『しんみりなんて、終われない!――ワンダーランドは永遠に!』
ロンドン郊外――サウス・ノーウッド。
そこには、医者を辞めて文筆業に専念した男の家がある。
――コンコン。
静閑な街並みに響いた、その家のドアを控えめにノックする音。
戸口の前に佇んでいたのは、衣服を硝煙の煤でうっすらと汚した、一人の浮浪児だった。
その住人である大柄な偉丈夫が怪訝そうにドアを開けると、浮浪児は無言のまま、ポケットに入れていた一通の折り畳まれたメモを手渡した。
男がそれを開き、そこに書かれた文字列――クリスタル・パレスの底から回収された、ジャバウォックの核に関する緻密なからくり技術データを確認すると、満足げにその立派な口髭を吊り上げた。
「さすがだ、いつも的確な情報をくれるな、君は。これは謝礼だ。持っていきなさい」
男から差し出された数枚の金貨(手当)を受け取ると、浮浪児はニィッと不敵に笑み、その煤まみれの容姿にはおよそ似つかわしくない、完璧にして美しいカテーシーで、男へと深く礼をした。
偉丈夫――コナン・ドイルがこの少女と出会ったのは、数ヶ月前のことだ。
ランベス、ウェストミンスター、そしてサウス・ケンジントンで暴動が起き、ロンドン万博のクリスタル・パレスが炎上したと聞きつけ、自らも会場へと駆けつけた時のことである。
暗がりで倒れていた少女はひどい火傷と銃創を負い、この未曾有の暴動に深く巻き込まれたものと思われた。
医者として、そして生き過ぎたレディ・ファーストの紳士として、ドイルはこの名も知らぬ少女を必死に介抱し、自らの自宅へと連れ帰って完璧な治療を施したのである。
少女は後天的な理由からか、耳は聞こえても喋ることは出来ないらしい。
だが、その一方で高度な読み書きはできるという不気味な歪さを兼ね備えており、国家を揺るがす何か曰く付きの存在だとは思われた。
命を救われてなお、自らの本名すら頑なに語ろうとしない少女に対し、ドイルは困ったように肩をすくめると、いつしか彼女へ「フロプシー」というウサギの妹の名を付け、自らの助手として雇い入れたのである。
――ワンダーランドの案内人たるウサギは、死んでなどいない。
特務機関の解散の裏で、影はこうして新しい名前と手当を受け取り、次の事件、次の歴史の裏側へと、ただ静かに耳をピンと立てて旅立っていくのだ。
◇
ところ変わって、初夏の柔らかな陽光が降り注ぐ、オックスフォードの静穏な川辺。
ロンドンのあの紅蓮の暴発も、世界帝国の女帝が下した冷徹な裁きも、ここには一ラインの影も落としてはいない。
「あ、あああ、アリスくん、きょきょきょ、今日もこと、言葉遊び、しししし、しようか!」
ボートの対面に座って、ノートとペンを大切そうに抱えた父の友人――チャールズ・ドジソンが、緊張で喉を震わせながら、それでも嬉しそうに声をかけてきた。
「うん、喜んで、チャールズ。でも、今日は少しヘンテコなルールにしよう」
白のサマードレスに身を包み、何事もなかったかのように「平和で退屈な日常」へと還った、もう一人のアリス――アリス・リデルは、やれやれと生意気に首をすくめながら、手元にあった木製のチェスの駒(白のクイーン)を指先で弄んだ。
「その世界ではね、左右が完全に反転しているんだ。鏡を通り抜けた先にある、チェス盤のワンダーランドだよ」
「へへ、へぇ、おおお、面白い! どどど、どんなルール、なのかな?」
ドジソンが眼鏡の位置を直し、アリス・リデルの突飛な思い付きに子供のように目を輝かせて、膝の上のノートにペンを走らせる準備を始めた。
「その世界では、みんながチェスの駒のルールに従って動いている。不法侵入のじゃじゃ馬な王女様も、のじゃのじゃ騒ぐ十二単のゴリラ姫も、みんな鏡の向こうのチェス盤の上で、必死に戦っているんだ」
「ほ、ほほぉ! じゃじゃ馬の王女が、ち、チェス盤を駆けるお伽噺か。……最高にナンセンスで、す、素晴らしいよ、アリスくん」
「ふふ、ナンセンス、か。……まったく、ナンセンスだね」
アリス・リデルは、やれやれと首をすくめながら、きらきらと輝く川面を静かに見つめた。
大英帝国の歴史の闇へと葬り去られた、首切りウサギたちの実力行使の日々。
だが、彼女たちがロンドンで駆け抜けたヤンチャの記憶は、少女の生意気な口白を通じて、世界で最も愛されるお伽噺の構想へと、今、最も美しく反転したのだ。
◇
――ブォォォォォォォォォンッッッ!!!
重々しい汽笛が、広大な大西洋の水平線に響き渡る。
ロンドンを発ち、遥か東洋の故国へと向かう文久遣欧使節団の蒸気船。
その激しい潮風が吹きさらすデッキの物陰で、稲葉白がようやく訪れた一人の時間を静かに楽しもうとしていた、まさにその時だった。
「白! こんなところにおったのか! 探したのじゃ!」
「はぁ、見つかってしまいましたか。少しは一人の時間を戴きたいものです」
バタバタとアスファルトの床を蹴るようにして現れたのは、松平輝夜だった。
煤まみれだった十二単を脱ぎ捨て、旅慣れた幕末の装いに戻った和風のじゃじゃ馬は、身の丈を超える名槍《御手杵》を愛おしげに担ぎ直しながら、夕日に黄金色の瞳を輝かせてカラリと笑った。
「うむ。妾と白は運命共同体。氷山が来ようとも、妾が守ってやろうぞ」
「不吉なことを言わないでください。本当に氷山が流れてきたらどうするんですか」
白先生が懐中時計を指で弄りながら、あきれ顔で溜息を漏らす。
ロンドンでの特務機関の楽しいお茶会は公式に閉園したが、彼女たちが大英帝国で駆け抜けた、あの最先端の鉄と蒸気のキレ味、そしてじゃじゃ馬の魂は一ラインも消え去ってなどいない。
白はふっと穏やかな笑みを浮かべると、同じデッキの上で、静かに海を見つめていた同行の翻訳方の男へと視線を向けた。
「おや、福沢様。その顔は、貴方も何か企んでいる顔ですね」
「いや。天は人の上に人を作らず、と述懐していたのだ」
福沢はそう言って、波飛沫の向こうに広がる遥かなる故国を見つめたまま、最高に知性溢れる、しかしじゃじゃ馬たちに負けぬほど不敵な笑みを静かに深めてみせた。
「――結局は、学問こそが、人を作るのだ、とね」
男のその言葉を乗せ、使節団の帰国船は真っ赤な夕日を切り裂きながら、新しき日本の夜明け(実力行使)へと向かって力強く海を往くのだった。
◇
――それから、数ヶ月の時が流れた。
ロンドン万博での大騒動の果て、聖トーマス病院へと連行されたアリス王女とマーチ・ヘアの二人を待っていたのは、フローレンス・ナイチンゲールによる、その破天荒な気性を根底から叩き直すための容赦のないガチ指導であった。
地獄のような看護婦修行をみっちりと耐え抜き、表向きは完璧な「お淑やかな淑女」としての行儀作法を身につけたアリス王女は、大英帝国の命を受け、ついにプロイセンの地へと嫁ぐこととなったのである。
プロイセンの宮殿。その一室の気品溢れる私室にて。
「王女殿下、長旅お疲れさまで御座いました。お着替えなさいますか?」
「そうね、そういたしましょうか」
アリス王女は完璧なロイヤルスマイルを浮かべ、お上品な淑女の声で応じた。
「何をお召しになられますか?」
「こちらを」
そう言ってアリスがドレスケースから引き抜いたのは、爽やかな水色の生地に、純白の清潔なエプロンが仕立てられた――見紛うことなき、新たなる実力行使のための『水色のエプロンドレス』、およびその奥にギラリと隠し持たれていた相棒《宝剣ヴォーパル》であった。
「ぴっ! アーちゃん、改心したんじゃないんですかぁ?」
一緒に連れてこられ、お仕置き修行ですっかりお淑やかなメイド服に身を包んでいたマーチ・ヘアが、絶望のあまりウサギ耳を限界まで直立させ、本日一番の地声のパニックで叫んだ。
だが、アリス王女はお淑やかな仮面をガバッと脱ぎ捨てると、煤ひとつない愛剣の刃を美しく一閃させ、最高に不敵で、最高にロックなじゃじゃ馬の笑顔を咲かせてみせた。
「何を言っているの、マーちゃん。――さあ、新しいワンダーランドの始まりよ!」
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
これにて、拙作「ヴォーパルバニー」は終演となります。
さて、最終回にあたり、本作を創るに至った経緯をお話しようと思います。
数年前、たまたま買った「アサシン・クリード・シンジケート」。
実は、僕が初めて触れた「アサシン・クリード」シリーズでした。
19世紀のロンドンを駆け巡りながら、数々の事件を解決していく中で、いつしか自分自身すら、19世紀のロンドンを駆け巡っているような気分を味わったのです。
その興奮冷めやらぬ中で、19世紀ロンドンの代表作の一つ「不思議の国のアリス」と「シャーロック・ホームズ」をベースにしつつ、混ぜてしまおう!という狂気の発想から生まれたのが本作です。
ただ、あまりにも文才が足りなさすぎ、一度はエタったのです。
数年後、チャットAIとの会話の中で、創作小説のプロットについて盛り上がり、そこでAIの可能性を感じ、自分の苦手な部分を補ってもらいながら、サルベージしたのでした。
おかげで、こうして最終回までを迎えました。
実をいうと、切り裂きジャックのエピソードでは、何度もエタりかけながらも、なんとか食いしばって進めてきました。
第三章(最終章)に入り、ロンドン万博の話を書き始めた時が一番楽しかったかも知れません。
さて、再びエタらずに書くことができたのは、AIの協力も然ることながら、こうして読者様に支えられたことにもあります。
毎日、PVを「そのうち0になってしまうのでは?」と恐る恐る覗いては、0ではないことに安心し、そして活力となっていました。
本当にここまで牽引してくださり、ありがとうございました。
これにて、「Vorpal Bunny」、グランドフィナーレといたします。




