第四節 〔プシュケのようにはなれない〕
記憶とはとても曖昧なものだ。五感で感じたものが記憶だというが、実際には主観や感情、その他多くの要素によって記憶は影響され現実とはかけ離れた記録を形成する。現実そのものを完璧に記録するには、それそこ映像記憶が出来ない限り難しいだろう。
だが違った。
ケイトさんの作ってくれた料理は、私が想像していた美味しさと全く同じだった。味も昔食べたそれと全く一緒で、母親の変わらない味というのはコレの事を指すのだろう。私の両親は冒険好きなのか、全く味が安定しないから、友人の母親に「ママの味」を求めている自分を誰か励ましてくれ。
神々しい料理の名はほうれん草のキッシュ。
美味しく無い理由が見当たらない。名前そのものが美味しいと告げているのだから。それだけじゃない。作ったのはケイトさんだ。絶妙の塩コショウ加減に熱々フワフワの卵、細かく刻んだベーコンとハラペニョの刺激的な味に、しっとりとしたほうれん草で完成。そこには手作りのもちもちパンと搾りたてで果肉が入っているオレンジジュース。
これぞアメリカ。誰が何と言おうとこれは最高の昼食である。異論は認めない。
「そんなに美味しく食べてくれると作った甲斐があるわ。今夜も食べていかない? ラザニアにしようと思うのだけれど」
「是非!」
「ふふ、解ったわ。今夜は張り切っちゃうぞ」
ケイトさんはそう言ってベネッタと私の真っ白になった食器を片付けてくれた。
自ら立ち上がって片付けようとしたが、満腹過ぎて動けそうになかったのとケイトさんに座っていてと言われた事もあり、今回はこの満足感を存分と楽しませてもらおうと思う。
時間にして三十分。私が立ち上がる事は無かった。
消化がある程度進み満腹度が減り始めた頃、ベネッタの手に引かれて彼女の部屋へと招かれた。昔から何度も登っている階段を上がり、左側にある部屋が彼女の物だった。
部屋の内装は四年前と殆ど変わっていなかった。壁には彼女の好きなアルバムのポスターが二枚に小さな机が一つ。シングルサイズのベッドが部屋の端に置いてあり、空いたスペースにはカーペットと小さなコーヒーテーブルが置いてあった。
とても典型的な部屋。不動産会社が創ったモデルハウスみたいだ。
「はい。いつものジャスミンティー」
「あ、ありがとう。覚えてくれていたんだ」
「当然でしょ。小学校からの付き合いだしね」
「そりゃそっか。忘れようとも中々忘れられないか」
それを聴いて柔らかな笑みを見せる。
私はそんな彼女に笑い返して、直ぐに目を逸らす。直視するには、彼女は明るすぎたのだ。眼を焼くほどではないにしろ、チクリと痛むほどには。
私の視線は両手に持つコップへと注がれる。
薄い麦わら色の液体は、微かに私の顔を反射する。微かに波打つジャスミン茶は私の顔を歪な物へとけていく。これが私の心の表れだとしたら、今顔を上げるわけにはいかないな。
「こうやって三人きりになるのも、久しぶりだね」
こっそりと視線だけをベネッタに向けると、ベットに座っている彼女は窓の外を眺めていた。視線に誘導されて私も窓の外へと目をやった。昨夜とは変わって雲が空全域に広がっていて、雲の向こう側から微かにすり抜ける日光だけが世界を照らす。変哲の無い普通の曇り天。
数秒、無言の時間が過ぎる。先程まで聴こえなかった微弱な音が、今では五月蠅い程耳に響いて鬱陶しいくらいだ。一階でケイトさんが食器を洗う音、外で子供たちが元気に遊ぶ声、風が窓の隙間を通りぬける音。それらがこの静寂を更に際立てる。
だが、その静寂を破るかのようにベネッタはコップを口に当てて中身を飲み始める。静かにお茶を啜る音が聴こえ、それに釣られて私もお茶で喉を潤す。丁度いい温度のお茶が口内を温かくさせるに連れて、心までもほっこりとしてしまう。
「本当に、久しぶり。これまで会いに来なくて、ごめんね」
「大丈夫だよ。クーちゃん大学とかで忙しかったものね。全部ディミちゃんから聞いてるから解ってるよ」
「あいつ、変な事言ってないといいけど」
「そんな事言ってないよ、ディミちゃんは」
「ベネッタがそう言うなら信じるけど」
私の方を向いて微かに笑い、再度お茶を啜る。コップを膝上に一度置いて、彼女は徐にAASを操作し始めた。人差し指を緩やかに動かして、何かを展開する。
ベットから立ち上がり、小走りで私の隣へと駆け寄っては表示されてるウィンドウを見せてきた。そんな急ぐ物かと疑問を持ち、ウィンドウを覗き込んでみると
「また懐かしい写真を引っ張ってきたね」
「でしょ? この前整理してたらね、出てきたんだよ。クーちゃん、ディミちゃん、私、お兄ちゃん、そしてメイさん」
「もう十年も前の写真だけどね。でも、全員写ってる写真ってこれくらいしか無いよね」
「そうだね。もうメイさんには会えないからね」
じっくりと目に焼き付けるように写真を見る。そこには先程ベネッタがリストアップしてくれた人物たちが皆、様々な表情で写っていた。私とディミトリーは少年のように大きな笑みを、ベネッタやベネッタの兄さんであるダンテは太陽のような明るい笑みを、そして私の姉であるメイヴィスは彼女の性格通り引き攣った笑みを浮かべていた。
写真は心の鏡だな。
「姉さんって、こんな顔だっけ? なんか私が覚えているより子供っぽく見えるんだけど」
「昔からこうだよ、メイさんは。でも昔のクーちゃんはお姉ちゃん大好きっ子だったから、本来よりカッコよく見えて居たのかもね」
「心は五感さえも騙し取れるとはこの事か。恐るべし」
「え? 嫌だなぁ、お兄ちゃんも? メイさんは昔からこうだよ。まぁでもお兄ちゃんもメイさんの事好きだったからね。まぁ、お兄ちゃんの抱いていた恋愛感情とはまた別だけど、私もメイさんの事は好きだったし」
彼女は私から視線を外して、そっぽを向いていた。
正確には、正面。私達が座るテーブルの反対側に置いてあるコップの方角。
「でもクーちゃんは大人っぽくなったね。落ち着いているというか、こう、立派になった感じがする」
「私としてはいつまでも少女のままで居たかったけどね。大学卒業したら仕事三昧の生活が待っていると思うと、大人なんて成りたくないなと思わざるを得ないさ」
「お兄ちゃんもそう思うよね? え、痩せた? 確かに、今見てみると結構痩せたね。ちゃんと食べているの?」
「昨日母さんに同じ事を聞かれたよ。一応、一日二食は守っているよ」
「ご飯はちゃんと食べないとダメだよ。じゃないと倒れちゃうよ」
「はーい、解りましたよ」
よしよし、と私の頭に手を置いて撫でる。眼の端で彼女の顔を見てみると、表情そのものが「私はママですよぉ」と子供をあやしている顔と類似していた。私には一体、何人の母親がいるんだ。両手で数える程度にして欲しい所だね。
それから、しょうもない会話を幾つか綴って静かな空に二つの笑い声を披露する。
赫灼たる太陽は東から南へと至り、西へと顔を沈めていく。その流れに乗って、空色は青色から朱色へと形相を変えていった。変色していくに連れて外の世界は音を無くし、やがて野鳥の会話だけで満たされていく。
中の世界は、変わりはしない。
何回かお茶をお替りして、何回か大声で笑い、何回か静けさに身を委ねた。
夕方になる頃には一階に降りてケイトさんの自信作であるラザニアを昼ごはん同様満腹になるまで食べ続けた。これを毎日食べられるベネッタが羨ましい。ケイトさんの娘になれたらいいのにな。
それからまた、私達はベネッタの部屋に集まってまたお茶を飲んでいた。
お互い満腹故か言葉を発することなく天井を仰ぐ。回らないシーリングファンを眺めながら、無意味にその羽の枚数を数えていた。多分脳がしっかりと機能していないのだ。だからこんな事をしてしまう。
もしくは、切り出したくないだけなのかも。話すべき事柄を。
最近は自分の事がまるで別人のように解らなくなる時がある。
無意識とは怖いものだ、自分の与り知らぬ所で勝手に事を発しては知らない振りを決め込む。少しは言動に責任を持てと思うが、中々こやつは頑固者のようだ。知らぬ間に感じ取り、知らぬ間に行動に移し、何故という疑問符だけを置き去りにする。
ディミトリーの忠告は正しかったのだと今証明された。自分を知る事の重要さを、必要な時になって思い知らされる。
声に出さないように、口を閉じて溜息を吐く。出来れば、私の肩が少し上がってまた少し下がる動作がベネッタにバレなければいいが。
「ねぇ、クーちゃん」
迷っている中、私よりも先に問いかけをしてきたのはベネッタだった。
「聞きたい事があって、今日は会いに来たんじゃないの?」
流石、ベネッタだ。
きっと全てを知っているんだ。私が何を問うとしているのかも、それを問うか迷っている事すらも、そして何を得ようとしているのかも。
それを全て知っていてなお、私から話すように仕向けさせる。私が聞くべき事だと知っているから、きっと彼女は気を使ってくれたんだ。ばらす事無く、自ら明かすように。その機会を私に与えてくれる。
「兄さんは、元気?」
数秒の沈黙後、私は本質に触れた。
ベネッタの視線がこちらに向いているのを感じたが、それに返事をする事は出来ない。今の私には床を向いて、唇を噛むことしか出来ない。
「元気だよ。ほら、今も私の隣で本読んでるし。今日は何読んでるの、お兄さん? あぁ、大鼻男爵の話ね。昔から好きだよね、その本」
隣、彼女はそう言った。
そこへ私は、視線を向けられない。
世界は観測する事で成立する。誰かに観測されなければ、誰かに認知されなければ、存在の証明も否定もされない。箱を開けて確認するまで、真実は闇の中という事だ。
だから、見れない。
その先は踏み入ってはいけないと。
彼女の世界と、まだ繋がっていたいから。同じ現実の元で生きているという事実に浸り、彼女との繋がりを保ちたいから。だから私は保留にする。空と海に異色を投じ、その異色ごと抱きしめると。
だから、今現在だけは。ベネッタの兄であるダンテが死んだという確定された過去は消える。私の世界からも、そして彼女の世界からも。
「そっか。元気ならばよかった」
「ほら、今も笑っているし。元気一杯な顔してるでしょ?」
ベネッタがそう言うのであれば、きっとそうなのだろう。それが唯一の真実であり、それ以外の物は暴く必要すら無い。
目を瞑ったまま、ベネッタの方を見て作り笑いを見せた。それが私に出来る唯一の事。
「まぁ、でも」
と、彼女は告げる。
「クーちゃんには、見えないよね」
驚いた。その節に、彼女の方へと視線を向けてしまう。彼女は一人でベットに座り、地面に座っている私を見下ろす。何かを諦めた、淡い笑みを私に向けていた。
世界は確定する。ベネッタの兄はここには居らず、私の観測する世界と彼女の世界は共通ではない事が今この瞬間、決定づけられた。必然的なずれが生じ、二つの世界はお互いをはじき出そうとする。やがて接点が消え、孤立した世界へと分裂した。
「ベネッタ……いつから」
「最初からだよ。全部、メイさんが教えてくれたから」
「姉さんが」
「拡張幻覚、Augmented Hallucinationなんでしょ?」
その言葉を聞いて、何かが私の中で崩れる音が聴こえる。振り返れば瓦礫の山が出来ていて、粉々に砕けたそれを私は建て直す手段を持ち合わせていない。頑張って積み上げようとしても、元の形へと戻そうとしても、零した水がグラスに戻らないように、元の姿は何処かへ消えてしまった。
知ってほしくなかった。最後まで無知を突き通して、知らないまま偽りの幸せに浸って欲しかった。ならば、もう傷つく事は無いから。真っ赤な嘘に塗れて、外界からの衝突に備えてくれるから。守られている事にも気づかず、純粋無垢な笑顔だけを見せて欲しかった。
今思えば、知っていても可笑しくは無い。ベネッタは察しが良い。ケイトさんや他の人たちの視線を追って自然に気付くことも出来るはず。でも、そんな事する必要はなく、姉さんから全てを伝えられていたんだ。
姉さんの、優しい残酷さによって全てを知った。
でも私が姉さんの立場だったとしても、同じ事をしていたと思う。だから、責められない。
「9歳の頃。あれは、兄さんが死んだ次の日だった。
メイさんが家にやって来た。一式の道具が入ったキャリーバックを持って、全てを拒む私の前に現れた。何度も拒絶しても、何日も帰ってと願っても、メイさんは毎日私の事を心配して家にやってきてくれた。
一週間が過ぎて、ほんの少しだけ落ち着いた日もメイさんは私の部屋の前まで来て、私を呼んでいた。鬱陶しくて、私はドアを開けてメイさんに暴力を振るってでも帰ってもらおうと思った。
でも、私にはそれが出来なかった。私の顔を見たその時、メイさんは泣いてたんだ。最初はゆっくりと。きっとメイさん本人も気づいていなかったと思う。涙につられて、感情が込みあがってきたのか、徐々に雨は激しくなって、メイさんの表情が崩れた。次第にそれは、大人の泣き顔から子供の物へと変貌を遂げた。
そんな人に怒りをぶつける事なんて私には出来ない。ごめんなさいと何度も誤って膝から崩れ落ちた人を抱きしめる事しか私には出来なかった。
メイさんが落ち着いてから、部屋に入れた。まだメイさんの目頭は真っ赤なままで、何度も洟を啜っていた。ティッシュを渡すと、最終的には一ボックスは空にしちゃったの。
それから、メイさんは自分のバックに手を伸ばしながら、こう言ったの。
『私は君を完璧に救う事は出来ない。でも、君の世界を変える事が出来る。我儘に全てを拒絶して、自らが望む世界を構築させてあげる事が出来る』と。
最初は解らなかった。そんな魔法のような事が可能なわけがないと。でも次第に、信憑性が増して、私はそれに魅かれ始めた。やがて求め始め、頭の中は“もしも”から始まる妄想で埋め尽くされた。
そんな私を見て、メイさんは忠告をした。
『唯一の代償として、君はいま私たちがいる世界から切り離される。AASのない旧時代のように君は誰とも世界を共有出来なくなる。君の見ているもの、触れるもの、聴こえるもの、味わえるもの、嗅げるもの全てが孤立するんだ。今から君に埋め込むこれは、謂わば使用者に幻覚を見せる麻薬。まやかしを見る異常者になってしまうけれど、いいかい?』って。
数秒の不安が私を動揺させた。
だけど、結局答えは変わらない。私の心は真実を受け止めるには小さすぎたんだ。溢れ出して、悲しい思いをするだけなら、虚実に身をゆだねて一人幸せになろうって。
だから受け入れた。
メイさんが創った、Augmented Hallucinationを。それで私の兄さんが生き返るのだから。他人との繋がりを犠牲に私は一番大切なものを手に入れる事が出来たんだから。
後悔は、していないよ。
今、私に見えている兄さんの存在が偽物だとしても、私にとっては本物だ」
目を閉じる。事実を処理し認識するために。
「――ベネッタ、君は、強いんだね」
それが、私から絞り出た精一杯の一言だった。
「強くないよ。弱いから、現実を受け止められない程弱いから、逃げる事を選ぶしかなかったんだよ。絶対に、強いはずがない」
「違うよ、ベネッタ」
両目を開けて、彼女を見上げる。
そこには苦笑いをした少女の顔があって、その目を覗き込むように見ながら、こう続けた。
「逃げる事を決断して、全てを切り捨てる選択が出来た。何かを得るために、何かを捨てる決断を下せた。それは、弱い人には出来ない事だ。強い人にしか許されない行動さ」
私は知っているから。弱い人間の顔を。鏡を通して何度も見た、あの虚ろを。何もできずその場に立ち止まり、自己嫌悪で腐り果てるその姿を。
君は、そんな人じゃない。
「君は、笑みを浮かべられる人だ。私が大人を語るにはおこがましいかも知れないけど、歳を取る毎に私たちは笑えなくなるんだ。知識を得て、経験を用いて、私たちは知らなくてもいい事に気づいて、世界の汚い部分に触れてしまう。そんな世界で生きているからこそ、自然な笑顔なんて出てこない。出てきたとして、それは暗さを誤魔化す為の自己暗示だ。
だけど、ベネッタ、君のは違う。君のは、純粋なものだ」
果たして、断言できる程の自信はどこから来たのかと自分を疑うが、今はどうでもよい。直観が告げる言葉をただ口にしたいだけ。私の思いを、彼女に伝えたいだけ。理屈とは、所詮直観の後付けなのだから。
口を微かに開いたまま、ベネッタは硬直する。
何度も目をパチパチと開いたり閉じたりしながら、彼女は言葉を探していた。けど、最終的には見つからなかったのか、俯いてしまう。
私は床から立ち上がり、彼女の隣へと向かう。私には見えないが、きっと彼女の兄さんが座る反対側へと。ゆっくりと腰をベットに落として、マットレスに着いた手を沈ませる。
左手で彼女の頭を撫でる。
そっと置いて、髪の毛に沿って手を滑らせるだけ。彼女の月光で微かに赤く光る髪の毛を傷めないように。その輝きが永遠に続くように。
彼女の頭が、私の肩に乗る。それに応答するように、私も彼女の頭に自分のを乗せる。
きっと、この瞬間だけは、私たちは同じ世界の住人だ。
同じことを思い、同じことを見て、同じことを感じている。
たった二人だけで形成された狭い世界。
だけど、それが歪な程、心地よかった。
◇
クェノンが帰ってもう三十分は過ぎているだろう。
というのに私はまだ、ベットに座ったまま途方に暮れていた。
窓の外は闇。月光だけで全てを照らすには足らない程の闇が蔓延っている。きっとこれが見えているのも、私が望んだから。私がもし夜を嫌えば、太陽の沈まぬ世界が出来上がる。そうならないのはきっと、私が彼女の存在をこの世界でも維持したいから。
クェノンは、夜が好き。クェノンは曇り空が好き。クェノンは雨音が好き。
だからきっと、それら全ては私の世界にて残留する。誰かを象徴するものを否定せず受け入れる事で、私は彼らとの関係性を保てている錯覚に陥るんだ。久しぶりに会った際に、彼らを認識出来るように。久しぶりと笑い、昔話に興じ、同じ視線で世界を見たい。
きっと、AASなんてなかったら、みんなこう思うのだろう。
誰かと繋がりたいという強い思いを持ち、誰かが見ているものや感じているものを共有したいと思うのだろう。だけどそんな時代は半世紀前に消え去った。取り残されたのは、私のような幻覚に捕らわれた囚人たちだけ。
兄さんが、私を見ていた。
きっと落ち込んでいる私に気づいて、こちらを励まそうとしているのだろう。でも自分にできる事は少ないから、何をして励ませばいいのだろうと迷ってあたふたしているのは、少し見ていて可愛いと思った。
兄さんの年齢、具体的には身体年齢は死んだあの日から変わっていない。きっと私の想像力が豊ではないからだろう。
十八歳。あれからもう九年が経った今では、兄さんより私の方が年上という面白い矛盾。
あの頃は私もまだ十三歳だったから十八歳の兄さんが大人っぽく見えたけど、今見てみれば、案外子供っぽいのだと再認識する。二十二歳の私からすれば、まだ子供だ。
「ありがとう」
口にして、これは誰に対しての言葉のだろうと自らに問いかける。
それを聞いてか、兄さんは笑っていた。ならば、不問にしよう。
誰に問うたかなんて、どうでもいいんだ。
兄さんが笑ってくれれば、それで十分私は幸せだ。兄さんが私の傍にいてくれれば、それだけで私には生きる意味が生まれる。
兄さんを見て、私は笑う。
それがきっと答えじゃなかったとしても、正常じゃなかったとしても。
何せ私は、嘘偽りだらけの世界で生きているのだから。
◇
「なぁ、クェノン」
ベネッタの家から帰って、玄関の門を閉じようとしたところ、台所の方から父親が私を呼ぶ声が聴こえた。まだそこで花火制作に勤しんでいるとは、熱心なことで。
「どうしたの?」
長い廊下を通って父親がいる場所まで聴こえるように、少しばかり声を張る。多分母親の方は寝ているだろうから、少しだけ。私が反応した事だけが伝わればいいわけだし。
「ちょっと、こっちに来て話さないか?」
「唐突にどうしたの? まぁいいけどさ」
渋々、私は薄い上着を隣のソファに投げて、父親の声がする方へと足を延ばした。
小さな電球だけが灯っているくらい台所で、父親は数多くの作品を背後にこちらの方を見ていた。暗くてはっきりとは見えないが、目視できる物だけ数えても二十を超える花火が壁沿いに添えられていた。
「それ、今日の一日で全部作ったの?」
「いやいやまさか。こいつらは没作品さ。それらを見て、改良したら使える奴はないか見ていたんだよ」
「それで、使えそうなのはあった?」
「一つもないな。こりゃ没になるわって花火がいくつもあった」
それは残念だ、と思う自分とは裏腹に、父親は満面の笑みで言葉を紡いでいた。
相変わらず、よく分からない人だ。
「それで、どうしたの?」
「いやな、久しぶりに帰ってきた愛娘と親子の会話がしたくてな。お前にも結婚して子供を授かればいずれ解ることだ」
「はぁ、そういうものですか」
「そういうもんだよ」
多分本人も理解していないんだな、と自分の中で納得させ、私はその場に座り込む。
「クェノンには言ったっけ? 俺が花火を創り始めたきっかけ」
「ううん、まだ聞いてないよ」
「そっか、それじゃ教えてやろう」
「なんでまた?」
「今じゃないと、きっと一生言えないと思えてな」
私から視線を外し、床の方へと目を向けて、いつもよりも小声で父親はそういった。暗くてもわかるほど、寂しそうな顔で。
「メイヴィスが死んでから、俺は、お前たちを残して死のうと思った。辛い思いをするぐらいなら自らそれを断ち切ってやろうって。でもまぁ、俺にはそんな度胸なんてないから、結局今でも生き永らえているわけだけど。
大切な娘を失った後に訪れた夏。友人に無理やり連れだされていった祭りで、俺は初めて花火を見たんだ。夜空の、雲を超えたその先まで絶えない光を届け、その場にいる全ての人間を魅了した芸術品に。
あの時、俺は全てを忘れて、全てを忘れて奇麗だと思った。これを見ている間は時間が止まって、それだけで頭が一杯になる。様々な色が夜空をキャンバスにして四方八方に舞い、俺らの心を躍らせた。
だから、作ろうと思った。「メイヴィスに俺の思いが届きますように」なんてセンチメンタルでロマンチックな考えじゃない。ただ、俺が全てを忘れられるように。その光に溺れて、一時的にでも救われるように。
それに、世界には俺よりももっと不幸な目に遭っているやつらがいる。そいつらの事もついでに救ってあげる事が出来るならば、やってみよう。そう思ったんだ。
どうだ、捻くれているだろう?」
「――本当、遺伝子には抗えないね」
なんで、途中まで暗い顔していたのに最後の最後で子供のように歯が見える程笑うのかは謎だけれども。
まぁ、でも
「やっぱうちの家族はこうでないとね。逆に父さんがロマンチストだったら私、父さんと今ここで話していないと思うし」
「ロマンチストの俺も愛してくれよ、我が娘」
「そういうのは母さんに求めてください」
煽るような視線でお互いが見合い、数秒後、ゲラゲラと笑う部屋が家中に響き渡る。母さんが起きたらまずいと思い出し、お互いがお互いの口元を手で塞ぐまでが一連の動作。
それから、かれこれ一時間無意味な会話を広げた。
大学で起こった面白おかしい話から、成績が暴落して教授に泣き寝入りした話(これに関しては怒られる覚悟をしていたが、父親も過去に同じようにしていた事が発覚したので逆に情が深くなった)、友人の失恋の話をしたりと。
今思えば、父親がいうように、こういった会話も四年ぶりだと考えると時間の過ぎる速度は尋常じゃない事を実感する。
卒業して就職したら、今度からはもっと頻繁に帰ってこよう。
両親も、いつ会えなくなるかわからないから。
「そうだ」
父親は徐にそういうと、後ろを振り向いて何かを探っていた。
あったあった、という独り言と共に再度振り向いて、私に何かを手渡した。
「これは?」
「遺書、というか、お前に渡してくれってメイヴィスに言われていた物だ」
「そんな、そんな物があったんだ。でも、どうして今?」
「クェノンが大学卒業する前に渡してくれって言われてな。俺もよく理解しちゃいないけど、娘からのお願いだ、聞かないわけにはいかにだろ」
手に取ったそれは、シアン色の表紙をした本物の手帳だった。中身も本物の鉛筆でいろいろ綴られていて、今では滅多に見ない珍しい代物だ。
でも、なぜメイヴィスは、姉さんは、私にこれを預けたのだろう。
「さてと。俺はもう寝ようかな。もう歳だからね、夜遅くまでは起きられないのじゃ」
「おやすみなさいね、おじいさん。階段踏み外して転げ落ちないようにね」
「余計な心配じゃい」
こいつらは明日片付けるかと言葉を残して、父親は二階の寝室へと上がっていった。
一人暗いリビングにて、手帳を開く。曰く、これは日記だ。毎日書かれているわけではなく、私の思う限り書きたいことがある時に書いていたんだろう。
今が夜じゃなければ全てを読んでいただろうけれど、疲れ切っている状態で活字は精神を削るにはちょうどいい武器だ。故に、パラパラと適当に飛ばし読みする。
中には暗い話から面白い話、突拍子もない話が詰め込まれていて、まるで短編集を読んでいるかのようだった。まさか姉さんにこれほどの文才があるとは思わなかったけれど。もしかしてこれ、私の名前で出版すれば一儲け出来るのでは?
そんな悪趣味な悪だくみをしていると、気づけば最後のページに手をかけていた。
そこで私の思考は一度止まる。
このページは日記ではなかった。「日記ではなく自作小説だった」ってパターンでもない。
見覚えのあるそれを見て、私は素早く立ち上がり自分の部屋へと駆け上がる。
持ってきていた携帯型コンピューターを起動して、普段使い慣れているソフトウェアをいくつか立ち上げる。それらが起動するまで、私はAASのノートパッドを展開して、目の前に見えるテキストをデータとして書き上げる。
時間にして七分後。AASからコンピューターへとデータを送信し、それをソフトウェアに食わせた。
「――やはり」
同じだ。昨日の夜、私が謎のメールに添付されていた暗号を解読した過程と、まったく一緒だった。いくつかの解析が終わり、こいつらが出した結果を見て私は驚愕する。
「……これ、秘密鍵じゃない?」
◇
「春休み、もっと長いんだから居ればいいのに」
「ごめんね、ちょっと急用が出来ちゃってさ。卒業する前にまた会えるからいいでしょ?」
「まぁ、四年に比べたら何でもないな。気を付けて行けよ、車とか」
「車に気を付けるとか、いつの話をしてるの」
「母さん心配だけど、クェノンはしっかりしてるから大丈夫よね」
「当然でしょ、母さんの自慢の娘なんだから」
「俺の娘であることも忘れるなよ」
「それは……いいや」
「おい! 大人が泣く姿がそんなに見たいのかお前は」
玄関先。陽気な声が聴こえる。
「それじゃ、二人とも。さようなら」
ドアノブに手をかける。
真相はきっと、この向こう側にあるから。




