第二節〔乾いた唇を剥がせば〕
「それで実家に戻る事になったのね」
「明日には出発なんだよ」
教授から休暇を頂いた翌日の午後8時、私は仮想空間にてアイリスと会っていた。いつもの如く綺麗に結ばれた三つ編みと光沢感のある藍色の瞳が視界に映る。殆どいつも一緒にいるという理由もあるだろうけれど、やはり隣にいるだけで落ち着く。
「両親と会うのは何年ぶりだっけ? あ、二百五度の方角に敵。多分二人くらい」
「四年ぶりかなぁ。一人スナイプして倒したけど残りの一人が見当たらない」
お気に入りのスナイパー片手にスコープを覗き込む。先程倒れこんだ敵の姿は確認出来るがアイリス曰くもう一人いるらしいんだけど、そのもう一人が見当たらない。もしかしたら目前のビルに逃げ込んだのかも知れない。
覗き込むのも面倒になってきた。
「なんかあのビルに逃げ込んだと思うから叩きにいこう」
「分かった、後ろからついていくね」
スナイパーからアサルトライフルに切り替えて坂道を翔ける。一応念のためにリロードをして近距離戦の準備をする。久しぶりにやるゲームだから慣れるのに時間かかると思っていたけど、想像以上に体が覚えていて自分でも驚いている。リロードもたどたどしくなってないし、ヒットポイントやその他ステータスの確認も隈なく行えているのが証拠といえるだろう。
どこかで陣取っているスナイパー対策の為に直線ではなく右往左往しながら目的のビルまで走る。狙っている部隊の生き残りが一人だからと言って他の部隊に狙われている可能性だってあるのだから警戒しなければ。
「四年って事は大学に入学してから会ってないって事?」
「そうなるね。殆ど電話やメッセージでやり取りしてたし、最低限自分はそれで充分だと思ってたからね」
両親と不仲なわけではない。単純に会っても話す事ないし、別に寂しいわけではない。故に会う必要性も感じないという事だ。両親と気まずい空気感の中で世間話をしている時間があれば仕事をしてお金を貰うか、こうしてアイリスとFPSしていた方が有意義だと思う程に。
「昔は両親とも仲良かったのにね」
「別に今でも悪い訳じゃないよ。ただ会話が少ないだけ」
「私からしたらそれは仲が悪いに入るのだけど」
「そうなのかねぇ……あ、死んだ」
「ごめん、私も死んじゃった」
画面にはパーティ全滅の知らせと大文字で綴られたDefeatedが映っていた。残り自分達のパーティを含めて五組しかいない段階で、アイリスの言葉に集中が切れた際に頭を打ちぬかれたのだろう。パーティでのキル数は7、個人では4。負けはしたものの、悪くない戦果である。
「こんな遅くまでゲームしているけど、荷造りは済んでいるの?」
「私を誰だと思っている、済んでいるわけないじゃないか」
「――少しでも期待した私がバカだったわ」
溜息を吐きながら片手を額に当て目を瞑るアイリス。コミュニティエリアに戻った私達は近場のベンチに腰を下ろした。体が疲れているわけではないけど、心臓の心拍数が上がっている所為か落ちついて立っては居られなかった。
手元にウィンドウを人差し指の指示で呼び出して注文メニューを開く。デザート欄に指を当ててアイスクリームと書かれている項目に触れる。
「何味?」
「ソルトペカンでお願い」
「それ好きだよね、アイリスは。昔からあれを好きな人の気が知れない」
要望通り、ソルトペカンとイチゴ味のアイスクリームを注文する。料金を払うと同時にウィンドウが消えてアイスクリームが表れる。私のはコーンの付いたやつでアイリスのはカップ型。彼女は付属されていたスプーンでアイスを掬って口に運ぶ。多分彼女は知らないだろうが、彼女はアイスを口に運ぶたびに嬉しそうに笑みを浮かべていた。それを彼女に言ったところで否定してきそうなので敢えて言わないでおく。
私も自分のアイスを口に運ぶ。甘くて少し酸っぱいイチゴの味が舌を躍らせる。噛む事無く舌だけで堪能するのが私の流儀。歯で噛むなど邪道よ。ちなみにアイリスは噛む派らしいから敵対関係。
「荷造り、手伝ってあげようか?」
「助けてくれると嬉しいけど、どうせ一週間しかあっちに居ないから大丈夫だと思う。多分一時間くらいあれば終わるし」
「そう? まぁクェノンがそう言うなら」
「正直カバン一つだけでも問題はないからね。高校の頃から育ってないから実家にある昔の服とか全然着れるし」
「でも少しは痩せたんじゃない? 昔よりスラっとしてると思うけど」
「まぁ、仕事と課題で忙しくて碌に食べる事もしなかったからね」
確かに前よりは痩せたのかな。少しは運動して筋肉と体力をつけないといけないと思ってはいるけど、そこで行動に移さないのが私の悪い所。思うだけで留まってしまう。
「まぁでも、これくらいだったら問題なさそうね」
「ある程度身支度はするけどね」
自分の怠惰性に呆れながら、小さく息を吐き笑う。
視線をアイリスから外して、上を見上げる。そこには巨大な球体型の時計が浮遊している。自分の現在地に合わせて時間が表示されるその時計は、このコミュニティエリアの象徴ともいえる程印象的だ。それ以外にも、物理的法則から解き放たれた動きをする機械たちが所々に配置されているし、足元から徐々に消えて仮想空間から現実世界に帰還する人達も多々いる。
二分割された世界で私達は生きている。一つが本物でもう一つが偽物。しっかりと引かれた境界線、でもそれは私達からしたら大した事ではない。どちらが本物で偽物でも、私達からすればそれらも一つの世界。私達を滞納する世界の一種。両方とも本物になり得るし偽物にもなり得る。
そういえば、昔、姉が言っていたな。
『私達に本物を見定める目は無い。私達が分かり得るのは目の前の断片的な事象だけ』
子供だった私はただ頷くしか出来なかったが、今思い返せば納得した上で再度頷くだろう。情報として、今いる仮想空間が『偽物』である事は解ってはいるけれど、自ら得た情報だけでこの世界を『偽物』だと判断する事は出来ない。
「ねぇ、アイリス」
「どうしたの?」
アイスを頬張りながら、アイリスは答えた。
「帰ったら、ベネッタに会うんだ」
そう私が口にすると彼女は一度私の眼を見て、ゆっくりと瞼を閉じて空を見上げる。彼女に合わせて上へと視線を向けると丁度、クジラのホログラムが空を泳いでいる所だった。
「そっか」
「うん。色々話してこようと思って」
「あまり、無茶しちゃダメだよ」
「解ってる」
「そうだよね」
あぁ、解っているはずなんだ。自然体の自分で居るべきだって。ベネッタと会うのであれば、彼女が知っている私であるべきなのだって。
でも多分私は、彼女の前に立つと突然分からなくなると思う。本当の私とは、仮面を被った私とは、そして二つの違いが解らなくなると思う。私に解るのは、両方とも私だという事だけ。でも、出来れば彼女の前では無力ではない自分で居たい。そんな自分が、本物か偽物か解らないけれども。
アイリスとベネッタの関係は、私とベネッタの関係と比べればそこまで深くはない。小学生からの付き合いに比べて、アイリスは高校生の時からだから。アイリスは確か隣町からの転校だったはずだ。だから、アイリスとベネッタが実際に関係を持てたのは高校の四年のみ。
「でも、クェノンが行けばベネッタも喜ぶと思うよ」
私はそれに、答えない。
アイリスの言葉が正しいと信じているからこそ、同意の意図を口にしてしまえば、それに裏切られた時の衝撃は大きいだろう。
「私はそろそろ帰ろうかな。明日朝から予定あるから」
「そっか。私はもう少しここに居るとするよ。帰ったら支度しなきゃって義務感に駆られる」
「あんまりサボってると、後で後悔するよ」
「私のママかな?」
ふふとアイリスは笑って私に手を振る。彼女も他のユーザーたち同様、爪先から背景と同化していって、やがて最初からそこに存在しなかったかのように消えた。
アイリスが居なくなったのを確認して、私は再度ゲームを起動して一人でプレイし始めた。大空の元、大自然を翔けながらの現実逃避。
多分、誤魔化したかったんだ。
緊張と困惑と不安。それに圧し潰されながらも、弱音を飲み込もうとしている自分が居る。あぁ、誰かが傍にいたら目も向ける事すら躊躇うだろう。それがアイリスなら、もしかしたら頭を撫でて慰めてくれるかも知れないが、それを受け入れる私を私は嫌うだろう。
昔から、弱い自分が嫌いだった。
優秀な姉を見て育った所為か、出来ない自分というのを受け入れられなかった。「姉のようになりたくて」という願望が私を強制的に前進させる。休む事、止まる事、振り向く事を与えず。その先に私の願いが叶う事はないと知りながらも。
当然、他人にもそんな弱い自分は見せたくない。
見られたら最後、同情で差し出された救いの手にしがみ付いて一人では立てなくなってしまうから。
「会いたくないな」
そう口に出してしまう程、私は彼女に会いたくない。彼女の事が好きだからこそ、大切だからこそ、その瞳を直視出来なくなる。
彼女は、優しいんだ。私と違ってパンクロックなんて聴かず、自然音で包まれたような綺麗な旋律を好む性格な程に。
きっと私の作り笑いに気付きながらも、気付かぬフリをしてくれるだろう。
それを、私も気付かなければ良いのだけれど。
「あれから、髪は長くなったのかな」
光に当てると赤色を見せてくれるのがベネッタの髪の特徴だ。蛍光色程目立つわけではないけれど微かに、でも確かに見たものを魅了する。気になって気付かず内に何度も視線を向けるくらい。私もその一人だ。ベネッタの織り成す魔法にまんまと掛かっては私の好奇心を燻ぶった記憶も今では懐かしい。
小学生の頃、確か数学の授業が彼女と同じだった。
数学が嫌いだった私は、情報工学科に居るにも関わらず今でも嫌いだが、白髭先生の話に集中できず、代わりに隣に座っていたベネッタの髪に夢中だった。私の髪は一色でその色が変わる事はないのにどうしてこの子の髪色は変わるんだろう、って目をキラキラさせながら見ていたのを覚えている。
ベネッタに話しかけたのは彼女に夢中になってから一か月後。
当時の私は関係を始める段階で一番大事なのは第一印象だという事を知らなかった。追加で「その髪の毛、頂戴」という他人の身体の一部を求めるような変態チックな申し出はしてはならないって事も。
でも、「いいよ」の一言で髪の毛をくれたベネッタも異常だとは思うけど。
それを大事に保管するために栞みたくラミネート加工する私の方がよっぽど異常だけど。
「いや、これ以上の思い出はベネッタに会ってからにしよう」
あれ?
過去の思い出にふけっていた所為か、彼女と会いたくないという思いはいつの間にか会って話したいと想うようになっていた。
申し訳なさは今でも確かにある。
だけど少しだけ、懐かしさが勝ったようだ。
笑みが浮かぶ。誤魔化しは必要なかったのか。
溜息を吐きながらセーブボタンを押して、ゲームを停止させる。大平原が広がる景色は頭上から徐々にローディング画面へと変換されていく。
青空は灰色へ、樹木は塵へ。やがて視界全てが一色で満たされると、先程アイリスと居たロビーへと戻ってきていた。中央の時計はその姿を地球儀へと変えていて、現時刻に合わせて各地域の時間帯を、朝ならば全体に温かい光が当たるように、夜ならば夜闇の中を幾つもの蛍火が点灯するように、表していた。
私の住む場所は、この時間帯では殆どが寝床について夢の世界を旅しているだろう。そろそろ自分も同じ場所で迷っていないで動き出そう。
仮想世界から現実世界へ戻る為、シャットダウンプロセスが始まる。
十秒のタイマーがセットされ、辺りは徐々に色を失いだす。ゆっくりと視界が一色の景色に慣れていき、それに合わせて心も仮想現実から現実へと戻る準備に入った。
残り三秒。目の前に表示された数字がそう記す。
刹那、灰色だった世界が一気に白へと塗りつぶされた。
「――え?」
違和感。
一秒前と居る場所が違うからか。
いや、違う。もっと何か、根本的な何かが脳に違うと訴えかけている。
影一つ無く、故にこの部屋の広さが解らなくなる。
そしてまた唐突に、目の前に一つの絵が表れた。
豪華なデザインが施された黄色の額縁に収まるのは、小さく纏まった一朶の花。
「これは、アジサイ?」
束になった紫色の小さな花たち。それが四方の壁同様に真っ白な背景に添えられていた。
これもまた、影が描かれていない。
アジサイ向けて、手を伸ばした。
何故かは分からない。展示されている絵に直接触るのはダメだと解っていながらも、どうしてもその花に触れたいと心が叫んでいた。
もしかしたら、本物に見えたから触ってみたいと思ったのかも知れない。
あまりにも完成された美しさの所為で、非現実身を帯びているこのアジサイに触れてみたかったのかも知れない。
人差し指とアジサイとの距離は、躊躇いも含めて少しずつ縮まっていく。
あと数センチ。その先に美しい紫がある。
唾を飲み込んで、指を前に傾けた。
だが、指が触れる直前、静電気が起こったかのように指は弾かれて拒絶され、それとほぼ同時に私の視界は再度、別の色へと塗り替えられる。
今度は停電したかのように、真っ暗な世界へと。
◇
夢の最中で、これが夢だと気づいたのはこれが初めてかもしれない。
空は相変わらず真っ青で鬱陶しいし、木々は悠々と風に揺らされている。
現実と何ら変わりない景色。夢だと気づく要素など何一つ無い、そう見えてしまうけれど。きっと私じゃないと気付かない。私だからこそ気付いた事がある。
自然な空気に漂う歪な臭い、肌を掠める鋭い違和感、水で洗い流したい苦い味。
そう、花が告げる。
アジサイだ。
足元一面に広がる紫色の花々。それらは徐々に私の両足を侵食し始め、やがて膝下は柔らかい花たちに包まれ動かなくなった。
元々、動く気などないけれど。
知っていたから。そう花が言っていたから。
数秒後、一朶を残して全ての花が消滅する。私の動きを塞き止めていた花も、白黒の世界を色とりどりにした花も。
誰かが居た。
その誰かが膝を地面についてアジサイを刈り上げる。
ゆっくりと立ち上がり、花を鼻元まで運び息を吸う。
両目は閉じたまま、嗅覚だけが空を満たす。
数秒、私はその人を瞬きもせずに見ていた。見惚れていた。あぁ、覚めないで欲しい。一生この夢の中に囚われて、この人の幸せな顔を見ていたい。
目の前の誰かが、両目を開く。
夢が終わる予鈴が鳴った。
微かな笑みと、微かな罪悪感と、微かな希望。
花を両手で持って、こちらに近づく。一歩、そしてまた一歩。
目の前まで来て、やっと確信する。これがただの夢では無い理由を。
そっと、花を差し出してきた。
やっぱり、この人なんだ。
だからこれ程に心を狂わされ、感情を乱され、思考を荒らされたのだろう。
目前にはアジサイ。
受け取る以外の選択肢は無かった。
花を抱きかかえる。匂いは微かに残っていた。きっと私の為に残してくれたのだろう。
その人へと再度視線を向ける。
笑っていた。
今度は何の変哲もない、純粋無垢な笑顔を私に向けていた。
あぁ、そうだ。この顔だ。
私に足りなかったのは、これだったんだ。
声をかけようとする。だけど夢の所為か、上手く言葉を発する事が出来ない。
困っている私を見て、その人は人差し指を立てて口に当てる。
ならば、心の中だけでも唱えよう。
この想いが届くかは解らないけれども、
――ありがとう
そう、あの頃と何も変わらない姉に向かって。
◇
目が覚める。いつもとは違って瞼は重くないし、意識もはっきりしていた。目前には見慣れた白い天井がある、と思いきや今まで気づかなかったシミを見つけてしまう。ちょっとだけ憂鬱になりながら、私は上半身を起こした。
背後の窓から差す日光で少し体が火照る。小鳥たちの歌声が鐘のように朝を告げる。
左上に表示させている日時ウィジェットを見て、
「あぁ、そっか。行くの今日か」
そこで私が支度を全くしていない事に気付いて、すぐさまベットから降りて荷造りを始める。過去の怠惰な私を恨みながら、幾つかの服と下着と、携帯コンピューターをバックに詰めていく。
時計の方へと視線を向ける。長針は九の数字を指していて、昨日夜中までゲームをした割には早起きな方なのだろうと自分を褒めてやる。自分の肩をポンポンと叩いて。
整理整頓とはかけ離れたカバンを背負って、出口に立つ。部屋を出る前に再度見渡して忘れ物がないかを申し訳程度に確認するけど、きっと大丈夫だろうという無駄な安心感が私を扉へと向かわせる。センサーが私の事を認識し、扉を自動的に開ける。一歩進み廊下へと出ると背後から小さな機械音が聞こえ、ドアが閉まりロックがかかった事を理解した。
廊下は相変わらずドラッグの匂いが充満している。動物園で初めて遭遇したスカンクと殆ど同じ匂いだが、個人的にはこちらの方が私は苦手だ。こう、言葉にしがたい嫌悪感がドラックの匂いからするのだろう。
出来る限り息を止め、エレベーター方面へと向かう。二つの廊下が交わるエレベーター前で私は立ち、ボタンを押して上下する箱の到着を待った。
右側には壁一面の窓ガラス。外を見るとそこには空一杯に広がった雨雲。
小さな粒が地面を弾ませ、余分な熱気を奪っていく。
「今日はいい天気だ」
晴天を嫌う私からすれば絶好の空。多くの人から理解されないが、私はこの、灰色に包まれている少し憂鬱な世界の方を好んでいる。きっと、偉大な空が私を代弁してくれている気になっているからなのだろう。
昔の映画となんら変わりない「ピン」と音が鳴る。エレベーターが到着した合図だ。
中に入って一階のボタンを押して閉まるボタンを連打する。
ガシャンという音と共にドアは閉まり、ゆっくりと三階から一階へと降り始めた。緩やかに動き過ぎる所為か、少し車酔いに近い頭痛と眩暈がする。やはり新築のアパートに住むべきだったかとこのエレベーターに乗るたびに後悔するが、金が無いの一点張りな理由で却下されるのが毎度の事。
入った時と同じ音がしてドアが開く。向こう側には数名の学生たちが私が下りるのを待って横に避けていた。その間を通り抜け、左側にある正面玄関を潜る。室内から室外へと移る瞬間、涼しい風と小さな雨粒が私の肌を撫でた。年甲斐もなく舌を出して雨を飲んでみる。小さくて可愛いからきっと甘いかなと思ったが、脳みそはそこまでお目出度く出来てはいなく、ただの水と相違無かった。
駐車場は正面玄関の裏側にあり、そちら側に直ぐ出られる出入口はあるが、今日は少し外の空気を吸ってから車に入りたかった。少しだけ木々に挟まれた道を歩いて、この季節に咲く花たちの匂いを楽しみたかった。普段からこうしている訳ではないが、たまには暗い部屋を出て新鮮な空気と天然のビタミンDを摂取した方が身体的にも精神的にも良いとは理解している程度だ。
季節は、冬を超えてもう直ぐ春になる。解け切っていない雪が泥を被りながら道の端へと追いやられ、やがて日の光を浴びて植物たちの養分になってくれる。それを得て花は咲き、花粉をハチに運んでもらい、新しい命を芽生えさせる。生命感溢れる、三月の末。
花々や木々から視線を外して前を見ると、そこには数週間前まで凍っていた川が清い水を運んで流れていた。これが夏になると丁度良い温度になって、怒られると解っていても飛び込んでしまう程の娯楽施設に変わる。一年生の頃は躊躇していたが、もう直ぐ卒業する身としては是非一年の頃から存分に楽しんでもらいたい。夏そのものが短いミシガン州だからこそ、出来る限り多く楽しまないと後々後悔してしまうから。
自分が一年の頃を思い出す。
あの場所から、彼女から逃げ出すようにして、ここに来た日の事を。
きっとここでなら、真っ白なキャンバスになりきって、最初から塗りなおせると思った。だけど、既に塗られた絵具は簡単には洗い流せず、上書きしようにも乾ききっていない。
でも、変わるしかなかった。何もかもを忘れて、辛い物から目を背けて、逃げるしかなかった。そうでもしないと、弱い私は平常を保てなかったから。眼が枯れるまで泣いて、心が擦り切れるまで傷ついた。
人はそう簡単には変われない。幾つもの試練を乗り越え、何百の困難を退け、やっと変革を齎せるのだろうけど、それらの全てを拒絶してきた私にとって改竄とは私から最も遠い概念だったから。だから、逃げた先でも閉じこもった。外界との通路を閉ざして、独りだけの世界に浸っていた。
そんな私を連れ出してくれた人がいる。
アイリス・オルテンシア。
彼女無くして今の私は存在し得ない。
春の匂いも、夏の涼しさも、秋の美味しさも、冬の白さも、彼女から教えてもらった。
逃げる私を否定して、拒む私を引きずり出して、怒りを宿した形相で濁ったキャンバスに筆を加え始めた。剥がすのではなく、塗り直すのではなく、今までの私を受け入れ、そこから一歩を進めるように。
彼女に今でも顔が上がらないのはその所為。
この先の未来でも多分そうだろう。卒業後にも一緒にいるかは解らないが、きっと一緒にゲームをして、恋愛話をして(これに関しては私からの提供は難しそうだが)、仕事の愚痴を言って、酒を飲んで、映画を見て、だらだらと平和な日々を送っている最中でも変わらない事。
はぁ、と溜息を吐く。
精神が安定していない証拠だ。
陽気だったり、急に鬱になったり。と思ったら元通りになったり。
双極性障害というわけでも無いのに、どうして行ったり来たりするのやら。
後ろを振り返ると、駐車場からは逆向きへと寄り道していた事に気付いて、再度溜息を吐く。ここから駐車場まではちょっとだけ億劫な距離だ。
「簡易移動機器、呼んじゃお」
専用のアプリを開いて、要望の物を注文する。すると一番近場にあった簡易移動機器がこちらへと自動運転を始めた。三秒後には私の前で止まり、行先と支払方法の情報を待っていた。
「行先は駐車場、支払方法は普段使っているクレジットカード、っと」
お乗りください、という人工音声に従って私は機器に乗る。
乗っているのが私である事をAASを通して確認した後、簡易移動機器は「移動開始します」の声と共に前進した。
立っているだけで目的地まで運んでくれるのだから、文句を言える立場ではないが、出来ればどんな体制でも移動させてくれるモデルを創って欲しいものだ。ある程度のオートバランス機能はある為、直立さえしていればよいが、出来れば寝ている体制で運んでもらいたい。周囲から見たら凄くシュールな光景だろうけれども。
時速15マイルで動くそれは、三分後には目的地に私を無事運んでいた。降りると同時に口座から5ドルが引かれる。利用終了のボタンを押して、私は駐車した車の方へ足を向ける。
私が半径6フィート以内にいる事を確認した我が愛車は、自動でドアを開けて私を出迎えてくれる。車に腰を下ろすのと同時にAASを通して「お帰りなさい、クェノン様。本日の目的地はどこですか?」と人工音声が流れる。
「私の嫌いな実家へ。もしくは王子様みたく私を攫ってくれる?」
『クェノン様の実家へと目的地を設定しました』
「そこは綺麗な海の見える場所へ設定とかしてよ。まぁ、東川海岸まで向かわないといけないからかなり遠いけど」
『御冗談を。クェノン様はそういう場所よりも安い酒場の方がお好みでしょう』
「流石、人工知能。私を私以上に理解しているじゃない」
『当然です。そういう風に創られていますから』
では出発します、の言葉で車は動き出した。
映画で見るようなエンジン音はおろか、無音のままこのぼんくらは道路を滑る。正直な話、全くの無音より何かしらの音があった方が個人的には良いと思うのだが、
『何か音楽でも流しましょうか?』
「私の事は何でも把握しているね、ホント。プレイリスト「Chill? No, it’s time to hype up」を流して」
『了解しました。変なタイトルの、いえ、独創的なタイトルのプレイリストを再生します』
「ほっといてくれ」
人工知能がクスリと笑う声に続いて、聴きなれた音楽が流れる。
曲名:棺と共に踊る アーティスト:どうして彼らに見つかったか解らない
単調なリズムに乗って独特な声が耳にご褒美を与える。だが所詮は前菜。リズムは徐々にテンポを上げ、キックドラムとスネアだけだった曲にハイハットの細かく鋭い音と全体を支えるベースギターが混ざると曲はクライマックスへと至る。
車内にダンスホールが欲しいな。
『今日は嫌という程注文が多いですね』
「た、確かに。否定できないのが申し訳なくなってくる」
『申請してみては如何でしょう? 車内で踊りたいのに何でこのモデルはダンスホールがないんだと』
「厄介なクレーマーみたいじゃないか」
『実際その通りじゃないですか?』
「アイリス以外に頭が上がらないとすれば、きっと君の事なのだろうな」
『それはさておき、メールなどを確認しなくていいのですか?』
「あぁ、確かに。教えてくれてありがとう」
『いえ、当然の事です』
声に従って私は溜まっているであろうメールを確認する。
AASのメイン画面に戻ってメールアプリのアイコンを選択する。瞬間、溢れ出すように多くのメール達が展開し始めた。慌ててそれらを全て閉じて、上から順に一つずつ処理していく。登録したかも覚えていないサイトからのメールは即刻削除し、教授からのメールは削除しようとして人工知能に止められ、その他のメールは渋々対処していく。
その途中、見覚えのない送信主からのメールを見つけた。
スパムかと思い、直ぐに削除しようとするが、削除コマンドがシステムに拒否された。
バグだと思い、何度も消そうとするけれど、悉く拒絶される。
「神は言っているのか、このメールを見ろと?」
呆れながら、仕方なくメールを開く。
そこには用件も書いて無ければ、アルファベット一文字も書いてなかった。
ただ添付されたファイルが一つ。
恐る恐るそのファイルを選択する。
大丈夫、大丈夫。私、これでも結構機械には詳しいから。いきなりクラッキングとかされても直ぐに対処出来る優秀な生徒だから。好奇心はネコを殺すって言うしね。
「あれ? でもそのことわざだと、私危なくない? まぁいいか」
ダウンロードが始まって、瞬く間に終了した。1GBにも満たないファイルだったらしい。今時に珍しい。
ファイルエクスプローラーを開いて、先程ダウンロードしたファイルを確認してみる。
ファイル名:Colj Jxsfp ql Nrbklk
「シーザー暗号か。ずれている数は……3か。兎にも角にも、開いてみないと始まらないな」
指定したアプリで開く事を命令し、ファイルはアプリを通してその姿を露わにした。
まぁ、なんとなくタイトルで察してはいたが。
「これは、私に対する挑戦か?」
中身は、想像通り、大量の暗号化されたメッセージだった。