第三節 〔荒波の前にようやく立って〕
本を読み始めたのは、姉の背中を追っての事だった。
裏庭にあるハンモックに身を任せ、文庫サイズでレンダリングされた書籍を姉が視線だけでページを捲るのを5歳の頃に見てからか、私も本を読めば姉みたいになれると疑わなかった。姉が家にいない間にこっそりと部屋に入って、当時の身長でも届く所にある本を取り出して、活字の海へと飛び込んでみたものの、アルファベットすら真面に読めない児女が小説を読めるはずもなく。
予定よりも早く帰ってきた姉に私が姉の部屋でこっそりと姉の小説を読んでいたのがバレた時、私は怒られる事を覚悟していたが、姉の口から出た言葉は
「やはり、遺伝子には荒げないか」
と、面白がっている口調だった。眼を閉じて怯える私の頭に手を乗せて優しくなでてくれたのを今でも鮮明に思い出せる。
私の家族は、親戚や祖父に至るまでが、読書家だ。その内には実際に小説を書いて出版している人もいた。印税生活でウハウハ、というのは幻想だと語った親戚の誰かは今頃新作を出している頃だろうか。
何を読んでいるのか、と姉が問うた。あれは、何の本だったのだろう。思い返そうとしても、私の海馬はアパートの付箋と一緒で混雑しているから中々お求めの物を探し出せない。
「あれ、海馬は短期記憶を保存する場所だっけ? 長期記憶ってどこだ……まぁいいか」
私の記憶力全般に問題があるのは置いといて。
私は手に持っていた本の名前を告げると姉は
「五歳でそれを読もうとは、強欲だねぇ」
その台詞から察するにきっと私は自分の身の丈に合わない本を手のしていたのだろう。正直、姉の部屋にある本の中に私に見合う本があったとは思えないが。
だが、姉の表情は感心から残念へと変わる。
やはり怒られるのだろうかと少し怯えたのを見て、姉は直ぐに笑顔を取り戻す。
でもそのまた直後、姉はそっぽを向いて、私ではない誰かに文句を言うように口を動かした。
「フィクションとは、不幸の表れだ。悲しみや憎み、怒りや恨み。それらから目を背けるたびに非現実のIFが生れ落ちる。完璧な世界には、小説など生まれないだろう。何せこれら物語は作者の“世界はこうあって欲しかった”と謂う願望から生まれてくる物なのだから」
当時の私はそれを理解出来なかったが、今思えば随分と捻くれた思想だと思う。だが、その思想が間違っていると指摘出来る程の材料を私が持ち合わせていないのも事実。
きっとそれは、姉の主張が少なからず正しい事を指しているのだろう。
壁一面の小説は世界の否定であり、人類の切望。知りたくなかった世界の見方だ。
本棚から取り出した小説を隙間へと押し込み、自動的に吸い込まれるのを見守る。今はこの本の気分ではない。口元に人差し指を持ってきて、本棚を視線でなぞる。どれにしようかな、と声に出しながら。
誰かが叫ぶ声が聴こえてくる。
何と言ったかははっきりとは聴こえなかったけれど、きっとこれは「ご飯出来たわよ」だ。
「はーい」
と私を呼んだ人にも聴こえるように大声を上げる。
今日の本探しは夕飯の後にするとしよう。部屋を出て階段を下がり、玄関前を通ってキッチンへと向かう。そこには使い古されたエプロンを着て木べらを持った母親の姿があった。
「今日は何?」
「久しぶりに帰ってきたからね、好物のリブステーキよ」
「ピクルスかサワークラウトある? それないとお肉とかが食べられなくなっちゃってさ」
「あら? 大人の舌が出来上がってきているのかしら? 昔は野菜なんて手も付けなかったのにね」と、随分と懐かしい事を口にする。いや、母親からすれば昨晩の出来事とそう変わりないのだろうか。
たった四年。されど四年。誰が経験するかによってその差は大きい。きっと私にとってこの四年は、大学という新しい環境下での暮らしもあった所為か、思いのほか長かった。思い出せるイベントが多いからだとは思うが。
母親の後ろを通ってシルバーウェアに手を伸ばしながら
「母さん食べるよね? 父さんは?」
「全員食べるよ。あ、それと、食卓も拭いといて」
「りょうかーい」
人数分取ったフォークとスプーンを一旦置いて、テーブル拭きを水で濡らす。余分な水を絞り出して食卓を適当に拭く。昼間に食べたサンドイッチのこぼれカスを拾い上げ、見えない汚れも一緒に存在もろとも消えてもらおうか、と心の中で唱えた。
ぐへへ、と悪役みたいな笑みを浮かべていると
「どうしたクェノン? “下級市民の町なぞ、燃やしてしまえ”って顔してるぞ?」
ダサいTシャツを来た父親が長い髪の毛を後ろで纏めながら私の横に立っていた。
「ほんと? ラスボス級?」
「いや、序盤で主人公の能力を披露するためだけに登場して退場する噛ませ犬級」
「所詮は小悪党ってことかい」
きっと五分も登場シーンは貰えないんだろうな、と少し自虐的になりながらテーブルを洗い終えた布巾をキッチンで洗って元から置いてあった場所に干して置く。
殆ど同じタイミングで母親が料理を仕上げていて、部屋中に広がった湯気と香りが唾液腺を刺激する。家に帰ると食事が待っている事に対する喜びと、久しぶりの母親の美味しいごはんに対する嬉しさで今日の私は機嫌がすこぶる良い。
「たまには帰ってくるのもいいね」
両親には聴こえないように、小声でそう口にし、食卓に座る。真正面に父親が座り、右斜め前に母親が、そして左は空席。昔からこのように指定席が決まっている。
ナイフとフォークを両手で取り、いざ。最後の晩餐と行こう。
◇
ベットへと転がり込んだ頃には、私のお腹には子供がいた。
名前はもう決まっていて、「リブステーキ」にしようと思う。たまに口から出ようとするのが問題だが、そこは私の技量の見せ所だ。
「おぅ、いや、これは無理か?」
必死に口を塞ぐ努力はしているが、あの量を平らげた後では無理もない。とりあえず隣にあった水を一気に胃袋に流し込んで、吐き気そのものも保留させてもらおう。きっと数分後の私がどうにか解決へと導いてくれるだろう。
懐かしい天井を眺める。
母親の料理よりも、玄関前の匂いよりも、自分の部屋を見て自分が実家に帰った事を改めて思い知らされた。部屋の左端にある本棚付きの机と、右端にある小さなベット(小さいといっても身長は中学生の頃から全く伸びていないので自分の身長的には丁度いい)と、残りのスペースを埋めるように置かれた一人用のリクライニングソファ。殆どソファとしての役割よりは「片付けるの面倒だから一応ここに置いておこう」用として使用されていた。人語を使いだしたりしたら、誠心誠意をこめて謝りに行こう。
連絡アプリを開く。多い会話履歴の中から一つを見つけ出す。
相手の名前はベネッタ・グランディエ。
昔馴染みの親友で、私がこの町から逃げた原因の一つ。クラシック音楽を聴いて、風景画を描くのが好きで、自分のお兄さんが大好きな、なんで私なんかと仲良くしてたんだろうと疑う程の良識人。
会話履歴を開くと、そこには私とベネッタの最後の会話が残されていた。
四年前の八月二十七日。
私は彼女に「頑張ってね」という言葉を残して彼女の関係に区切りをつけた。勝手に言葉を残して、付け入る隙を与えず、彼女に背を向けて私は遠くへと逃げた。ベネッタがそれに対してどう思ったかは知り得ない。だけど、きっと悲しい思いをしたとは思っている。
だからこそ、烏滸がましいと思う。
自ら手放して置いて、さよならをする決断をして、相手に見えない傷を与えたのに、今更それらを全て忘れてよりを戻そうという自分に、傲慢以外の言葉が見つかるだろうか。きっと私は、そんな自分を許すことは無く、嫌悪感を抱くことになるだろう。だけど、私は逃げる事を止めて立ち向かうと決めた。
葛藤する両側面の自分が居る。一人は罪を忘れるなと、一人は罰に立ち向かえと。きっとこれがディミトリーならば悩む事無く次の行動に移れるだろうけど、私はそうじゃない。永遠と無駄な悩みに魘され、その場に留まってじわじわと腐る。気付いた頃には既に時遅し、選択する事すらも出来なくなって後悔の嵐にやられるだけ。
ベネッタとの会話履歴を開いて、もう既に十分が経った。
臆病な自分には重すぎる決断だったのだろうか。
「はあ」
肺がつぶれる程の大きなため息。自分に対する落胆の表れなのだろう。両手をキーボードに置いたまま、結局文字一つ打つことなく私はアプリを落とそうとした。
下の階から一般家庭では聴かない程の大きな爆発音が聴こえた。
その音にびっくりして、ネコのように体が跳ね上がる。
直ぐに立ち上がって下の階へと家自体が揺れる程早く降りる。もしかしたらキッチン爆破とかの、今更ギャグドラマにすら登場しない事故が起きたのかもしれない。
「大丈夫?!」
「ん? どうかしたのか、クェノン?」
「今大きな爆発音しなかった?」
「あぁ、これか。いやな、もう直ぐ祭りだからそれ用に新作の花火でも作ろうと思ってたら、間違えて起爆させちゃってな。そっちまで聴こえちゃったか?」
まぁ、こんな事だろうとは思っていたけど。
「後で近所の人たちに謝りに行ってきてね」
「そんなに大きかったのか。新作創ってるってバレたらどうしよ」
「心配するのはそこですか」
呆れ様に放った言葉に父親は反応することなく、また自分の作業へと戻っていった。私が高校に入ったあたりから始めている花火作りを今でも続けていたのは知っていたが、まさか祭用に制作を任される程だったとは知らなかった。誤爆して数秒経った今でも色んな色のパーティクルを四方に散らして、色鮮やかな世界を作り出す。これが夜空に上がればきっと、どんな景色もロマンチックな夜景へと成り果てるだろう。
多分ここで父親に注意を促しても、集中していて聴こえていないだろうから敢えて口にはしないでその場を去ろう。
渋々階段を上がり、自分の部屋へと戻る。
途端、聞きなれた効果音がAASから届いた。ピロン。通知音、即ち誰かからメッセージが送られてきた事を知らせるベルの音。
どうせディミトリーからの「ちゃんと家に着いた?」だろう。きっとディミトリーはいい母になるだろう。男だけれど、きっと。
だが、予想は外れる。
本文、「どうしたの?」を送ってきた人。それはディミトリーでもなく、アイリスでもなく、連絡先を教えなくてもいつの間にか電話番号を人脈で取得したケイラー教授でもなく。
慌てて連絡アプリを開く。
そこにはベネッタからの新着が一件。実際に会話履歴を開いてい見ると、そこには送った覚えのない、Fの一文字だけを送った痕跡があり、それに対してベネッタが私を心配した節のメッセージを送っていた。
眼を閉じて額に手を当てる。流れで溜息もつこう。
爆発音に驚いて間違えて送ってしまったのだ。明日にでもいいから父親に注意してやろう。
キーボードを展開して、手を添える。数秒何を書こうかと迷い、まずは謝罪文を書こうと決めた。まずは会話を始める所から。
「ごめん、間違えて送っちゃった。父さんが花火を誤爆させてね」
『あら、それは大変ね。耳に支障はない?』
「大丈夫、なんの問題も無いよ。体は無駄に頑丈だからね」
『昔からクーちゃんは強かったもんね』
「あの頃は男子に混ざってフットボールとかもしてたしね」
それから、少し会話が途切れる。
覚悟を決めろ。今ここを逃せば一生言えないぞ。
そう自分に言い聞かせながら、私はキーボードに再度手を伸ばした。
「私、久しぶりに帰ってきたんだけどさ。明日時間ある?」
『お母さんから聴いたよ、おかえりなさい。お昼ご飯食べた後なら時間あるよ。この際だから、家で食べる? お母さんも喜ぶと思うよ?』
「それじゃ、明日はご馳走になろうかな? 久しぶりにケイトさんの料理食べたいし」
『分かった。お母さんに伝えておくね。それじゃ、明日ね』
「ありがとう。それじゃまた明日」
そこで会話は途切れる。
「な、なんとか乗り切れた」
肺に吸い込んでいた空気を全て吐き出すと同時に体の力が全て抜け落ちていく。まるで風船みたいだ。ベットに座っていなかったら頭を何かにぶつけて怪我をしていたかもしれないな。感謝しないと。
連絡アプリを閉じて、目を瞑る。瞼の裏に見える世界は少しだけ熱を帯びていた。
それが少しだけ、嬉しかったのは秘密にしておこう。
◇
「ここまでは解るんだけどな」
先日私の元に届いた謎のファイルは、先程興味本位で調べてみたところ、多くの人にばらまかれたファイルでは無いようだ。
映画とかでよく見るのは、謎の暗号を掲示板とか大勢の人に配って「これを解読出来る人間を探している」という秘密組織的な場面が有ったりするが、結局この暗号化メッセージを受け取ったのは私だけらしい。まぁ、それもそうだ。
これは、姉からのメッセージだ。ファイル名をシーザー暗号を使って解読すると、From Mavis to Quenon、即ち、メイヴィスからクェノンへという事になる。
姉さんから私への挑戦、という事なのだろうか。分からない。不明な事が多すぎる。
どうして、姉さんからメッセージが来るのかも、どうして今なのかも、そして、この暗号の解き方も。
ある所までは解読出来るのだ。
既存の暗号解読ソフトでは意味のある文章が出てこない事。いくつもの暗号化技を駆使した多重構造である事。
だが、結局の所、分かるのは底まで。ある所で詰まる。公開暗号方式という暗号化技術が使用されている所だ。
今度のは、厳密には公開暗号方式を量子コンピュータ対策に改良した別のものだが、大本はほとんど同じ。データを暗号化させる公開鍵と暗号化されたデータを復元させる秘密鍵という二つの鍵が特徴のデータ暗号化方式の一つ。この暗号化方法が優れている点としては、秘密鍵が無ければデータは絶対と謂っていい程復元出来なく、その秘密鍵も公開鍵からは作り上げる事は出来ない。
色々な方法でデータを解読していく内に暗号化されたメッセージと公開鍵は見つけたけれど、結局はここで詰む事になる。
もし、これが先週だったら、諦めていた。忙しさマックスの状態でこの暗号を解読する体力も精神力も私は持ち合わせていない。暗号解読ソフトで意味のある文章が出ない時点でやめちゃっているだろう。
だけど、運がいいのか、今は春休み真っ定中。時間は無駄に有る。
と言いつつも、これから何をすれば良いかなんて凡人の私には解らない。もしディミトリーが忙しくなければ彼の協力を仰げるのだが、今は教授の仕事で手一杯だろう。私の暇つぶしに彼の頭脳を用いるのは申し訳ない。
時刻は午前三時。
窓の外は既に暗く、最初から誰も住んでいない程静かになった。目立つのは明るい半月の夜景と夜空を撫でる涼しい風の音色。こんな時にはウィスキーが合うがのだが、生憎両親は酒を飲まない。飲むとしても私の苦手なビールくらいだ。
やっぱり来る途中で酒を買うべきだったと後悔するが、今になっては後の祭り。冷蔵庫にある炭酸水で我慢するとしよう。
パチパチと口の中で弾け、喉を丁度良く燃やす。刺激はやがて胃の中で落ち着き、次の一口を求め始めた。舌が踊り、体が潤いを保つ。
「空が水で満たされていたら、是非とも飛び込みたいな」
空を見上げた。そこには雲一つない青黒い淀み。そこに光る半球が世界を色鮮やかにする。
その中にダイブして、本を読んでみたい。きっとそこでは読んだ事ある物語でも全く別の冒険を体験出来るだろう。一生辿り着く事のない場所を夢見て、舵を切る。無謀な夢への道筋こそが私を楽しませるのだ。
冷たいグラスを床に置く。
湿った手をパジャマで拭き、夢から現実へ、そしてまた夢へ旅立つために布団を自らに被せる。日が出ている時間は5度を超えて温かさを感じれるが、夜になると一気に寒くなる故、しっかりと温かくして寝ないと風邪をひいてしまう。
明日に備えてしっかりと寝なければ。
きっと私の人生で、もっとも重要な日に成り得るだろうから。
◇
あの日の事を思い出していた。
中学の頃。私は始めてそれに触れた。
真っ黒で、ドロドロしていて、やたらへばり付いてくる。
一度侵されてしまえば、二度と取り払えない。呪いみたいだった。
彼女の握った手を通して、こちらへと伝達してきたそれを、彼女は全身で浴びる。耐え難い苦痛と表しきれない絶望を。
それでも笑っていた。
見慣れていた笑みで彼女は私を見ていた。
それ程までに、彼女は強かった。




