後
確かに幸せな恋愛をしたいとは思うが今日の今日で次を探そうなどという気持ちには、流石になれない。むしろこの歳でほぼ初恋の私が次の恋などいつになることやら。
そういう心持ちで飲み会に行くのも失礼にあたるのでは等、色々と自分に言い訳をして仕事を切り上げることが出来ず、だが結局遅れて店に向かった。
裏路地へ少し入るその居酒屋は魚屋さんがやっていて、刺身はもちろんのこと煮付けも焼きも美味しい私のお気に入りの店だ。座敷は滅多に予約も取れないはずなのに今日の今日取れたんだろうか。ここを選んだ海ちゃんの優しさに温かい気持ちになる。
飲み会のメンバーの一人、磯貝君は同期な上に営業部によくフォローに来るから比較的仲が良い。前に飲んでるのを見たとかで何故かたまにミックスジュースを買ってくれる。そんな彼がおしぼりで手を拭きながら、にこにこと言った。
「久しぶりだね、井上さん」
暗いべっ甲のボストン眼鏡がお洒落な彼の雰囲気に似合っている。この会社は地味に男前多い。
「ほんとに。最近は同期で集まらないもんね」
「集まっても松川が邪魔するしね」
苦笑が漏れた。確かに同期で集まると大抵秋が私の横を陣取りどんな会話にでも絡んでくる。これからはどうなるんだろうか。
「もう邪魔は無くなるんじゃないかな?」
「…あれ、なんかあったの?」
「別になにも」
「じゃあ今度二人で飲みに行く?蕎麦好き?」
「まあ、結構好きだけど」
「じゃあ来週の土曜は?ID交換していい?」
まだお酒も来てない段階で前のめりに誘われてちょっと笑いながらスマホを取り出そうとすれば背後からスッと取られた。さっきトイレに立った海ちゃんだと思って笑顔のまま振り向いて思わず固まった。
「あー…松川君」
なんか怒っている。
急いで来たのか、いつもは綺麗に撫で付けられているツーブロックの長めのトップの髪が乱れていた。なんか寝起きみたいで色っぽいな、とぼんやりと見惚れた。
「えーと、どうしてここに?」
秋はむっつりと黙ったまま、勝手に私の荷物を取り上げて店の出口に向かった。
「は、え?ちょ、なん」
付いて来いと言う事なんだろうが、そこまで腹立たれる謂れがない。困って隣の磯貝君を見た。磯貝君は俯いてはぁと一息ついた。
「…松川んとこ行ってあげて」
トイレから戻った海ちゃんに説明してから外に出た。店の前のガードレールにもたれ腕を組んで待っているその姿が腹立つほど様になってる。私が店を出たのはわかっている筈だがこっちを見ない。
「あー、と、どっか飲みいく?」
何となく落ち込んでるように見え声を掛け、秋に一歩近付くとブランドジュエリー店の紙袋が見えた。
そう言えば、この人結婚するんだった。
「…なんで来たの」
平坦な声を出そうとしたが、どうにも遣る瀬無い気持ちで声が震えた。秋がハッとした顔でこちらを見た。
泣きたくない。じわじわと目から湧いてくる水分が溢れてしまわないように上を見上げたけど無駄な足掻きだった。
秋が近づいてきてそっと私の手を取って歩き出した。歩いているうちに秋の指が絡められた。二人で手をつないで歩くのは初めての時以来だ。体温の高い手のひらは少し汗ばんでいた。
しばらくすると、ボソボソと言った。
「…なぁ、実里、もしかしてさ」
「…」
「…こないだ、俺に言ったこと覚えてない?」
「…言ったこと?こないだっていつ?」
あーと言って秋が立ち止まり空を見上げた。思わず釣られて一緒に見上げると冬の空は澄んでいて星が綺麗だった。
「…ひと月前に…実里の部屋で」
一向に心当たりがなくてうんうん唸っていると、もう一度あーと言って秋はちょっと笑った。
「…そっか。まぁあの時かなり酔ってたもんな」
そっかそっかと連発する顔には、なぜか安堵が見える。
「何なの?」
「実里にプロポーズされた」
「は?」
「俺の下唇をはむはむ噛みながらな」
実里の酔っ払った時の癖な、とにこやかに説明される。何それめっちゃ恥ずかしいんですけど。
「秋がすごい好きって。だから嫁に貰ってって」
「はぁ!??私がぁ??」
「そうだよ」
秋の目尻が赤くなってる。満面の笑顔だ。
「…それでなんて答えたの?」
「俺もすげー好き。だから」
立ち止まって秋に真っすぐ見つめられる。
「だから、結婚しようって言った」
甘やかな表情でそう言うなり、秋は私をぎゅっと抱きしめた。耳元で紡ぐ言葉が震えている。
「なぁ、結婚、してくれるよな?」
すげぇ好きなんだ、と秋は消えそうに小さく呟いた。
抱きしめられているから顔は見えないが直接伝わる心音が彼の緊張を物語っていて、それが信じてもいいと主張していた。私の心臓も同じように激しく鼓動をうっている。
「うん…うん…」
混雑する社食で井上実里の姿を見つけ、松川秋の口の端は知らず知らず上がった。
ここのところ新規大型顧客の立上げ案件で休日返上だったせいでゆっくり彼女と会えずにいた。客先と海外工場の往復で、会社で昼食が取れるのも三週間ぶりだ。
日替わり定食のトレーを持って近付くと、潮時だとか飲みたいだとか男前だとか野郎どもだとか、何やら好ましくない言葉が切れ切れに聞こえた。
「今日何があるの、井上さん」
平静を装って実里の横に座りながら左肘でそれとなくつつく。いつもなら解けるような柔らかい笑顔をふわっと向けてくれるのに、今日は何故か緊張して見える。
同期の海野祥子が冷たい態度で何か言っているが、それより気になるのは実里の頑なな態度だ。思わず眉間に皺が寄った。月見うどんに夢中なフリをしているがこちらを意識しているのは間違いない。それなのに目が一度も合わないのは何故なのか。
ろくに喋らぬ内に席を立った実里を引き留めようとして同期の海野さんに阻まれた。
「松川君、結婚するんだって?」
「おう。そうだよ」
思わず破顔してしまう。忙しい合間を縫って情報収集しているが、それもこれも彼女が喜ぶと思えばさほど苦にならない。俺も変わったもんだなあ、と思う。
海野さんが怪訝な顔をしながら言った。
「…一応聞くけど、誰と」
「はぁ?いのう―実里に決まってるじゃん。なんも聞いてないの?」
彼女はこめかみを親指で押してはぁぁとため息をつき、あんたら面倒くさいと言った。
「あのさ、実里には全く通じてないからね、色々」
「はぁ?」
全く意味が分からない。通じてないとは何が。
嘘だろ?
「いや、はあ?じゃない。な〜んにも通じてないからね。ちゃんと言葉にしてあげてるの?分かってる?鈍いんだからね、あの子」
あの子が欲しいならとにかく迎えに来るのよ、と状況が飲み込めないまま告げられた店の名前は、実里の好きな居酒屋だった。
入社した頃の実里は肩に力が入っていて遊びがなく、真面目が服着て歩いている、そんな感じだった。同期で唯一の女性営業があれかと少しがっかりしたのを覚えている。
地味だけどよく見ると綺麗な顔だし色白で細身だが意外と胸もあるからアリナシで言うならアリだが、キラキラした分かりやすい女の子は他にも沢山いるし敢えて真面目ちゃんを攻略する必要性は感じなかった。秋はモテるし女に困っていなかったからだ。
そんな入社一年目の夏の初め。
少しずつ実践的な研修が始まりストレスも溜まり出した頃で、ガス抜きしようぜと同期のうち6人でビアガーデンに繰り出した。事務系の女の子達はおらずこのメンバーなら普通に居酒屋が良かったなと秋は1人枝豆を消費しながらちびちびビールを飲んでいた。
張り切っているのは大学アメフト部出身でシステム課の磯貝だ。実里を端の席に座らせその隣を陣取りあわよくば本日お手合わせをというぐらいの勢いで飲ませている。流石に彼女が嫌がっていたら止めないとなと、ぎらぎらした磯貝がトイレに席を立った際に大丈夫かなと何気なく彼女の方を見た。
そうして目が合った実里がふわと笑った。
色白の彼女が切れ長の目尻を赤く染め、ほろりと笑う姿はやたらと煽情的で、思わずごくりと喉が鳴った。
磯貝が帰ってくる前に彼女の隣に移動したのは危機感がない彼女が心配になったからだ。決して下心があった訳ではない。多分。いや、絶対。
結局その日は磯貝の毒牙から守るという建前で、最後まで実里の隣に居座った。柔らかな反応と性差を意識させないさっぱりとした性格で、気の利いたやり取りが続き存外楽しい時間を過ごすことが出来た。
男女間の友情は成立しないとは思っていた秋だが、実里とならもしかしてとそう思わせるほど気に入った。だから同期の中で1番仲が良いと言われるようになるまで、そう時間はかからなかった。
その頃は恋愛感情だった訳ではない。だけど。
繊細な気配りと丁寧な営業に定評があり気難しい顧客を一手に任される実里は、決して器用では無い。ひっそり努力してこっそり泣く、そういうタイプだ。冗談めかした愚痴を聞くぐらいだったのが、そのうち自分がいない所で泣かれるのが我慢が出来ないようになり、何かと言い訳をして実里が弱っている時は一緒にいるようになった。
もっと頼ればいいのに。俺はお前のなんだよ。そう思い始めたのはいつだっただろう。
降り積もるような。染み込むような。
そんな風にいつの間にか、気付かないうちに自分の隣に実里がいる事がしっくりくるようになっていた。
発端はまたもや磯貝だった。
今年の新入社員歓迎会の一週間ほど前のことだ。
「俺さ、結構本気なんだけど」
「急に何だよ、磯貝」
七年前湧き出る欲求に振り回されていた磯貝も30になり、程よく落ち着きが出て男振りが上がった。結構モテているらしい。
「親友って感じだろ、お前。井上さんの」
実里のことか。途端に何やら面白くない気持ちになるが、表には出さないようにニコリと笑って答えた。
「まあな。俺が保護者みたいなもんだ」
実里は意外と男の好意やら下心に鈍いから、隣で見ていてやらねばならない。
「真面目に結婚前提で付き合いたい。そう、今度の歓迎会の時に言おうと思ってさ」
「……は?」
「いやどう思う?お前から見て。俺と井上さん」
実里が磯貝と結婚?
想像もしていなかった事を言われて、脳みそが機能停止した。
「え?や、は?ど、どうしたんだよ急に」
「や、この春係長にも上がったしな。そろそろ結婚したいなと思って。俺お勧めだと思うんだよ。貯金もあるし女も居ないし」
それに引き替え、だ。秋が歴代付き合っていた女性は短いスパンだったし、軽い付き合いも多かった。
そしてそれは実里も知ってる。
「…まあでも環境で結婚する訳じゃねえじゃん」
「うん、まあ…何より、何だかんだずっと好きでな」
磯貝は珍しく落ち着いたトーンでグラスを煽った。男らしい顎のラインは大人の男を感じさせ秋を不安にさせる。
「…彼女居なかった?」
「結局井上さんを意識してしまうからな。ここ三年いない」
「…側で見るのと付き合うのとは違うだろ」
「うん、だから結婚前提で付き合いたい」
いや、でも。実里は俺のもんだし。
唐突に湧いてきた感情に言葉が詰まった。
同時にすとんと腑に落ちた。
そうか。そうだったんだ。そうだよなぁ。
俺、実里のこと好きだったんだな。
「…磯貝、ごめん」
「あ?」
「俺も好きだわ」
「…は?いやいや、え〜…は?なんだよお前」
「先に言えよ。それは譲る」
「松川…」
「ごめん。でも俺も伝えるし譲らねえ」
「お前…腹立つわ…」
「ごめん」
その日、どうやって帰ったか分からないほどしこたま飲まされた。だが磯貝はお前が大事に出来るならいいよと確かに言った。
だから歓迎会の日、秋は実里を家まで送り思いを伝え、付き合い始めた。
はずだったのだが。
「結局どういうことだったのよ」
今日も今日とて海ちゃんが日替わり定食が乗ったトレーを私の前に置きながら、ため息交じりに言った。今日は何故か磯貝君もいる。
プロポーズから四日。秋は昨日から東南アジアへ二週間ほど出張だ。
「いや、なんか結婚相手は私だったみたい」