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十九話「 記憶の底のヒーロー 」


響はどこか違和感を覚えていた。

最初は本当に些細な、見過ごしてしまいそうなほど小さな引っかかりだった。


ある日の仕事帰り、夕闇が街を包み込み始めた頃、響は偶然部活帰りの梨紗と遭遇した。

梨紗はもともとアーチェリー部に在籍していたが、誠と結婚したことで、家庭を優先するために惜しまれつつも退部している。

だが、その並外れた実力と的確な指導力を買われ、今でも大きな大会や遠征の際には、臨時のマネージャーや外部コーチのような形で呼ばれることがあった。


今回もその大会に同行した帰りだったのだろう。

ユニフォームの入った大きなスポーツバッグを肩にかけ、少し疲れた様子で歩く梨紗の姿を、響は車の運転席から見つけた。

特に急ぎの用事もなかった響はただの純粋な親切心から、ハザードランプを点滅させて車を寄せ、助手席の窓を開けて何気なく声を掛けた。


「やっほー、梨紗ちゃん。送ろうか?荷物も重そうだし」

声をかけられた梨紗は足を止め、響の顔を見て、それから一瞬だけ、その視線を響の愛車へと向けた。

だが次の瞬間、梨紗はどこか困ったようにけれど明確な一線を引くような苦笑いを浮かべた。


「ありがとうございます。でも大丈夫です」

「いやいや、遠慮しなくていいって。ちょうど同じ方向だしさ」

「本当に大丈夫ですから。お気になさらないでください」

「でも此処から駅まで結構距離あるだろ?歩いたら20分はかかるぞ」

「電車、まだちゃんとありますから。歩くの、慣れてますし」

頑なだった。

その口調は丁寧だが、文字通り「一歩も近づかない」という強い意志が感じられた。

響はそれ以上強く勧めることをしなかったが、車を出しながらバックミラーに映る梨紗の小さな背中を見て、妙だなと首をかしげた。


その後も、同じようなことが何度も続いた。

警察署の買い出しの帰り、街のイベントの帰り、誰が見ても両手いっぱいに荷物を抱えていて、物理的にどう考えても車に乗った方が楽な状況ですら、梨紗は頑として響の申し出を断るのだ。

代わりに彼女が選ぶのは、待ち時間の長い電車やバス、あるいは自力で漕ぐ自転車。

最悪の場合、重い荷物を引きずっての徒歩。

だが、そんな梨紗の頑なな態度には、たった一つだけ鮮烈な「例外」が存在した。


城島誠の車だ。

誠が仕事終わりや休日に車で迎えに来れば、梨紗は何の躊躇いもなく、それこそ吸い込まれるように助手席へと乗り込む。

嬉しそうにシートベルトをカチリと締め、すぐさま上機嫌に今日あった出来事を誠に向かって楽しそうに話し始める。


その姿には不自然さも無理をしている様子も一切ない。

誠の隣にいる時の梨紗は、どこまでも自然体で幸せそうだった。

だからこそ他の人間の車を徹底的に拒むそのギャップが、響の胸に余計に引っ掛かっていた。


その疑問が氷解したのは、ある日の昼下がりのことだった。

誠へのお弁当を届けに派出所へやってきた梨紗と、誠が巡回で席を外していて、二人きりになった時だった。

響はふと思いついたように、デスクの書類から顔を上げて声をかけた。

「ねえ、梨紗ちゃん」

「はい?なんですか」

「……もしかして、車苦手?」


その瞬間、梨紗の肩がビクッと僅かに跳ねた。

大きめのトートバッグを抱えていた両手に、一瞬だけぎゅっと力がこもる。

どうやら完全に図星だったらしい。


「あ、当たりか」

「えーっと……」

梨紗はわかりやすく響から視線を逸らし、気まずそうに頬を掻いた。

誠が以前、呆れたように言っていた「梨紗は誤魔化そうとしたり、隠し事をしたりする時は必ず視線を斜め下に逸らす」という癖そのままだ。


「なんで?乗り物酔いとか?」

少しだけ、二人の間に沈黙が落ちた。

窓の外を走る車のエンジン音が遠くで響く中、梨紗は迷うように視線を何度か彷徨わせた後、小さく口を開いた。

「……えっと、小さい頃に」

「うん」

「知らない人に、無理やり連れて行かれそうになったことがあったんです」

響の表情が、一瞬で警察官のそれに変わった。

おちゃらけた空気が消え、顔を硬らせる。

大抵この話をすると相手は皆んな表情を固くするし、酷い時には過剰に同情される。

それを分かっているからこそ、梨紗はあえて困ったような苦笑いを浮かべた。

「そのとき車に乗せられそうになったんです。ミニバンみたいな、大きな車に」

淡々と、まるでテレビで見たニュースの他人事のように話している梨紗を見て、響は微かに顔を歪めた。


本人がどれだけ平気そうに装っても、それが未だに梨紗の中で、長年抱え続けてきた深いトラウマなのだと分かってしまったからだ。

知っている人間の車でも、あの密室の空間に入ること自体が、彼女の身体に当時の恐怖を思い出させる。


「だから今でも少しだけ、知っている人の車でも緊張しちゃうんです。身体が強張るというか……」

「タクシーも?」

「……んー、無理、かも。やっぱり知らない男の人の運転する車は、どうしても怖くて」

少し考えた末、困ったように眉を下げて答える梨紗に、響は思わず「なるほどな……」と苦笑するしかなかった。

と、そこでひとつの疑問が浮かぶ。

それならなぜ、誠の車にはあんなに普通に乗っているのだろうか、と。


「誠の車には普通に乗ってるじゃん。あれは平気なの?」

響がそう尋ねると梨紗はそれまで見せていた暗い表情を瞬時に消し去り、誇らしげに、そして心の底から愛おしそうに目を細めて言った。


「まこちゃんは………」



「なるほどな。そりゃそうだわ」

梨紗の話を聞いて、ようやくパズルのピースが全部繋がった。



その後、誠が巡回から戻ってきた時、響は引き出しから這い出てきたようなニヤニヤとした意地の悪い笑みで親友を出迎えた。

「お、王子様のご帰還〜。お待ちしておりましたよ」

「ふざけてるのか。仕事しろ」

「アハハ、怒るなって」

いつものように冷たくあしらう誠を無視して、誠が自身のデスクに向かえば、そこには先ほど梨紗が置いていった温かいお弁当と、一枚の小さなメモ用紙が残されていた。


“お仕事お疲れさま、ムリしないでね。まこちゃん大好き♡”


丸っこい可愛い文字で添えられたメッセージに、誠の端整な口元が、本人も無意識のうちに微かに口元が緩む。

その分かりやすすぎる光景を、響は先ほどの会話を思い出しながら、どこか暖かい気持ちで同時に生温かい視線で見ていた。


「にしても、誠は子供の頃から正義感溢れてたんだな。大したもんだよ」

「お前はさっきから何を言っている」

「またまたー。隠さなくていいって。誠はさ、梨紗ちゃんが車苦手なの、最初から知ってて送り迎えしてたんだろ?」


響がからかうように投げかけた言葉に、誠はただ怪訝そうな顔をして動きを止めた。

「は?」

「は?」

誠のあまりにも素の何も分かっていない返答に、今度は響が固まる番だった。


「いや、だって……梨紗ちゃん、お前の車には普通に乗ってるだろ?」

「乗ってるな。それがどうした」

「いやいや、お前の車に『は』乗ってるんだよ!普通、他の奴の車には絶対乗らないんだからな」

「……」

誠の冷徹な眼光が響を射抜く。

まさか、これは墓穴を掘ったのではなかろうか。

自分が余計なことを口にしてしまったことに気づき、響の背中に内心とても冷たい汗が流れた。


「……どういう意味だ。詳しく話せ」

「あー……いや、つまりさ梨紗ちゃん、車がめちゃくちゃ苦手なんだよ。

昔のトラウマのせいでタクシーも駄目、知らない奴の運転する車も、俺の車も全部駄目なんだって」

「……初めて聞いた」

「マジか……お前、旦那のくせに本当に知らなかったのかよ」

「知らなかった。梨紗からそんな話は一度もされていない」

誠の硬い回答に、響は思わず頭を抱えた。

あの梨紗の話し方からして、てっきり誠は昔からそのトラウマのことを全部知っていて、だからこそ過保護に彼女を自分の車に乗せているのだとばかり思っていたからだ。


まさか誠にさえ、何も言わずに乗ってたのか。



その日の夜、夕食を終え、落ち着いた時間が流れる中で誠はソファに座る梨紗の隣へと歩み寄り、静かに問いかけた。


「梨紗」

「なぁに?まこちゃん」

「お前は、車が苦手なのか」

唐突な誠の問いかけに、梨紗はきょとんとした表情で誠を見上げた。

「うん?どうしたの急に」

「今日、響から聞いた。梨紗は車を頑なに拒む、と」

「ああ、響さんから聞いたんだね」

驚くほどあっさりと、梨紗は自分が車に対して強い苦手意識を抱いている事を認めた。


「本当なのか」

「うん、本当だよ」

「何故今まで、俺に言わなかった」

「なぜって……だって言うほどでもないかなーって思って」

特に生活の中で不便もないしね、と笑う梨紗だったが、誠の眉間の皺は深くなるばかりだった。

夫である自分に、そんな重大なトラウマを隠されていたことが少しだけ面白くなかった。


「理由は」

「それも響さんから聞いたんじゃないの?」

「梨紗本人に聞け、と言われた。

あと俺の車にだけは、普通に乗る理由も梨紗の口から聞けと」

別に隠すつもりがあったわけではないので、話しても良かったのにと思いつつ梨紗は、少し遠い目をしてぽつりぽつりと口を開いた。


「本当に、小さい頃のことなんだけどね」

「?」

「……まこちゃん、覚えてない?」

「覚えていない」

誠は幼少期の記憶が極端に曖昧だった。

特に警察学校に入る前の、幼い頃の出来事は断片的にしか残っていない。

誰も幼い頃の記憶が鮮明にあるわけではないと分かってはいたけれど、梨紗はほんの少しだけ寂しそうに切なげに笑った。


「私ね、昔、知らない人に車で連れて行かれそうになったの。手を引かれて、無理やりドアの中に押し込められそうになって、すごく怖くて泣いて……」

「……」

「それをね、まこちゃんが助けてくれたんだよ。私の手を引っ張って、その人から守ってくれたの」

誠はその話を聞いて、何も言えなくなった。

胸の奥が微かに疼くが、やはり記憶の霧は晴れない。


「助けた?俺が?」と、自分の過去を思い出せないまま、戸惑うような顔をしている。

別に梨紗も、誠を責めるつもりは毛頭なかった。

誠がその出来事を覚えていないのはずっと前から知っている。

だからこそ、ただの事実として普通に話しただけだった。


「……俺が助けたから、平気なのか?」

「うん?」

「車のことだ。なぜ、俺の運転する車なら怯えずに乗れる」

「え……あ、うん」

あまりにも真剣な眼差しで理由を問い詰めてくる誠に、梨紗は逆に困ったように表情を曇らせた。

何故なら梨紗にとってその問いは、「何故息をしているの?」と聞かれるのと同じくらい、本当に意味の分からない質問だったからだ。

「なぜって言われても……まこちゃんが居るから、だよ?」

「……」

「まこちゃんが側に居て、まこちゃんが運転してくれてるなら、車も怖くないの。ただ、それだけだよ」

その真っ直ぐな言葉に、誠は何も返せなくなった。

梨紗にとっては、それが世界の法則のように当たり前だった。

車という乗り物自体が平気になったのではない。

誠という絶対的な存在が隣にいるから、だから恐怖を感じないのだ。


だが当の本人である誠だけは、そのあまりにも重く純粋な事実を、今まで全く知らなかった。




翌日、仕事を終えた誠は、帰宅途中にふらりとコンビニへ立ち寄った。

特に何かを買う明確な理由があったわけではない。

ただ少し喉が渇いたから、冷たい飲み物でも買って帰ろうと思っただけだ。


外に出るとアスファルトの駐車場には数台の車がエンジンをかけたまま停まっていた。

手にした缶コーヒーを開け煽れば、ほろ苦い珈琲の味が喉を通っていく。

ふと思うのは、梨紗が毎朝誠のために淹れてくれる珈琲と味が全く違うということ。


ふと視界の端に、小さな女の子の姿が映った。

年齢は五歳か六歳くらいだろうか。

隣を歩く父親と思しき男性の大きな手を握り、楽しそうに歩いている。

女の子は幼稚園か学校であった出来事を一生懸命に話しながら笑っていて、父親も愛おしそうにそれに応じるように笑っていた。


ごくありふれた、日常の光景だった。

世界のどこにでもある、幸せな親子の風景。

父親がポケットからリモコンキーを取り出して押せば、車のライトがピピッという電子音と共に一度だけ光る。

そして父親が後部座席のドアを開ければ、女の子は何の警戒も、何の恐怖もなく、当然のように車内へと乗り込んだ。


当たり前のように。

世界を1ミリも疑わない、当然の仕草で。

その女の子の背中を見た瞬間。

誠の脳裏に、昨夜交わした梨紗との会話が鮮烈に蘇った。


『私ね』

『昔、知らない人に車で連れて行かれそうになって』

『まこちゃんが助けてくれたんだよ』


誠はその時のことを、覚えていない。

どれだけ記憶を辿っても、幼い自分が少女を助けた瞬間は、やはり鮮明には思い出せないのだ。


だから昨夜もただ純粋に驚いた。

そんな恐ろしいことがあったのか、と。

梨紗がそんな凄惨な目に遭いかけていたのか、と。


だが今になってこのありふれた親子の姿を見て、誠の胸に激しく引っ掛かったのは事件そのものではなく別の部分だった。


『なぜって言われても、まこちゃんが居るから?』


誠は薄暗い駐車場の端に佇んだまま、不思議そうに自分を見上げていた梨紗の表情を思い出す。

彼女は本当に、どうして誠がそんな当たり前のことを聞くのだろう、と言いたげな顔をしていた。


『まこちゃんが側に居て、まこちゃんが運転してくれてるなら、車も怖くないの。ただ、それだけだよ』


それは説明ですらなかった。

梨紗にとっては、生きることと同じくらい当たり前すぎることだったのだ。

だから今まで、わざわざ自分に言わなかった。

言う必要すら、感じていなかったのだ。


誠がいる。

誠がハンドルを握っている。

ただそれだけの事実で、梨紗の抱える長年のトラウマも、密室への恐怖も、すべてが綺麗に消え去る。

緊張もしない。怖くもない。

梨紗の中では、誠の助手席は安全で安心できる場所なのだ。


誠は小さく息を吐いた。

車が平気だったわけじゃない。

車が好きだったわけでもない。

自分が、その健気な事実に何も気付かなかっただけだ。

ずっと何年も、梨紗は「誠が隣にいる」というその一事だけのために、恐怖を乗り越えて助手席に座り続けていた。

それなのに自分は、今の今まで何も気付かずに彼女を乗せていた。


不思議と、申し訳なさや悔しさは湧いてこなかった。

ただ胸の奥の最も深い部分が、静かにじわりと温かくなっていくのを感じていた。

それは男としての照れとも、他人に対する優越感とも違う。


今まで感じたことのない、言葉にしづらい、狂おしいほどの愛おしさだった。


十年以上前の自分が忘れてしまった出来事を、彼女はずっと大切に覚えていること。

自分は覚えていないのに、梨紗は忘れていなかったこと。

そして今でも、誠が側にいるというだけで安心すること。


それが、妙に嬉しかった。

誠の独占欲を、これ以上ないほどに満たすほどに。


誠は、駐車場に停まっている車へと視線を向ける。

きっとこれからも梨紗は、誠が迎えに行けば、当たり前のような顔をしてあの助手席へと乗るのだろう。


何も考えず、過去の恐怖など1ミリも意識せず、当然のように自分の隣に収まるのだ。


自分だけの特等席に座る愛しい妻の姿を想像して。

誠は、ほんの僅かに口元を緩めた。

周囲には誰もいない。

夜の闇の中、だからこそ、誰にも気付かれないほど小さく。


誠は、本当に小さく愛おしそうに笑った。



END

***♡***

最期までお読みいただきありがとうございました。


梨紗と誠の日常を今後も応援していただけるのでしたら、いいねや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎(全部入れると10pt)で評価していただけると、いろんな方に読んでいただけるようになるのですごく嬉しいです。

※pixivにて小説の一部エピソードを漫画・イラストを公開しています。

どのシーンなのかはお楽しみに°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°



ちなみに作者は自転車に乗ると必ず自爆事故を起こすため、18年近く乗っていません。

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