76 ケスガイゼ
養殖業者の代表を務めているのは、ロマンダリアで代々乾物商を営んでいた男で、ハンス・ギボンといった。
アランとの会見の後、ハンスたちが自己防衛策として取った行動はあまりに稚拙だったが、巨大な資金を要する貴族に対して取れる選択肢はそう多くないことから、彼らの決定を笑うことは出来ないだろう。
その内容は、すでに養殖業を始めた後発の業者たちに声を掛け、既存の組織をより大きくする一方、それに応じなかった者に対しては徹底的に排除することだった。
後発の小さな業者から見れば、ハンスの率いるグループから睨まれることは事業からの撤退を余儀なくされるほどに厳しいことだったし、事実泣く泣く廃業していった仲間も1人や2人ではなかった。
ハンスからの通達と前後して、エビの養殖業者達の間にかなり面白い噂が流れていた。
アラン・リードという貴族がエビの養殖に乗り出すと同時に、ハンス・ギボンがその貴族ともめ事を起こしたという。
アラン・リードという名を聞く時、それがロマンダリア人であれば救国の英雄として、カスマンド人であれば人身売買組織を叩き潰した剛腕の貴族として、それぞれがその人となりを思い浮かべてハンスから距離を置こうと行動を開始した。
メヌラから岩山地帯に向けて下って行ったリード名誉男爵の一行は、中継池から2日の行程で兎人族の国ケスガイゼに入った。
メヌラとケスガイゼの国境線はかなり複雑になっていて、岩山地帯に向かう細い道に沿って進んでいたにもかかわらず、都合7回も両国の国境警備兵に入国審査を受ける結果となった。
メヌラにせよケスガイゼにせよ、カスマンドのデイマークス辺境伯領の半分以下の国土しかない。
それぞれ両隣をカスマンドとロマンダリアという大国に挟まれて、どちらかの国王が領土的野心を抱いた時点でこの世から姿を消してしまうほどに小さな国ではあったが、ここ100年ほどはそういう意味では安定した治世が続いていた。
ただ、ケスガイゼがメヌラと決定的に異なるのは、鼬人族の国であるチャーバントと国境を接しているか否かという点であった。
チャーバントは国土の5割が岩山の続く不毛の土地で、それ故に国内の産業が全くと言ってよいほど育たない環境にあった。
ケスガイゼ以北の国々では地面を数サケン掘ることで灌漑用の水を確保できたが、厚い岩盤がそれを許さないチャーバントでは農業は出来なかった。
岩盤の上に積もった薄い土の層に生える草を利用して放牧が行われていたが、猫の額ほどの国土で可能な牧畜などは産出される製品の単価が高騰して、到底隣り合う両大国の製品に対する競争など出来なかった。
そのため、現在は盗賊が支配する国に成り下がっていた。
その盗賊の被害を最も蒙っていたのがケスガイゼだった。
だから、いくら潤沢な農業用水を確保できたところで、収穫期に訪れるチャーバントの盗賊にすべてを略奪されるうえに、若い男女が拉致される被害がずっと続いていた。
兎人族は元々勤勉な種族として知られていたのだが、毎年盗賊に襲われるうちに厭世的な気風が蔓延って国土の荒廃を招いていた。
そんな記述を事典からの知識として仕入れていたアランは、本当に只の興味本位でメヌラから国境を越えて来たのだが、7回目の入国審査を終えて4回目の入国税を払ったところで見た光景は想像を絶していた。
一面に続く荒地には一本の木も見当たらず、多少の起伏を見せる遥かその先に何故か周りの雰囲気とは全くそぐわない大きな門らしきものが見えていた。
門らしきものと言ったのは、それがアランの馬車の窓からどれほど離れているのか分からないほど遠くに見えていたからであった。
とりあえずそれが何であるかを確かめようと、アランは馬車をその方向に進ませるとともに、事典の記載を参考にしてゲルジンに周辺の警戒を強化させた。
何もない荒地にはところどころに小さな草葺きの丸い屋根と思しき物があって、そこからわずかに薄い煙が立ち上っていた。
まさかそれが兎人族の庶民の住まいであるとは思ってもみなかったアランであったが、自分たちが5台の豪華装飾を施した馬車を率いていることを失念していた。
貧困に喘ぐケスガイゼの民からすれば、それは自分たちの国王が乗る物よりも遥かに豪華な馬車であり、垣間見える犬耳の若い女性たちの姿が憧れを通り越して羨望となり、やがてその一行から幾許かの食料を得ようと思い至るのに然程の時間はかからなかった。
常にチャーバントからの盗賊の被害に苦しめられてきたケスガイゼの国民は、いつしか自分たちも生きるために他人を襲うことに抵抗が無くなってしまっていた。
そして、それは唐突に始まった。
身を隠す草むらすらない荒地の草葺きの丸い屋根からわらわらと湧き出す様に現れた者達は、武器と呼べるほどの物は何も持たずに、ただアラン達の馬車に殺到してきた。
それを半ば予期していたように、アランは自分たち目がけて押し寄せる人々の姿を冷静な目で見つめていた。
後続の馬車からは襲撃に気付いたメイド達の悲鳴が上がっていたが、アランは人々の動きをじっと見つめて何の指示も出そうとしなかった。
「どうなさるおつもりですか、だんな様」
カルアの静かな問いかけに、アランは笑顔で頷いて言った。
「ゲルジン達が前に出て行ったから、様子を見ようか」
アランと同様に、ゲルジンも冷静に押し寄せる人たちを見つめていた。
追い詰められた民衆の蜂起というのなら誰もが手に武器となりそうなものを持っているはずであるが、今目の前に殺到している者達は木の棒すら持たずに駆け寄って来ている。
その形相は欲望に取り付かれたというよりは、生きるために糧を求めているように見えて、どうしても迎撃に二の足を踏みそうになってしまう。
やがてすぐ近くまで押し寄せた者達の姿を見て、ゲルジンは愕然として声も出なかった。
1人として飢えを見せていない者がいなかった。
痩せさらばえ、襤褸切れを身に纏った垢まみれの集団は、次々にアランの馬車に到達するまでに倒れて行った。
ゲルジンが攻撃したわけではない。
無論、アランが何かを仕掛けた訳でもない。
皆、体力がそこで尽きたのだった。
荒い息を吐いて、唇を黒くして、白目は黄色く濁り、すでに死相を顔に貼り付けている者がほとんどだった。
中に何人か、懸命に起き上がろうとしているのを目で追っていたアランは、自分の腕に掛けられていたカルアの手をそっと撫でて、
「ちょっと行ってくるからね」
と声を掛けて馬車を下りた。
ゲルジンの傍まで歩み寄ったアランは、
「代表者がいると思うんだけど、探し出してくれるかな」
と呟いた。
アランの言葉を受けて、ゲルジンは立ち上がろうと懸命に足に力を込めている男の前に立って、一言尋ねた。
「長は。村長は誰だ」
その場で殺されると恐怖に歪んだ顔をしていた男は、少し離れたところで立ち上がっていた男を指差した。
ゲルジンは、男の示す方へ歩み寄って、力の入らない足をガクガク震わせながら漸く立っている壮年と思しき男に誰何した。
「お前が村長か」
「そうだ」
「我々を襲うと決めたのはお前か」
「襲う? わしらが馬車を襲うだと」
「では、何故馬車に向かって走ったんだ」
「見ての通りさ。皆飢えている」
「それは見れば分かるが…」
「皆飢えているから馬車に殺到したんだろう」
「お前もそうか」
「半月ほど前にチャーバントからやって来た国営盗賊に根こそぎ持って行かれてしまってな。それから皆何も口にしていない」
「国営盗賊だと!」
「その耳は犬人族じゃな。カスマンドでは知られておらんか、チャーバントの国営盗賊団のことは」
報告を聞くまでもなく、アランはその場でメイド達とカリスに命じて、今朝の残りのパンをふやかした粥のようなものを作らせた。
ゲルジンが4班のメンバーに命じて人数を確認したところ、38人だと報告を受けたアランは、村長に再度確認した。
「これで全員ですか」
「いや、家の中で動けない者が22人ほどいるが、もう助からんじゃろぅ」
「分かりました。村人全員で60人ですね」
「まぁ、今のところはな…」
大きめの鍋で即席に作った食べ残しのパンと水に少しの塩で味を付けた粥に、アランはペットボトル3本分の水をこっそりと混ぜた。
それだけの量でどれほどの事が起きるか分からなかったが、しかし効果は絶大だった。
食べ残しのパンが材料だったので1人当たりには大した量も行き渡らなかったが、小さな器を交代で使って皆が食べ終えた頃、初めに食べた村長と長老と思しき数人の老人たちがゆっくりと立ち上がってアランに礼を申し出た。
そのことに最初に気付いたのは男たちに食べさせた後、残りを分けて食べ始めた村長の妻だった。
「あ、あんた、歩けるのかい」
息も荒く苦しそうに呟いた言葉に、その場の全員の目が集まった。
「お、おぅ、なんだか体が軽いぞ」
食べ終えた男たちが次々に立ち上がるのを見て、村長の妻は自分も残り少なくなった粥を鍋から手で掬って口に入れ、ゆっくり嚥下した。
そして、自分の意志のままに動くようになった体で、小屋に残った22人の者達のところへ粥を運んで行った。
暫くしてあちこちの小屋から歓声が上がり、次々に顔を出した者達も加えて60人がアランの前に拝跪した。
そのことに一番驚いていたのは、アランだった。
1人当たりにすればスプーン2杯ほどしか行き渡っていないはずのペットボトルの水は、この場でも魔法の水の効果を如何なく発揮したのだ。
やがて皆が少し落ち着いたところで、アランは村長に詳しい話を聞くことにした。
話の概要はゲルジンが問い質した内容と大差なかったが、若い男女が数十人拉致されていったことを聞かされて、アランの何かが弾けた音がした。
厳密にいえば、そんな音など聞こえはしなかったのだが、只一人カルアだけはそれを聞いたと思った。
自分の夫の纏う雰囲気が明らかに変わったから、そう思ったのかも知れない。
しかし、とカルアは思った。
あの雰囲気は、そう。
デイマークス騎士団本部でデュケリの件を糾弾した時と同じだ。
もう、止められる人など、この世には存在しない。
その音だと、カルアは確信した。
幾許かの食料をその場に残して、アランは出発を命じた。
自分の馬車に乗り込むや否や、アランはバッグから地図を取り出してケスガイゼの詳細な道と王宮を見つけ出して、テムジンに行先を指示した。
テムジンは、ケスガイゼに入国したことなど生まれてこの方1度もなかったにもかかわらず、男爵の指示を受けるとこれから通る道筋が既知のものであるかのように頭に思い浮かんだ。
王宮までの道のりと、これから通過していく町や村の情景までが脳裏に浮かぶ感覚は非常に鮮烈であったが、同時に気味悪くも感じていた。
そして、田舎道を粛々と進んで行く一行は、次の村へと入って行った。




