第35話「一日目が終わったこと、二日目が始まること」
ノンからの叱咤を受けて、シュナイザーは改めて旅程を確認することに決めました。ドトはゲリと一緒に見張りに立たせることにしました。逃走した『南方の使者』を警戒したためです。
もうとんと夜も更け、疲労と心労が祟ったのもあって、皆の両の瞼は分銅を括りつけたかのようにずっしり重いのでした。ですが、どうしてもこの夜の内に手短に共有しておくこととしました。
「二日目は隣町ランセーラでの休息後に大都市プラキリオンまでと申し上げました。ここまでは大きな変更はございません。しかし、新たに考慮するべき事項が……二つ発生しました」シュナイザーが地図上でプラキリオンを指しながら言いました。「まず一つ、ドトの点検によれば馬車の激しい損傷によって、ウェルコルテ街道の老朽化問題を踏まえ、安全性を考慮し、馬車で行くにはプラキリオンまでが限界と判断しました。よってプラキリオンで馬車を乗り捨て、三日目に関しては別の移動手段を模索致します」
「何か、あてがおありなんですか?」
シャンティがおずおずと訊きました。イーラーケルを胸にぐっと抱き寄せます。出発からたった一日しか経過していないにも関わらず、既に幾度となく自分と我が子の命の危機に瀕している現状から、旅が前途多難であることは嫌でも理解していましたし、理解していない方がおかしいというものです。
母として気を強く持とうと心がけていましたが、どうしても海底火山から湧く気泡のように次々と浮かび上がってくる不安を少しでも取り除いておきたいという思いを抑えられない様子でした。
「炭鉱の町スミノエから旅人の町ルイダまでトロッコが出ています。プラキリオンから関所を抜けてスミノエまではしばらく馬のみで行きます」
シュナイザーは淡々と答えます。事前にこうなることも計算に入れていたような口ぶりでしたが、それはもはや安心できる響きは伴っていませんでした。
「すると、ルイダから交差する町……たしか、セントクロスまでは?」
シャンティが続け様に尋ねます。
「ルイダには顔馴染みの騎士がおりますので、打診してみる所存です。それが無理でも人も情報も集う町です。セントクロスには必ず辿り着けます。そこから中都市グルジカンまでは──
「はいはいはい! 『砂滑り』!!!」ラチュウが待ってましたとばかりにいの一番に言いました。一行で彼だけが溌溂としているのでした。それでいて周りの空気を察する能力が著しく低下しています。この異様さの根源は酒ではなく、シュナイザーと同じく『騎士の誓い』に関係がありました。「そうだろ? ラクダ引きの隊商どもに厄介になるなんて野暮なことは言わないよな? シュナイザー!」
「……ラチュウ、それに関しては即答しかねる。まだ、どちらの可能性もあると思っておいてくれ」
シュナイザーがラチュウを諌めました。ラチュウの明るい声色はさながら洞穴の暗闇に消えていくようで気持ちの沈んだ一行の空気を和ませるのに効果的ではなく、ラチュウだけは「そうかそうか、決まったらすぐに教えてくれ」と上機嫌に返事をするばかりでした。
「…………『砂滑り』というのは何だ?」
マークガーヤが訝し気に訊きました。聞きなれない単語というものはいつも不安なものです。
砂漠なんてものは特に馴染みも薄いものでしたから砂の粒子よりも細分化された異文化が渺漠と広がっていることは想像に難くありませんでした。
「グルジカン付近の砂漠一帯での主要な交通手段です。百聞は一見に如かず、とも言います。実際にグルジカンで見られるまで楽しみにしておいてください」
「そうか…………相わかった」
馬車にさえ慣れるのに時間を要したのに得体の知れない乗り物を楽しめるだろうか──と言いたげながらマークガーヤは引き下がりました。それから彼はちらりとイーラーケルの方を見ました。
「はい。他に質問が無ければ次の考慮事項に進みます」シュナイザーは辺りを見回します。それから咳をして声の調子を整えるとより真剣な目つきになりました。「……ございませんね。それでは二つ、我々を追っている謎の怪異『南方の使者』について我々は常に考慮し、警戒にあたる必要があります。我々は現に奇襲を受けました故、これを俎上に載せぬ訳にも参りません」
シュナイザーはそう言うとカケンとスイケンより入手した、『南方の使者』についての情報を一堂に伝えました。
『南方の使者』──スキンウォーカーと換言して差し支えないでしょう。
少なくとも七名からなる、同じ顔を持つ、動物に変身する危険な魔女。交戦中に使用した魔法には体の一部を変形させる魔法(剣や揺り籠)、氷礫の魔法、光線を出す魔法、典型的な風景に思考を固定する魔法があります。さらに接吻によって隠していた情報すら吐かせることができるようです。テプタタの投げナイフを掴んだことから反射神経も発達しているとわかります。
「南方の使者の目的とするところは赤子です。理由は不明ですが、おそらくヴァンガーディーの大予言の『予言の子』とパンドゥロザ王国に巣食う魔族の統領『魔の王』に関連があると私は考えます」
「なあ、シュナイザー。一度にそこまで話しても皆さん、わからないんじゃないか?」戸口の傍で見張りに立っていたドトが言いました。膝はそこだけが北風を受けているように震えていました。「不安を煽るだけやもしれんぞ。皆さんが眠れなくなるだけかも知れん。あっしだってこのみっともない膝を見ろ、怖くないわけじゃない。そういう混乱はお前が一番望まないんじゃ──
「いいや、話すべきだよ。ドト」シュナイザーはすぐにこれを否定しました。けれどドトの細やかな気遣いごとは否定したくはありません。「もう私たちは共に戦う仲間なんだ」
「…………仲間か」
マークガーヤはこれに少し含みがあるようでしたがそれ以上、言葉を紡ぐのは避けました。
「そうか……お前がそう判断したなら、それでいい」
ドトはそう信服を示しつつも、自身が馭者という役職を担う故にシュナイザーが四日目、五日目については一切、ここで言及しなかったことに気付いておりました。
今回の旅の計画は『俊足』を誇る、スキンファクシやフリームファクシの馬車での進行速度から練られていたはずです。ドト自身が点検の結果を正直に伝えたのは事実ですが、まさか乗り捨てるという判断をすると予期してはおりませんでした。よくて、買い替えでしょう。
もともとが切り詰めたスケジュールです。このままでは自身の役目がなくなるばかりか、予定通り、帝都に辿り着くことなど到底叶いません。
──一体、どうするつもりだ? シュナイザー。まさか、あれを使うわけじゃなかろうな……ユリゼン山の……
「あーあー!」
おとなしかったため、眠っていたと思っていたイーラーケルが声を上げました。シャンティが慈愛に満ち溢れる表情で「そうね。仲間ね」と語りかけます。
それからいくつか、平易な質問に答えた後、シュナイザーは頭をぐっと下げました。
「……私からは以上です。皆様、遅くまでお疲れ様でした。明日からはより慎重に引き締めて参りましょう」
その夜はドトがテプタタに頼み込んで一行は『テプタタの気まぐれ酒場』の二階に泊めてもらえることになりました。
ノンとアルフォンゾは明日の朝、出発前には床屋に寄って薬を受け取るように言うと、重傷者を担いで店を出て行きました。
シャンティ、マークガーヤ、イーラーケルはブランケットに包まるとすぐに眠ってしまいました。この日は、夜泣きはありませんでした。余ったブランケットは死体にかけらて外に出されました。
シュナイザー、ラチュウ、ドトは夜中、代わりばんこに見張りに立ちました。ゲリもラチュウの番のとき以外はのっそりと起きだして一緒に見張りに立ってくれました。
テプタタとヨハンナもこの日は何だか寝付けなくて、店の片づけが終わると葉巻をくゆらせたり、秘蔵の酒を飲んだり、修理費用を勘定したり、ナイフの手入れをして過ごしていました。星がその輪郭をくっきりと夜空に刻み込むにつれて「うちで死人を出しちまった……」というテプタタのぼやきとヨハンナがその隣の哀しい丸みを帯びた背中を摩る回数が増えました。
こうして、イーラーケル一行の長い長い最初の冒険の一日目がようやく幕を終えたのでした。
それからあっという間に月が太陽に起きるのを急かす時刻になりまして、ところはヤーバクーから数十ロキ離れた荒廃した町スワン。
霧立ち込める、この町の中央にある教会の扉を一頭の黒い犬ががりがりと引っ搔いておりました。しばらく扉の前で回ったり、ぐるるると不機嫌そうに唸っていましたが、あるとき急に閃いたようですくっと立ち上がると全身の骨を組み立てなおすとフードを纏った長身の女性にすぐに変わりました。
それはあのイーラーケル一行を襲い、唯一逃げ帰ったあの『南方の使者』そのものでした。
「おお、ソウだった、ソウだった。一度、あの姿になるとツイツイ忘れてシマウのだ」
機嫌とフードの位置を直していざこの使者は扉をくぐりました。
血。血。血。
鮮やかで美しい残酷が彩る血の芸術。
薔薇窓もどっぷりと無償の愛を伝えるのにふさわしい色彩を湛え、林檎を模した教会の象徴もよく熟れてもぎとられる日を今かと待ちます。
「友ヨ! 姉妹ヨ! 可愛い可愛い七女が無事、帰りマシてよ!」使者が啼くように言いました。シャンデリアから血が滴り落ちて、フードに紅い花を一輪咲かせました。天井から床まで隙間なく全て生き物の血で塗りつぶされています。「どなたか出て来てオクンなんし! お伝えシタイことがアッテヨ!」
すると目の前にどんと何か白い人型の物体が落ちるように降りてきて、パイプオルガンが搔き乱されるような不協和音で鳴りました。空気がびりびりと震えて、何もかもを引き裂いてしまいそうな血生臭い風がどっと吹いて来て扉が乱暴に閉まりました。
使者が恍惚とした表情を浮かべました。
「お帰り、わたしの可愛い子」
白い司教用の上等な服に身を包んだ女性が、そのすらりと霜が降ったかのような白い手を差し伸べながら言いました。まるで血の海の中に雪の妖精が舞い降りたかのようでした。怪しく光り輝いて視線を安易に逸らすことさえも憚られるのでした。
「パニヒダ様!」
使者はその場で膝から崩れ落ち、その手に接吻しました。パニヒダと呼ばれたその女性は妖艶に笑いました。その首筋には微笑を描くような紅い曲線がすっと通っているのでした。




