37 激怒
老婆に導かれて半ば崩壊したあばら家の一室に入ったカルアは、古びてあちこちから詰め物が顔を出すマットレスの残骸の上に、どこで拾って来たのか黒ずんで裂け目が目立つ毛布の名残のようなものを被って横になっている女性を見て言葉を失った。
これが人の住まいか。
これが人としての生活か。
これで生きて行けるのか。
様々な思いが一度にカルアの頭の中を駆け巡り、以前自分が置かれていた境遇に比べても更に何倍もひどい環境で生き抜いているその女性、ナタリアに近づいてそっと声をかけた。
半睡半覚の状態でカルアの声を聞いたナタリアは、夢の中の出来事のように感じながら、訪れた女性を見上げた。
「ナタリア・ハメルスさんでよろしかったでしょうか?」
「・・・ナタリアは私ですが、どなた・・・?」
「覚えておいでではないですか? 昨日あたしのご主人様があなたを助け出したことを」
「昨日・・・」
「そう、昨日の事ですよ」
「う、う、うわ~~~!!」
突然、昨日の記憶が鮮明に甦ったナタリアは、自分が居る場所も、今話をしている相手の事も、すべてが整理のつかない混沌とした精神状態に落ち込んで、錯乱した。
もしそうなった場合にはこれを飲ませて、と予めアランに渡されていたペットボトルに入った魔法の水を持ったまま、成す術もなくカルアは立ち尽くした。
彼女の経験したことは、人の精神の箍を外すほどの激烈なものだったのか。
そう思い至って、カルアは一歩前に進んで、ナタリアを抱きしめた。
そして、彼女がとりあえず落ち着くまで、ナタリアの名前を呼び続け、その背中を撫で続けた。
しばらくして、ようやく取り乱すことのなくなった彼女の様子を見たカルアが、ペットボトルを差し出して優しい声で語りかけた。
「この水をお飲みなさい。のどが渇いて声も出ないでしょ」
コクリと小さく頷いて、ペットボトルを受け取ったナタリアは、貪るようにその水を一気に飲み干した。
「あたしは、昨日あなた方をお助けした、アラン・リード名誉男爵閣下の使いでここに参りました。あなたのお加減を見て来るように仰せつかって参りましたが、そのご様子ですとまだお疲れが残っていらっしゃるように見受けられますので、明日もう一度お訪ねしたいのですがよろしいでしょうか?」
流暢に敬語を使って話す美しい女性に見とれていたナタリアは、そこでようやく貴族の使いに対して無礼な態度を取っている自分に気付いて、慌てた。
「どうぞお気遣いなく。私はもう大丈夫です」
ナタリアの落ち着いた物言いに、早速魔法の水の効果が出始めていることを感じたカルアは、ゆっくりとナタリアに向き合って、アランの言葉を伝えた。
「名誉男爵閣下は、あなたの手をご覧になってあたしを使いに出されたのです」
「私の、手ですか?」
「えぇ、あなたのその手は、常日頃から事務の仕事を熟しておられると判断されて、力を貸して欲しいと仰っておいででした」
「そんな、力をお貸しするなど滅相もない。私は冒険者協同組合グルリア支部の下働きに過ぎない女です。男爵様のお手伝いが出来るような才覚など持ち合わせておりません」
「それは、名誉男爵閣下がご判断なさいましょう。ところで、普段はどういったお仕事をしていらっしゃるのですか?」
「普段は、冒険者が獲って来た魔物の部位の買い取り金額やオークションでの売り上げを、伝票を元に仮帳簿に記載しています。それを冒険者協同組合の事務職員の方々が正式に帳簿に記載して記録を残されるそうです」
「では、お金や物の動き、商品の売買に関わるお金の流れなどもお分かりになるのですね」
「えぇ、ある程度でしたら」
「それは願ってもない経験をお持ちでいらっしゃいますわ」
「そんな・・・」
「では、明日にでも、アラン・リード名誉男爵閣下とご一緒にもう一度お訪ねいたします。その折には今日あたしがお伺いした事柄を、名誉男爵閣下がもう一度お聞きすることがあるかもしれませんが、正直にお答えになって下さい」
「え、えぇ?」
困惑するナタリアをその場に残して、カルアは最上の笑顔を置き土産にあばら家を後にした。
馬車に乗り込もうとするカルアを、数人の見知らぬ男たちが取り囲んだ。
その中の一人が、カルアを見て下卑た嗤いを顔に張りつけて言った。
「こんな場末の貧民屈にご大層な馬車が留まってやがると思ったら、すげぇ上玉が出て来やがった。」
その言葉が合図だったかのように、残りの男たちがカルアを囲む輪を狭めていった。
「奥様に何をする気だ!」
テムジンがカルアを庇うように御者台から飛び降りて、破落戸たちを蹴散らした。
闖入者に泡を食って連携が取れなくなった男たちは、てんでに腰に差していた短刀やナイフを取り出してテムジンに切り掛かったが、テムジンの持った鞭が一閃するとその場に男たちの山が出来た。
一人後ろで様子を見ながら顔に下卑た嗤いを張りつけていた男が顔色を無くし、後ずさったところに20人ほどの破落戸達が駆けつけて、
「ほぅ、すげえ上玉だな。こりゃ高く売れそうだぜ」
と嗤った。
これだけの人数が相手では、テムジン一人では如何ともしがたかったが、せめてカルアだけでも無事に逃がすために血路を開こうとして破落戸達の隙を窺っていたが、当のカルアは割と平気な顔をしながら誰にも聞こえないほどの小さな声で何事かを呟いた。
破落戸達は、一瞬で4人を倒したテムジンの腕を恐れて、容易に包囲の輪を縮めることが出来ないでいたが、その逡巡が文字通り命取りになってしまった。
グルリアの町の南門の傍にあって、周囲からその存在を隠すように壁を巡らせているこのスラム街を目指して、町の中心部に近いオーベルジュ・ド・グルリアの方角から、一筋の矢と見紛うばかりの恐るべき速度で飛んで来たガルーダが、瞬きするほどの間で一切の容赦なく破落戸達の首を刈り取っていった。
その場は正に血の海と化し、動くものといえばカルアとガルーダだけであった。
「ガルーダ、ありがとう。お前が来てくれなかったら、だんな様に二度と会えなくなるところでした」
何事が起ったかと、周囲のあばら家から顔をのぞかせたスラムの住民たちは、凄惨な血だまりと、恐ろしいほどに美しい女性に頭を擦り付けるケームを見て、慌てて家のドアを閉めた。
やがて、この場で起こったことを目撃した何者かに通報を受けた南門の警備兵が数人、緩慢な動きで走って来たが、現場の状況に度肝を抜かれ、言葉を無くしてただ立ち尽くした。
昨日に引き続いて、物の役に立たない警備兵を冷たい目で一瞥したカルアはテムジンに命じた。
「これから、デイマークス辺境伯閣下の居館に向かいます。あなたはこの場に残って騎士団が到着するまで誰にも現場に手を付けさせてはなりません。よいですね」
そして、カルアはガルーダの背に乗り、一気に北を目指して飛び立った。
いつまで待っても迎えに来ないカルアを待ちながら何気なく空を見上げたアランは、南の方角に向かって飛ぶ一筋の流星を認めた。
それは方角的に考えればナタリアの住むという下町に近いと思われた。
カルアに何かあったのかな?
あの流星はガルーダだよ、どう見ても
でも、あれは到底町中を飛ぶスピードじゃなかったよね・・・。
離れた場所にいる仲間と連絡を取る手段を持たないアランは、心の底からカルアの身を案じた。
カルアが尋ねた先がグルリアの町のスラム街だとは知らされていなかったから、それは漠然とした不安だったが、こういう場合にただ気を揉むことだけしかできない自分を心底不甲斐なく思った。
そして、一直線に矢のように飛ぶガルーダの様子がただごとではないと感じたアランは、それから間もなく再び空に舞い上がったガルーダらしき影を見ると、
「ガルーダ、来い!」
と、かなりキツイ口調でガルーダに呼びかけた。
かつてない強い調子で呼ばれたガルーダは、カルアを背に乗せたままアランの待つ場所まで一気に飛んで来た。
近づいて来るガルーダの背中に跨るカルアの姿が、常と変らぬ美しいものだったので、そこでようやくアランは張り詰めていた気を緩めて笑顔になった。
アランの前に舞い降りたガルーダの背中からすっと降り立ったカルアが、少し意外そうな顔をしてアランに問いかけた。
「だんな様がお呼びになったんですか?」
「うん。凄いスピードで南に飛んで行くモノを見たから、てっきりカルアに何かあってガルーダが呼ばれたと持ったんだ」
「えぇ、ここでは少し憚られる内容ですので・・・」
「どこへ行くつもりだったの?」
「これから、騎士団の本部へ抗議に行こうかと・・・」
「ふーん」
アランの目がスっと細められたことに気付いたカルアが慌てて取り成そうとしたが時すでに遅く、
「何があったかは途中で聞くから、カルアはボクの後ろに乗って!」
と、ガルーダの背に跨って、カルアに手を差し伸べた。
普段からよく知っているアランとは全く別人のような雰囲気をまとう夫の威圧感に、後ずさりながらイヤイヤをしたカルアだったが、再び
「カルア!」
と呼びつけられて、今度は抗うことが出来ずにアランの後ろに乗り、その背に抱き付いた。
一気に高度を上げ、デイマークス辺境伯の館の一角にある騎士団の本部に向かう途中、カルアはその身に起こった出来事を洗い浚いすべて喋らされてしまった。
それだけアランの纏う気が尋常ではなかったのだ。
カルアはこの時、自分がアランにどれほど愛されているかを身に染みて理解させられた。
そして、先ほどの事で自分の身に万一の事態が起こっていたら、町や村などというレベルではなく、デイマークス辺境伯領がこの世から消滅していたかもしれないと恐怖した。
高高度から一気に辺境伯の館の一角、騎士団本部の玄関前に舞い降りたガルーダは、甲高い声で
ケーッ!
と鳴いて名誉男爵の来訪を告げた。
本部の建物から驚いて飛び出してきた数名の騎士と、門衛に立っていた2名の騎士が慌ててケームに駆け寄り、その背に乗る人物を誰何しようとして思い止まった。
そのケームがガルーダであり、持ち主がアラン・リード名誉男爵だと気が付いたからである。
何より、ケームという猛獣を使役できる者など、名誉男爵以外には考えられなかった。
そこまでは良かったのだが、一歩地上に足を下ろした名誉男爵は、明らかに普段の温厚でどこか頼りない感のある男性ではなかった。
それは、姿形こそいつもの名誉男爵であったが、彼の雰囲気はまるで別人のようで、その体に触れればたちまち焼き殺されそうなほどの凄まじい怒りを感じさせた。
アラン・リード名誉男爵は、静かに一歩前へ進み出て、吼えた。
「デュケリ副団長はいるか!」




