第12話「最初の冒険が始まったこと」
樫月(7月)26日。
まだ雄鶏も鼻提灯をせっせと作り、太陽も夜闇というブランケットに顔をうずめる早朝。
夏にしては涼しく、夜霧が舞う中、アーファンルンク一家は家を出ました。シャンティは子どもの頃に何度か親戚を訪ねて隣村に遊びに行ったことがありましたが、マークガーヤは一度も村を出たことがありませんでした。イーラーケルは生後5日目にして外に出ることになります。とんだ家族旅行のはじまりでした。イーラーケルにとってはこれが最初の冒険となりました。
一家は村の東側にかかるレメーレ橋を渡りました。すると領主の家の方角から馬の嘶きと蹄の音、車輪の音が一気に聞こえてきました。そして、すぐに丘の上から白く煌びやかな四輪の二頭立て有蓋馬車がぬっと現れました。その脇から白馬に乗り、銀の鎧で身を包んだ騎士ふたりが現れました。
ふたりはすぐにアーファンルンク一家に気付いたようで、シュナイザーとおぼしき者がラチュウに何か言うと、そこから離れてこちらへやって来ました。馬車の方は一家の前を通りすぎて村の出口で止まりました。
近くまで来ると、シュナイザーは馬から降りまして、手綱を左手に握ってこちらへ歩いて来ました。
「皆さん。おはようございます」
シュナイザーは胸に右手をあて、首を軽く下げる挨拶をしてから言いました。
「おはようございます! わあ!お馬さん! かっこいいですね!」
「…………おはよう。なるほどたしかに立派な馬だな」
その声を聞いてぶるると嬉しそうに馬が身を震わせました。
「ありがとうございます。アールヴァクと言いまして昔からの親友なんです。この子も今回の旅の仲間ですから仲良くしてやってください」嬉しそうにシュナイザーがアールヴァクの首筋を撫でながら言いました。「さあ、参りましょう。他にも紹介したい者がいるのです」
シャンティとマークガーヤは頷いて、馬車の方へ向かいました。向かう途中、このアールヴァクの嘶きでいつもボールダン卿は朝目覚めるからこれからしばらくは朝が大変だと教えてくれました。馬車は近寄るにつれて綺麗なものに見えました。かぼちゃのような可愛らしい形に小窓がついていて、その形状をなぞるように金の装飾が取り付けられていました。下にはちゃんと、フィヨルギュン男爵ルーカスと金字で書かれてありました。
「おはようございます! いい朝ですね!」
馬車が見えてくるとラチュウもシュナイザーと同じように挨拶をしました。そして自分の馬のアルスヴィズを紹介し、ボールダン卿はまだこの馬車に二度しか乗ったことがないらしいという耳よりの情報を教えてくれました。
そして馬車から禿げた馭者の男がよいしょ、と言いながら降りてきました。
「やあ。アーファンルンクの奥さん、旦那さん。あっしはドトといいやす。よろしくお願いしやす」
一見、粗野な男に見えましたが、そう言うと照れくさそうに握手を求めてきたもので、マークガーヤは自分と同じような気質を感じました。ドトもそうみたいでした。ふたりはがっしりと拳を固めました。イーラーケルも小さなお手手で握手しました。それから馬車を引く二頭はスキンファクシとフリームファクシという名前であることを紹介してくれました。
それからアーファンルンク一家が布おむつだけでぱんぱんになった鞄をはじめとした、何点かの荷物を積んで、自らも客室に乗り込みました。
丁度、寝坊助の太陽が頭部を見せ始めたところでした。
「では、いよいよ参りましょう」
シュナイザーがそう言って馬上の人になりました。ラチュウも同じようにしました。ドトがはいよっとスキンファクシとフリームファクシに鞭を打つと、二頭は嘶いて鼻息を荒くすると馬車はゆっくりと動き出し、帝都を目指して一行は出発しました。
出発してほどなくした頃、馭者のドトが呟きました。
「まずは森を抜けんとな。『ウェルコルテ街道』に乗らんと」
「ああ。そうだね。ドトは慣れているだろう?」
信用している、と暗に伝えながら並走しているシュナイザーが言いました。
「ああ、もちろんよう。閣下を何度かお送りしたからな」
ドトは自慢げに言いました。
帝都までは『ウェルコルテ街道』というものが通っておりましたから、まずは村をぐるりと囲む、グーゲルの森を抜けて、さらにこの先の森をいくつか抜けてこれにのることが肝心でした。本来は旧帝都のアヴェルタリアンと現帝都のエアドランを結ぶという用途がありました。昔からのことわざに『ウェルコルテを往け』という言葉がある程にこの街道は有名で、その意味はウェルコルテに沿って歩けば必ず帝都に辿り着けるように、正道を往くものは必ず成就するというものです。
しかし、最近はこの整備が杜撰なまま放置されていると、よく村に来る行商人イノが愚痴をこぼしていたのをシャンティは訊いていたため、いくらドトが馬の御し方が達者であったとしても少し不安ではありました。イノのような行商人は品物だけでなく、情報も運んできてくれる、貴重な外の世界とのつながりでシャンティをはじめとした多くの村の者が重宝していました。
グーゲルの森を進む中、ドトが言いました。
「いやはや、昨晩は雨が降らんでよかったですよ」
「どうしてですか?」
シャンティが客室の中から訊きました。シャンティはイーラーケルを抱えて右の座席に、左にマークガーヤが座っていました。
「馬車は泥濘に弱くってね。足がとられてすぐ遅延しちまうんだ」やや顔をこちらに向けながらドトが言いました。「そうならなくてよかった。きっと順調な旅になるさ」
順調なものになればどれほどいいだろう──とシャンティは思いました。
森の中ではアールヴァクに乗るシュナイザー、アルスヴィズに乗るラチュウはときに馬車に並んだり、後ろへ着いたりと道幅に合わせて、臨機応変に走っておりました。
まだ整備されていない道を通っていますので、馬車の中はかなり揺れました。イーラーケルは、はじめはひっきりなしに泣いていましたが、やがて慣れたようで眠りだしました。
「…………お前は大したやつだよ」
感心したようにマークガーヤが言いました。初めて乗る馬車の感覚にまだ彼は慣れそうもありませんでした。それに彼にとってはもうここは未知の世界でした。
やがてグーゲルの森の空を覆う、木々の切れ間から太陽の光がさしこんできました。光の雨が降っているみたいでした。シャンティはその中で何か小さいものが楽しそうに飛んでいるように思えましたが、目をこするとそれは見えなくなりました。馬車は光の中を走っていきました。
少し行くと右手に小さな可愛らしい家が立ち並ぶ村が木々の隙間から見えてきました。家の煙突からはもくもくと煙が上がっていきます。起きだして来た人が村を歩いています。フェリペの村の隣村の『マリルの村』でした。
「あ、マリルの村だわ!あなた、いつか話したでしょう?」
シャンティがマークガーヤに喋りかけました。
「…………たしか、君の叔母さんが住んでるんだっけ?」
マークガーヤはしっかりと覚えていました。
「ええ、そうよ。子どもの頃、よく行ったわ」
しみじみとシャンティは言いました。それからマークガーヤは、シャンティからもう何百回と聞かされた、叔母が張り切ってグーズベリーパイを焼いたら火事になりかけた話や、叔母と川で釣りをしていて大物がかかったと思ったら村の名物じいさんが三年前に落とした入れ歯が釣れた話などをまた延々と聞かされました。何百回目でも気付いたら彼は笑っていました。
そんな他愛もない話に花を咲かせていると、とうにマリルの村を通り過ぎ去ってしまいました。ここからはシャンティにとっても未知の世界でした。
そうして、ついにグーゲルの森を抜けました。馬車はそのまま進んでいきます。
そこには草原がずっと広がっていました。草原には紫や白の花が咲いていまして風によって草と一緒にさーっと潮の満ち引きのように風によって揺れ動いていました。
「あなた、あれ何かしら」
シャンティが遠くの何かを発見して指さしながら言いました。マークガーヤは差された方向に目を凝らしました。たしかに何かがぽつぽつといて動いています。
「…………馬か、牛じゃないかな」
マークガーヤが自信なさげに答えました。この辺りに来るのは初めてだったので自信がないのも当然でした。
「ああ、きっとそうね! 草か何かを食べているのかしら」
「…………朝ご飯に違いないよ…………そう言えば、俺たちもまだ朝を食べていないな」
マークガーヤはぼんやりと呟きました。
牛や馬がまばらに散って草を食んでいるその奥には地平線あたりには小屋がありまして人がここまで来て草原を管理しているみたいでした。村の延長線にあるような長閑な開けた場所でした。
道筋をまっすぐ追うとまたそこには森が広がっていました。小川に架かった名も無き橋を渡ると道はいくつかの小道に分かれていましたが、進路を変えずそのままの方向で進みました。
太陽は出発した頃より、ずっと高いところにありました。雲がまばらに漂っていました。鳥がいくつか向かう森の方に我先にと飛んで行きました。
「そうですね……この先の森を抜けたら朝ご飯にでもしやしょうか」
ドトが最高の提案をしました。客室の中の空気がより一層、和み始めました。
「そうしましょう!」
いつもより、力強くシャンティは言いました。イーラーケルを見るとまだ眠っていましたが、直に起きだす頃だと思いました。少し遅れて「賛成だ」とマークガーヤが言いました。
馬車はそのまま草原を横目に通り過ぎて次なる森に入っていきました。この森の道は幅が狭いので一行は縦一列に並びました。先頭にシュナイザー(アールヴァクと)、ドトとアーファンルンク家(スキンファクシとフリームファクシも)、後尾にラチュウ(もちろんアルスヴィズも!)となりました。
クロウタドリの美しい歌声が聞こえてきました。コガネムシが木に張り付いて一休みしていました。トウヒやマツの木の枝が小窓に何度も触れてノックしました。
先頭のシュナイザーは馬車が通りやすいように道に飛び出した枝を剣で切りながら馬を走らせてました。
「シュナイザーさん、大変ですね。早く抜けられるといいけど」
シャンティがシュナイザーの背中を見ながら言いました。
「この道は滅法、狭いですからな。倒木なんてあった日にゃ通るのはもっと大変ですよ」
ドトが昔の苦労を思い返すように語りました。
「あれ、シュナイザーさん。どうしたのかしら」
そんなことを言った矢先、シュナイザーが止まって、ドトにも一旦、止まるように言いました。
ドトは一度、手綱を短く引いてスキンファクシとフリームファクシを停止させました。それから後車輪にブレーキをかけておきました。彼はそのまま、「ちょっと待っててくれ」と言って、シュナイザーの方に小走りで向かいました。
「…………様子を見てくる、イーラーケルとここにいてくれ」
マークガーヤはシャンティにそう言って、客室から降りました。「気を付けて」と背後からシャンティの声が聞こえました。
すぐにマークガーヤは駆けて行ってアールヴァクから降りたシュナイザーとドトに合流しました。
「…………どうかしたか?」
「おっ、旦那も来たんですね。いやはや弱りましたな。あんなことを言った途端にこれだ……」
「もう少しで森を抜けられるんだがな……雷か何かのせいだろうか」
そこには大きな倒木が地面に横たわって道を塞いでおりました。早くも一行の旅が誰かに妨害されているようでした。




