」
さすがに、それは大袈裟だろう。と思うが、これだけ屋台が並び、客で溢れていればあり得るか? 並びたくもないし、また雨が降り出す前に帰った方がいいだろうか。
腕時計を確かめる。いつの間にか十一時も近くなっていた。
「佐飛さん戻ったら、そろそろお開きにしようか」
「えーっ。今夜は徹夜するち言うたやろ!」
湊は不満も露わに言った。
「そんなこと言った覚えはない。俺は今朝、四時起きした上、丸半日を飛行船で移動してきたんだぞ。おまけに明日も早いんだから休ませろよ」
「ほんなこつ、イサさんは冷たか男ばい。うちん気持ちは、どげんでん良かったいね。せっかくイサさんばもてなそう、ち思うて寝らんで考えとったとに」
湊の言葉に喉が締まった。ゆっくりと息を吐き出し、強張った口を動かして言う。
「……やっぱり、俺が来ること知ってたんだな? 偶然、駅で出会うなんておかしいと思ってたんだ。誰に聞いた」
湊はピクリとも表情を変えず答えた。
「えー? なんのことー? 私、知らなーい。イサさんが西海に来るなんて、誰からも聞いてなかったよー」
「棒読みの基準語で誤魔化せると思ってるのか?」
腹の立つ口調に厳しく言うと、湊はムッと口を尖らせた。言い返してくるかと思ったが、渋い表情のまま視線を地面に落とす。蝶の刺繡が施されたパンプスで、ありもしない石を蹴り、ぶつくさ呟いた。
「イサさんこつ心配して、なんが悪かと? うちは、ただイサさんば元気づけよう、ち思うただけなんに。なんで、こげんこつ言われんといかんとやろ」
傘の柄を握る手に力がこもる。湊から視線をそらし、川向いへと目を向けた。
西海に来ることになった理由さえ知っている。そんなことまで知らせられるのは、祖父ぐらいしか思い当たらなかった。旅行の手続きは、すべて祖父に任せていた。そのツケを、こんな形で払うことになるとは思いもしなかった。
苛立ちと羞恥をぶつけたくなる気持ちを堪える。
――湊は、ただ連絡をもらっただけ。湊が悪いわけじゃない。
そう思っても、どうしようもなく感情は乱れた。佐飛さんのことがなければ、背を向けてさっさと離れてしまいたかった。
「イサさん……」
そっと触れてきた手から離れるように腕を引く。
が、湊は自分で手にした傘の柄ごと俺の手を鷲掴んで離さなかった。
竹製の柄についた節が、ちょうど骨に当たって痛い。引きはがそうとしても細く華奢な手のどこに、そんな力があるのかと思うほどしっかり握ってくる。
湊は人の痛みなど気づいた様子もなく、真剣な眼差しで見つめてきて言った。
「うちはイサさんの親友やけんね。なんでん言うて良かとよ。なんでんしてあげるけん、遠慮なく言うてね。寂しかったら筑州に来ても良かよ。そうたい、筑州ば来んしゃい。それで全部解決するばい」
「ひとりで納得するなよ」
相変わらずの独断っぷりに怒る気も失せる。
「筑州は良かとこばい。イサさんも絶対、気に入るけん大丈夫。うちが保証しちゃる。みーんなイサさんの味方やけんね!」
「……そう。ありがとう。そういう流れになったときは頼むよ」
軽く息をついて言うと、湊はにこりと笑窪を浮かべた。
この笑顔に、大概の男は騙される。
「佐飛さん、遅かねー」
手はしっかりと握ったまま、湊は屋台の方へと目を向けた。ぶらぶらと子供のように腕を振られる。湊も二十五になったはずだが、まったく変わっていない。
「はー、失敗やったばい。お兄さんやけん大丈夫ち思ったとに、迷子になるなんて。ちゃんと案内せんといかんやったねー」
失敗したとか言いながら、佐飛さんが失敗したみたいに聞こえるのは気のせいか?
廷都から筑州への直行便は限られているため、大阪で乗り継ぐのが一般的だ。俺も大阪で飛行船を乗り換え、そのとき隣席になったのが佐飛さんだった。
俺より少し年上の気さくな人で、いろいろ話をするうちに同じ魔導技師、行き先も同じことが判明した。佐飛さんは博多で一泊するというので、また会う約束をして別れ……るつもりだった。
けれど、運の悪いことに俺の予約していた夜行列車が雨で運休となり、期せずして俺も博多で一泊することになった。
そこに湊が現れ、ズルズルと一緒に飲むことになった。
「まさか酔っぱらいに絡まれてたりしないよな?」
「イサさんじゃなかけん大丈夫やろ」
「俺じゃないから、って、どういう意味だよ?」
「まー、自覚のなかと? イサさん、飲み行ったら、いっつもトラブル拾いよったやん」
「大半は湊が引き起こしたトラブルの尻ぬぐいだったぞ?」
「人んせいにしたらいかんばい」
「どっちがだよ」
「うちはね、責めてるんやなかと。イサさんの優しか気持ちが、トラブルば拾いよったち知っとうけんね。うちはイサさんの、そげんとこ好いとうよ」
良いことを言っているんだろうが、まったく感動を覚えない。噛んで含めるような口ぶりは、子供を相手に説教しているようだ。
「ばってん、もう少し自分も大事にせんといかんばい。イサさんが傷ついたら、おじいちゃんとおばあちゃんも悲しむけんね。ひとりの体ち思うたらいかんと」
無駄に核心を突いた言葉に罪悪感を刺激される。
俺は一体、なんのため西海まで来たのか……。湊に説教されるためでなかったことは確かだった。




