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十年前の忘れ物

八月の中旬、盆を過ぎても照りつける陽射しは衰えず、街は濃密な夏の熱気に包まれていた。

遠くから響く蝉時雨が、昼下がりの静まり返った住宅街に波のように押し寄せる。


あおいは実家の古い木造平屋の縁側に腰を下ろし、冷たい麦茶のグラスを傾けていた。

黒い長髪を首の後ろで黒いシュシュで束ね、風通しのいい麻の白シャツを着ている。

風鈴がチリンと乾いた音を鳴らすたび、庭の木犀の葉が微かに揺れた。


ガラガラ、と玄関の引き戸が開く音がした。


「――お邪魔しまーす! あおい、いるー?」


弾んだ声とともに、廊下を小走りに駆けてきたのは四宮このはだった。

薄手の花柄のサマードレスに、明るい茶髪を高い位置でポニーテールにまとめている。

左のこめかみには、あの淡い青紫色のヘアピンがきらりと陽光を跳ね返していた。

両手には園芸用の小さなスコップと、古い軍手を握りしめている。


「……おはよう、このは。暑いのに、元気だね」


「もう、おはようじゃなくてこんにちはだよ! 見てこれ、ちゃんと持ってきたよ!」


このははスコップを誇らしげに掲げてみせた。

縁側に上がり込み、あおいの隣に腰を下ろすと、冷えた麦茶を一口飲んでぷはっと息を吐く。


「覚えてる? 十年前の夏休み、私たちが十歳のとき! あおいのおじいちゃんが倒れる直前に、神社の裏のクスノキの根元に埋めたやつ!」


「……タイムカプセル?」


「そう! お菓子の丸い缶に、二十歳になったら開けようねって手紙入れて埋めたじゃん! 先週部屋の引き出し片付けてたら、あのとき書いた『宝の地図』が出てきてさ。私たち、今年で二十歳でしょ? 今日掘り起こさなきゃいつ掘るのって思って!」


このはがポケットから四つ折りにされた画用紙を取り出し、広げてみせた。

クレヨンで描かれた、歪な神社の鳥居とクスノキ、そして赤いバツ印。

十歳のこのはの、丸っこい筆跡。


あおいはその紙を見つめながら、指先を小さく強張らせた。


十年前の、夏。

祖父・九条玄真が姿を消した、あの最後の夏。

あの日、このはと一緒に神社へ行った記憶は、あおいの頭の中にも鮮明に残っていた。

けれど、その記憶の輪郭はどこか紗がかかったように朧げで――。


「……掘るの、今日じゃなきゃダメ?」


「今日がいいの! だって、お盆だしさ。おじいちゃんも、きっと空の上から見ててくれるよ。『あいつら、本当に掘り出したな』って笑ってくれると思うんだよね」


このはが屈託のない笑顔であおいを見つめた。

その真っ直ぐな瞳には、何の曇りもない。

おじいちゃんは病気で亡くなり、天国で見守ってくれている。

世界がこのはに与えた、平穏で優しい「物語」。


あおいはグラスを置き、立ち上がった。


「……わかった。行こう。でも、熱中症になるから帽子被って」


「はーい! あおいのお母さんみたい」


このはが縁側からぴょんと庭の飛び石に飛び降り、サンダルを鳴らした。

あおいは台所から冷えた麦茶を入れた水筒とタオルを二枚持ち出し、玄関へ向かった。

引き戸を開けると、もわっとした熱気が二人を迎える。

入道雲が青空の奥に高くそびえ立ち、アスファルトの坂道が陽炎に揺れていた。


「うわー、本当にサウナ! でも、夏休みっぽくてワクワクするね!」


このはが白い麦わら帽子を押さえながら、坂道を一歩一歩登っていく。

道沿いの民家の庭先からは、色とりどりの朝顔や向日葵が顔を覗かせ、どこかの家のテレビから高校野球の中継の歓声が微かに漏れ聞こえていた。


「あおい、十歳の夏休みも、こうやって二人で毎日遊んでたよね。宿題全然終わらなくて、八月三十一日にあおいの家に泣きついてさ」


「……覚えてる。算数のドリル、ほとんど私が解いた」


「あはは! 恩に着てます九条様! あのときあおいのおじいちゃんが、縁側で大きなスイカ切ってくれたよね。塩ちょっと振ると美味しいんだぞーって」


「……うん。懐かしいね」


あおいは水筒を握りしめ、ゆっくりと頷いた。

他愛のない思い出話のなかに、自然と顔を出す祖父の温かい記憶。

蝉の鳴き声が熱気を切り裂くように激しく響く中、二人は坂の上の鳥居へとたどり着いた。


---


実家の裏手の細い坂道を登りきると、こんもりとした鎮守の森に囲まれた古い神社があった。

石段を登りきると、境内には人影もなく、木漏れ日が石畳にまだらな影を落としている。

木々の緑が濃い影を落とし、境内に入るとふっと体感温度が二度ほど下がったように感じられた。

本殿の裏手に回ると、樹齢数百年を数える巨大なクスノキが、天を覆うように枝を広げていた。


「えっとね、地図だと……この幹の太い根っこの、北側から三歩行ったところ!」


このはが歩幅を測りながら歩き、クスノキの根元の一角を指差した。

地面には落ち葉と乾いた土が積もっている。


「ここだ! あおい、掘るよ!」


「……うん。手伝う」


このはがスコップを土に突き立て、ザクザクと掘り始めた。あおいも軍手をはめ、小さな移植ごてで土を掻き出していく。

土の冷たい匂いと、微かに立ち上る苔の香り。

蝉の声が頭上から降るように響く。


三十センチほど掘り進めたところで、カン、と硬い金属音が境内に響いた。


「――あった! あったよあおい!」


このはが歓声をあげ、素手で周りの土を払いのけた。

掘り出されたのは、色褪せたクッキーの丸缶だった。

蓋の周りにはビニールテープが何重にも巻かれていたが、経年劣化で茶色く変色し、ところどころ剥がれかけている。


「うわあ……懐かしい! サビサビだけど、ちゃんと残ってる!」


二人はクスノキの根元に腰を下ろし、缶の泥を払った。

このはが慎重にテープを剥がし、錆びついた蓋をゆっくりと持ち上げる。

パカッ、と乾いた音とともに、十年前の空気がふわりと漏れ出た。


缶の中には、十歳の頃の二人の宝物が入っていた。

駄菓子のおまけのキラキラシール。

神社の境内で拾った綺麗な形のドングリ。

あおいがこのはにあげた、壊れたビーズの指輪。

そして――二つ折りにされた、二通の便箋。


「入ってる……! 本当に残ってた!」


このはが目を輝かせ、ピンク色のファンシーな便箋を手に取った。

表には『二十歳になったこのはへ』と拙い字で書かれている。


「私、なんて書いたんだろ……! 恥ずかしいけど、読んじゃうね!」


このはが便箋を開き、声に出して読み始めた。


「えーっと……『二十歳になったこのはちゃんへ。ピアノの先生になれていますか? あおいちゃんとは、ずっと仲良しですか? 毎日ケンカしないで、一緒に笑っていますように。あと――』」


このはの声が、そこでふっと穏やかに緩んだ。


「『――あと、あおいちゃんのおじいちゃんの病気が、早くよくなりますように』……」


このはが便箋を見つめ、優しく目を細めた。


「そっか……私、おじいちゃんのこと書いてたんだ。あの頃、おじいちゃんずっと部屋で寝込んでて、あおいがすっごく心配そうな顔してたから……早く元気になって、また三人で縁側でスイカ食べたいねって、私、手紙に書いたんだ」


このはが便箋を胸に抱き、あおいを見つめた。


「願いは叶わなかったけど……でも、あおいとは今もこうして一緒にいられる。それだけでも、カプセル埋めてよかったな」


あおいは胸の奥が締め付けられるのを感じながら、缶の底に残された、もう一通の便箋を見つめていた。

水色の無地の便箋。

表には何も書かれていない。

十歳のあおい自身が、誰にも見せないように固く折り畳んだ手紙。


「あおいのも読もうよ! あおい、何書いたの? 二十歳の自分へのメッセージ?」


このはが無邪気に覗き込んでくる。


あおいは震える指先で、水色の便箋を手に取った。

紙の端が、微かに湿り気を帯びて冷たい。

折り目を開く。


そこに書かれていたのは――二十歳の自分へ向けた言葉などではなかった。


鉛筆で、紙が破れそうなほど強い筆圧で書かれた、たった二行の文字。


『おじいちゃん。

 せかいをたすけにいかないで。』


「……え?」


横から手紙を覗き込んだこのはが、きょとんとした声をあげた。


「せかいを、たすけにいかないで……? なにこれ? あおい、おじいちゃん宛てに書いたの?」


このはが不思議そうに首を傾げる。


「たすけにいかないでって……どういうこと? あおい、当時なんかのアニメにハマってたんだっけ? おじいちゃんのこと、ヒーローかなんかだと思ってたの?」


このはは「ふふっ」と可笑しそうに笑った。

悪気のない、純粋な疑問と微笑み。


けれど、あおいの耳には、その笑い声が遠くの海の底から響いているようにしか聞こえなかった。


――ドクン。

あおいの胸の奥で、固く閉ざされていた記憶の最後の錠前が、音を立てて粉々に砕け散った。


(……思い出した)


視界が歪み、十年前の光景が、鮮烈な色彩を伴って脳裏に蘇る。


あの夏。

祖父は、病気などではなかった。

祖父はあおいに、世界の真実を告げたのだ。

この街の外側から、すべてを無に帰す嵐が近づいていること。

この街の維持システムは、誰かが中枢にその身を捧げ、永久の楔とならなければ、あと数日と持たずに崩壊すること。


『あおい。すまないが、おじいちゃんは行かなければならない』


薄暗い居間で、正座した祖父が、十歳のあおいの頭を優しく撫でた。


『この世界はおじいちゃんが作った、偽りの箱庭だ。だが、お前が生まれ、あの子と出会い、共に笑ったこの日々だけは、決して偽物ではない。だから……おじいちゃんが守る』


幼いあおいは、泣き叫んで祖父の衣に縋りついた。

行かないで。世界なんてどうなったっていい。おじいちゃんがいなくなるのは嫌だ。

けれど祖父は、静かに首を横に振った。


そして――祖父は、あおいの額に指先を当てたのだ。


『忘れるのだ、あおい。おじいちゃんは、ただ寿命で、静かに病気で逝ったのだと。お前に、この世界の負債を背負わせるわけにはいかない』


祖父の手から放たれた金色の光。

認識を書き換え、記憶のインデックスを塗り替える、最強の認識操作の術式。

あおいは「おじいちゃんは病気で亡くなった」と信じ込まされ、その記憶を疑うことすらできなくなっていた。


だが――祖父は、あまりにもあおいを愛しすぎていた。

術式の完璧さを誇る偉大な魔法使いでありながら、孫娘の想い出をすべて奪い去ることに、最後の最後で躊躇してしまったのだ。

術式の隅に残された、微かな綻び。

「あおいが大人になったとき、もし気付いてしまうなら、それでも構わない」という、祖父自身の甘さと祈り。


そして何より――。

このタイムカプセルの手紙。

地中深く、金属の缶の中に密封され、世界の因果の更新ループから切り離されていた物理的な遺物。

認識操作の網の目をすり抜けて、十年前の真実が、そのままの形で残ってしまったのだ。


「あおい? どうしたの? 固まっちゃって」


このはの心配そうな声が、あおいの意識を現在へと引き戻した。

見ると、このはが不思議そうにあおいの顔を覗き込んでいる。

左のこめかみのヘアピンが、木漏れ日を浴びて小さく揺れていた。


あおいは便箋を握りしめた。

指先が小刻みに震え、視界が涙で滲みそうになる。

胸が張り裂けそうだった。

叫び出したかった。


おじいちゃんは病気で死んだんじゃない。

今も、あの冷たい闇の底で、私たちを生かすために削られ続けているんだと。

この手紙に書かれた文字は、子供の戯言なんかじゃない、本物の真実なんだと。


喉の奥まで、その言葉が出かかった。


――けれど。


あおいは見た。

目の前で、何の疑いもなく、穏やかに自分を見つめているこのはの瞳を。

十歳の頃から変わらない、無垢で、優しく、太陽のように明るい光。


もし、真実を告げてしまえば。

この街が偽りであり、自分たちの日常が誰かの犠牲の上に辛うじて乗っかっているだけの砂上の楼閣だと知ってしまえば。

このはのその笑顔は、二度と戻らない。

このはは耐えられない。世界そのものが、恐怖と絶望の色に染まってしまう。


祖父が命を賭けて守りたかったもの。

それは、このはの、そしてあおいの、この何気ない笑顔だったはずだ。


(……泣いちゃ、だめだ)


あおいは奥歯を強く噛み締めた。

溢れそうになる涙を、喉の奥へと無理やり飲み下す。

そして――ゆっくりと、十年前の手紙を胸の前で折り畳んだ。


「あおい?」


あおいは顔を上げ、いつものように、静かで、穏やかな目をこのはに向けた。

声が震えないよう、細心の注意を払って、息を整える。


「……子供の頃の、勘違い」


「え?」


「あの頃、おじいちゃんが病気で入院するって聞いたとき……私、おじいちゃんがどこか遠くへ行っちゃうような気がして、怖くて……絵本に出てくる魔法使いみたいに、世界を助けに行っちゃうんじゃないかって、本気で思い込んでた」


あおいは小さく微笑んでみせた。

嘘と真実をない交ぜにした、世界で一番切ない言い訳。


「……子供だったから。恥ずかしいこと、書いちゃった」


「あはは! なんだー、そういうことだったんだ!」


このはが破顔し、楽しそうに笑い声をあげた。


「でも、すっごくあおいらしいよ! おじいちゃんのこと、本当に大好きだったもんね。おじいちゃんもさ、こんなこと書かれてたら照れくさくて笑っちゃうよね」


このはは立ち上がり、パンパンとスカートの土を払った。


「よし! タイムカプセル発掘大作戦、大成功! 宝物はまた缶に戻して、今度はあおいの部屋に持って帰ろっか! あおいん家なら絶対なくさないし!」


「……うん。そうしよう」


あおいは手紙を丁寧に缶の底へと戻し、錆びた蓋を閉じた。


クスノキの梢を、爽やかな夏の風が吹き抜けていく。

木漏れ日が揺れ、蝉の声が遠くへ吸い込まれていく。


このはが缶を抱え、神社の石段へと向かって歩き出す。

その背中を追いかけながら、あおいは心の中で、手の届かない深淵へと語りかけた。


――おじいちゃん。

全部、思い出したよ。

おじいちゃんがくれた嘘も、遺してくれた優しさも。

だから、安心して。

私はもう、子供みたいに泣かない。

この街の明日を、あの子の笑顔を、おじいちゃんと一緒に……私が守り続けるから。


神社の鳥居をくぐると、夏の日差しが二人を白く包み込んだ。

このはが振り返り、「あおい、帰ったらスイカ食べよ!」と眩しそうに笑った。


「……うん。食べよう」


あおいは静かに頷き、その隣へと並んだ。

蝉時雨が降り注ぐ神社の境内で、あおいだけが、十年前の手紙に込められた真実の重さと、祖父から受け継いだ永遠の誓いを、胸の奥深くに刻み込んでいた。

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