第16話∶ ③∶一歩前進
ちょうど良いタイミングで外に出ることができた。イチカは野球場の脇で足を止め、真剣な眼差しで試合を眺めていた。
(へえ……彼女が野球ファンだなんて知らなかったな。でも、今がチャンスだ! よし、落ち着くんだ、僕……)
僕は半分歩き、半分冷や汗をかきながら、彼女のほうへと近づいていった。
「よ、よく見かけるね……イチカ!」
「え? ああ、あんたね」
彼女は僕をチラリと横目で見ただけで、すぐにまた試合に視線を戻してしまった。
「あ、うん。ごめん……今、邪魔だったかな?」
「別に、良いタイミングってわけでもないけど……」
相変わらず冷たい。僕のことなど気にも留めない様子で、彼女はもっと見やすい角度を探すように少し場所を移動した。
(本当に試合に興味があるみたいだ。本当に野球が好きなのかな? それとも、ただ息抜きにここへ来ただけなんだろうか?)
気まずい沈黙を破ろうと、僕は必死に言葉を探した。
「今は休憩中なの?」
「え? それってどういう意味? 私がサボってるって言いたいの?」
「う、ううん! そんなつもりじゃ全然ないんだ! ただ、君がいつもすごく頑張って仕事をしているのを知っているから……ここで散歩しているのを見かけて、ちょっと気になっただけなんだ!」
「知りたいなら教えてあげるけど、私、今は本当に忙しいの。卒業アルバム用に野球部の写真を撮らなきゃいけないんだから」
彼女は僕の目の前でカメラをパタパタと振ってみせた。
(あぁ、そういうことだったのか)
「だから、あんたの相手をしてあげたいところだけど、今は無理。悪いけど、構っていられないわ」
彼女はくるりと背を向け、グラウンドのさらに奥へと歩き始めてしまった。
「あ……そっか。ごめん……」
(やっぱり、部活に入ってなんて頼むには、今はベストなタイミングじゃないみたいだ……。でも、近いうちに彼女と話さなきゃいけない。何か方法を考えないと……。どうすれば、彼女が僕の言葉に耳を傾けてくれるだろう?)
ちょうどその時、突然の声が僕を驚かせた。
「危ないっ!!」
「え?」
一球の野球ボールが、ものすごい勢いで僕たちの方向へと飛んできた。それはイチカに向かって真っ直ぐに突き進んでいる。
(嘘だろ……どうする?! ダメだ、彼女に当たらせるわけにはいかない!)
「イチカ、危ないっ!!」
「え?」
(ダメだ、彼女は間に合わない!)
僕は深く考えるよりも先に体が動き、ちょうど間一髪のところで彼女を突き飛ばして軌道から外した。
「きゃっ!!」
彼女は地面へと転がっていった。そして、僕が身代わりにボールの軌道上に取り残される形になった。
「うわぁぁぁぁっ!!」
ボールは猛スピードのまま、僕の足に直撃した。僕はその場に激しく倒れ込んだ。くっ、うあああ!! 僕は激痛に耐えかねて、両手でふくらはぎをぎゅっと押さえた。目から涙がボロボロと溢れてくるのが分かった。
「レンジ!」
イチカが僕のところへ走って戻ってきた。
「嘘でしょ! 大丈夫?!」
(え……何が起きたんだ? イチカが戻ってきた? 彼女が僕を見下ろして立っていることにショックを受けていたけれど、あまりの痛さにすぐには状況が頭に入ってこなかった)
「大変、レンジ、足が……」
(自分の足を見下ろすと、ふくらはぎに大きな青あざができていた。どうして僕は今日、ハーフパンツなんて穿いてきちゃったんだろう……)
彼女は僕の足を見つめながら、呆れたように首を振った。
「レンジ、あんた正気じゃないわ……」
「どういう意味……?」
「あのボール、ものすごいスピードだったのよ……。頭に当たってたらどうするつもりだったの?! 最悪の場合……死んでたかもしれないのよ! もし頭に当たってたらって考えなかったの?」
「いや……でも、君の頭に当たってたらどうするんだよ?」
「え……?」
彼女はハッとしたように目を見開いた。
「そんなこと、僕にはさせられないよ……」
「レンジ……」
まだ激しい痛みが続いていたけれど、僕はなんとか彼女に微笑みかけてみせた。彼女は今、僕の隣にしゃがみ込み、僕の青あざをじっと見つめている。
(わぁ……イチカ、本当に僕のことを心配してくれているのかな?)
彼女がこんなに近くにいることに、僕はまだ実感が湧かなかった。ふと見ると、彼女の頬に少し泥がついているのが目に入った。
「あ……イチカ……」
「え?」
「イチカ……顔」
「私の顔?」
さっき倒れ込んだときに、頬に泥がついて汚れてしまったのだろう。僕は深く考えずに手を伸ばし、指先でその泥をそっと拭ってあげた。
「あ……」
彼女は一瞬身を硬くしたけれど、驚いたことに、僕の手を振り払うことはしなかった。
「む……ありがとう」
彼女は顔を赤らめ、静かに視線を逸らした。それからイチカは、小さくため息をついて、ふっと優しく笑った。
「……あんた、本当にバカね」
「え?」
彼女はもう一度ため息をつき、今度は微笑んだ。
「怪我をしてるのはあんたのほうなのに、まだ私の心配をしてるわけ?」
彼女は信じられないといった様子で首を振った。
「あ……そりゃあ、当然だよ。君は僕にとって、すごく特別な友達だから。いつだって君のことは守るよ」
「ふん……相変わらず歯の浮くようなこと言うんだから」
彼女はそう口にしながらも、小さく笑っていた。それから彼女は立ち上がり、服についた砂を払った。僕はまだ地面に座り込んだままだ。彼女を見上げる。
「ほら……保健室の先生のところへ行きましょう」
彼女が手を差し出してくれた。
「立ち上がれる?」
「あ、えっと……」
上体を起こして座り直そうとしたけれど、激痛が走る。ちょうどその時、近くにいた野球部の監督が慌てて駆け寄ってきた。
「おい! 二人とも大丈夫か?! グラウンドの反対側から全部見ていたぞ……」
僕はまだ座り込んだままだ。監督は近づいてきて、僕の足に目を落とした。
「あちゃあ、これはひどいな」
「あ、僕はただ……」
(イチカが僕を見つめている)
「うぅ……足が……」
「あぁ……結構ひどく腫れてるな。ちょっと待ってろ、誰かに部員たちの面倒を見てもらうように言ってから、君を保健室まで運んでやる」
「あ……大丈夫です。監督、今は部活の指導でお忙しいですよね。レンジのことは、私が連れて行きますから」
(えっ?! イチカが僕を助けるって言ってくれてるのか? でも……これはちょっと重症だぞ……。この状況で本当にイチカに迷惑をかけていいんだろうか? 本来なら、僕が彼女を助けなきゃいけない(入部してもらう)はずなのに……。どうすべきだろう?)
「あ……イチカ……気持ちは本当に嬉しいんだけど……。君の仕事を中断してまで、僕の面倒を見てもらうわけにはいかないよ」
「何言ってるの? かなり酷い怪我じゃない……ちゃんと手当てしなきゃダメよ」
「君がアルバムの仕事で忙しいのは知ってるから。僕は大丈夫……監督と一緒にいくよ」
「あ……本当にいいの?」
「うん……。でも、その、もしできたら、後で君と話がしたいな……」
「あ……分かったわ。いいよ……」
「いや、そんなのダメだ。二人とも行くんだ。君もいくつか擦り傷があるじゃないか、少なくとも消毒くらいはしておきなさい」
監督がイチカに言った。それから僕の方を向く。
「ほら、支えるぞ」
彼は僕を立ち上がらせ、僕の腕を自分の肩に回して支えてくれた。
「君はすぐに私と一緒に来るんだ」
そして、再びイチカの方を振り返った。
「それから君も、荷物をまとめたらすぐに保健室に行きなさい。ボールが直撃しなかったとはいえ、その擦り傷はちゃんと綺麗にしておかなくちゃいかん」
「はい、先生。すぐに行きます」
僕は監督に連れられて先に保健室へと向かい、傷口の処置を手伝ってもらった。保健医の先生が席を外していたため、監督が代わりに傷口を綺麗にしてくれたのだ。しかし、監督もすぐに部活へ戻らなければならない。僕は一人、椅子に座って保健医の先生が戻ってくるのを待っていた。
10分ほど経った頃、イチカが保健室に入ってきた。「あ……まだいたのね」。彼女は僕のそばに歩み寄り、隣に腰掛けた。
「イチカ……」
「レンジ、本当に恩に着るわ。命を救ってくれたこと、いくら感謝しても足りないくらいよ」
「感謝なんて……もう何度も言ってくれたじゃないか……」
「ううん、私が言いたいのは……その……何て言うか、私なりに何かお返しがしたいなって思って……」
「お返し……?」
短い沈黙の後、彼女は言葉を続けた。「えっと……それで……あんたがずっとしつこく言ってた、あの部活のことなんだけど……」
(もしかして……?!)
「う、うん、実はね……。あんたたちの部活、思ってたよりもずっと上手くいってるみたいじゃない。正直、すぐに潰れると思ってたんだけどね。今でも新入部員を探すのに困ってるのかどうかは知らないけれど……まぁ……その……ちょっとくらいなら、お試しで入ってあげてもいいかなって」
(嘘だろ、彼女は本気で言っているのか?!)「待って、イチカ……それってどういう意味?!」
「そうよ、バカ。もうしつこく勧誘しなくていいって言ってるの。あんたの部活を試してあげる。私……演劇部に入るわ」
「あ……イチカ! 本当にありがとう!」
嬉しさが爆発して、僕は言葉を失ってしまった。もし足がこんなに痛くなければ、その場で飛び跳ねて喜んでいたところだ!
「あ、でも……勘違いしないでよね!」彼女は顔を真っ赤にして、ぷいっと横を向いた。「え?」「何が言いたいかっていうと……これで僕たちがまた親友に戻ったなんて思わないでってことよ」
「あの時起きたことを、私はまだ忘れたわけじゃないんだから……」
「あぁ……イチカ……そのことなんだけど……」
「ねぇ……今は本当にその話はしたくないの。過去は過去よ。私は……まだあんたのことをどこまで信用していいか分からないんだから」
(そっか……)僕はがっかりして視線を落とした。
「だけど……あんたは今、私の命を救ってくれた。だから、チャンスをあげるわ」彼女は僕の目を真っ直ぐに見つめた。「とりあえず今は入部する……。でも、お願いだから、もう二度と私を失望させないでね。もう……裏切られたくないの……」
彼女は厳かに、どこか寂しげに視線を逸らした。
「裏切るなんて……イチカ、僕は――」
ちょうどその時、診察室を区切るカーテンの陰から、見知らぬ一人の女の子が不意に姿を現した。彼女は救急箱を手に持ったまま、一言も発せずに僕のことをじっと見つめていた。
(嘘だろ……この子、最初からずっとここにいたのか? 一体どこまで聞かれていたんだろう? 物音一つ立てずに……聞き耳を立てていたのか?)。彼女は無言のまま僕を凝視し続けていて、僕は背筋にゾクリと冷たいものが走るのを感じた。
「あ……こんにちは」
「……」
「ごめん……誰か他に人がいるなんて気づかなくて」
彼女は何も答えず、ただじっと僕を見つめている。
そして一言も喋らないまま、彼女は出口のドアに向かって歩き出した。(なんて奇妙な女の子なんだ……)。そう思った矢先、彼女はドアの前で足を止め、振り返って僕の目を真っ正面から見据えた。
(うわっ! なんて冷酷で、ゾッとするような目つきなんだ……!)
「……」
「あなた、裏切りについてずいぶんと詳しいのね……そうでしょ?」
「……」
(え……?)彼女は鼻でフッとあざ笑うと、そのまま立ち去っていった。(彼女……今なんて言ったんだ? 裏切り? 僕とイチカの間にあったことを知っているのか……?)。
(待てよ……そんなわけない、はずだ……)




