羽衣との出会い
その日も、学校では誰とも一言も話さず、天音はトボトボと家に帰りついた。
近頃では、何のために学校に通い、何のために机に向かうのか、その意味さえも見いだせなくなっている。
それでも、真面目すぎる天音の気質ゆえに、学校をサボることなど到底できなかった。無理にでも頑張らなければ、明日が生きていけない。
そう自分を追い立てるせいで、天音の精神はすり減り、ガラス細工のように脆くなっていた。正直に言えば、今すぐすべてから逃げ出したい。
だが、思考の裏で冷徹な現実が囁く。——逃げた先なんて、どこにもないのだと。
今日もそんな澱んだ沈んだ気持ちのまま、天音は重い足取りで自室のドアを開けた。
玄関を入り、いつものように灯りをつけ、制服から部屋着に着替えようとしたその時だった。
ふと視線の端に、窓の外——ベランダの柵に、ひらひらと引っかかっている白い布のようなものが映った。
天音はびくりと肩を震わせ、恐る恐るベランダへと足を踏み出し、その布に近づいた。
手に取ってみると、それは驚くほど軽く、長くて純白で、まるで絵本に出てくる天女の羽衣そのものに見えた。
「天女……そんなわけ、ないよね。でも、もし本当にそうだとしたら——」
あり得ない空想だと頭では分かっていながらも、なぜか胸の奥がざわめく。天音はそれを部屋へ持ち帰り、ふと自分の服の上から体に当ててみた。
すると、次の瞬間。
まるで布自身に意思があるかのように、サラサラとした感触を残しながら、天音の体に吸い付くようにまとわりついた。
「きゃっ……!?」
思わず天音は小さく悲鳴を上げた。
だが、鏡に映った自分の姿を見た瞬間、恐怖や戸惑いは霧散し、代わりに言いようのない好奇心と熱い高揚感が胸を満たした。
「これ……まるで、本物の天女みたい」
まるであの絵本のように、羽衣は澱んだ日常を送っていた彼女を、幻想的な美しさに彩っていた。
天音の心臓が、早鐘を打つように高鳴る。
もし、これが本当に、あの絵本と同じ天女の羽衣なのだとしたら。
自分だって、あの空へ飛べるのかもしれない。
わずかな期待を胸に、天音は再びベランダへと出た。夜の冷たい風を、全身で受け止めるようにまっすぐ立つ。
すると……。
「う、嘘……浮かんでる……?」
足元がふわりと軽くなり、天音の体がわずかに宙へと浮き上がった。
信じられない思いで、ためしにベランダの狭い空間を、浮きながら移動してみる。重力を忘れ、まるで空気の上を歩くかのように、自分の意思で自然と前へ進んでいく。
何度かバランスを試し、要領を掴んだ天音は、気づけばベランダの柵よりも高く浮かび上がっていた。
喉の奥がキュッと締め付けられるような緊張感。息を呑む。
ここでバランスを崩して落ちたら、コンクリートの地面に落下する。命はないかもしれない。
そう頭では分かっていながらも、彼女の足は止まらなかった。試さずにはいられなかったのだ。
そのまま、歩くことの延長線上のように、彼女は軽々と柵を超えて夜空へと飛び出した。
夜の冷たい空気は、トゲトゲした拒絶を見せることなく、まるで我が子を包み込むように優しく天音の体を受け入れた。
最初こそ恐る恐るだったものの、風に乗る感覚に慣れてくると、胸の奥からとめどない高揚感が湧き上がってきた。
それは、昼間の息苦しい日常が嘘のように、世界の色を取り戻していくような感覚だった。
夜風が頬をなでるたび、心の澱が吹き飛んでいく。
天音は、物心がついてから——いや、両親が消えて以来、何年かぶりに、心の底から満面の笑みを浮かべていていた。
夜空を飛んだところで、現実の悩みが消えるわけではない。行き先なんてどこにもない。
だけど、ほんの一瞬だけでも「自由になれた」と感じられるこの場所が、いまの天音にとってのすべてだった。
その後も彼女は毎夜、羽衣と共に夜空へ駆け上がり、日々の孤独と心の疲れをそっと癒やしていくのだった。




