(一)実習棟の朝
◆ 一 実習棟の朝
ヴァルセイン王立東召喚士学校の実習棟は、朝から落ち着かなかった。
長机の上には、魔力石、補助札、記録板が並んでいる。床には生徒ごとに小さな召喚陣が刻まれ、朝の光を受けて白い線がかすかに浮かび上がっていた。
まだ何も呼ばれていない。
それなのに、実習室の空気だけは、もう少し硬かった。
「手順一、呼びかけ。手順二、応答確認。手順三、対象安定。手順四、簡易指示。手順五、帰還確認……」
リオル・ロステルは、自分の召喚陣の前で小さく呟いていた。
茶色の髪。少し頼りなさそうな目。制服はきちんと着ているが、肩には力が入っている。
今日の課題は、低位精霊の召喚と帰還確認。
見習い召喚士にとっては基礎中の基礎だ。
水精霊なら水を動かす。風精霊なら風を送る。火精霊なら小さな火を灯す。土精霊なら土を寄せる。
大きな成果は求められない。
安定して呼び、簡単な指示を出し、安全に帰す。
それだけの実習だった。
それだけが、リオルには難しかった。
「ロステル、また水精霊一体か」
隣の列から声がした。
リオルが顔を上げると、セリオ・ヴァインがこちらを見ていた。整った制服、整った髪、整いすぎた姿勢。どこから見ても貴族の家の子息だった。
「まだ始まってないよ」
「結果は見えている。水か風が一体。火と土は不発。東校は庶民にも門戸を開いているが、向いていない者まで残す必要はない」
「……うん」
リオルは反論できなかった。
ヴァルセイン王立東召喚士学校は、王立四校の中では庶民出身者が比較的多い。それでも、教室を見渡せば貴族出身者の方がずっと多かった。
召喚士は、契約、防衛、災害対応、時には軍事にまで関わる。
家の後ろ盾。責任の取り方。契約上の保証。
そうしたものが重視されるのは、リオルにも分かっている。
だからこそ、自分の立ち位置も分かっていた。
庶民扱いの見習い。
低位精霊の召喚も得意ではない。
召喚士になりたいとは思っている。
けれど、自分が召喚士に向いているのかと聞かれれば、胸を張って頷くことはできなかった。
「セリオ、その言い方はないでしょ」
リオルの前に、ユナ・フェルミアが半歩出た。
彼女も貴族だ。ただ、セリオのように身分を前へ押し出すことは少ない。声は強いが、怒鳴るわけではない。リオルを庇う時も、いつも少しだけ理屈を残す。
「事実だ。召喚士は契約と防衛に関わる。家の後ろ盾も、責任の取り方も違う」
「そういうところが貴族は面倒なのよ」
「君も貴族だろう、フェルミア」
「だから言ってるの」
セリオは一瞬黙った。
リオルは慌てて二人の間に声を挟む。
「僕は大丈夫だから」
「いつものことにしちゃだめ」
ユナはリオルを見た。
「でも、僕が精霊をうまく呼べないのは本当だし」
「本当のことなら何を言ってもいい、なんて貴族の悪い癖よ」
セリオが眉をひそめた。
その時、窓辺で小さな羽音がした。
リオルはそちらへ目を向ける。
実習棟の窓枠に、鳥が三羽とまっていた。茶色い小鳥が二羽、黒い羽の混じった鳥が一羽。どれも、リオルの姿を見ると逃げずに首をかしげた。
「あ、また来てる」
リオルは小さく手を振った。
鳥たちは、じっとこちらを見ている。
ユナが少し笑った。
「また鳥?」
「うん。たぶん、いつもの子」
「リオル、ほんとに小動物には好かれるよね」
「餌をあげてるだけだよ」
「それだけじゃ寄ってこないと思うけど」
「そうかな」
リオルは首をかしげた。
巣から落ちた雛を戻したことはある。窓辺にこぼれたパンくずを片付けたこともある。猫が近づいた時、そっと追い払ったこともある。
けれど、それは召喚士として特別なことではない。
少なくとも、学校の評価にはならない。
その証拠に、セリオは鼻で笑った。
「鳥に好かれても、召喚士評価にはならない」
「セリオ」
「何だ。事実だろう」
その言葉も、リオルは否定できなかった。
窓辺の鳥は、もう一度リオルを見た後、羽を震わせて飛んでいった。
実習棟の前方で、手を叩く音がした。
「全員、位置につけ」
実習教官のダリル・モートンが、教壇の横に立っていた。真面目で、やや眉間に皺が寄りやすい教官だった。
生徒たちがそれぞれの召喚陣の前に立つ。
ダリルは全体を見回してから言った。
「今日の課題は、低位精霊の召喚と帰還確認だ」
「はい」
「重要なのは、呼ぶことだけではない。呼んだものを安全に帰すところまでが実習だ」
リオルは少しだけ背筋を伸ばした。
呼ぶことだけではない。
それは何度も聞いている言葉だった。
けれど、リオルにとっては、まず呼ぶことが難しい。
「水精霊なら水を動かす。風精霊なら風を送る。火精霊なら小さな火を灯す。土精霊なら土を寄せる。大きな成果は求めない。安定性を見る」
安定性。
リオルは自分の両手を見た。
火精霊は無理だ。土精霊も不安定すぎる。風精霊は時々呼べるが、気を抜くとすぐに散る。
水精霊なら、何とかなる。
何とかなるはずだった。
※第1話「召喚士が召喚した召喚士」は全四回です。
続きます。
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