お疲れ様と、これからもよろしく!
橋田透は、最近起きる時間が以前より一時間ほど早くなった。
早起きの時間が動かせないだけ、寝る時間も早まっている。
社会人の時は、やれ残業やらやれ心配事があって眠れないやら、そういった日々が日常だった。
メンタル状況が改善された理由としては、すぐに相談できる明確な相手が複数できたことと、透自身の心境が変化したことだろう。
以前は何か失敗することは悪だと認識しがちだった透だが、今では成長や改善の機会ととらえ、前向きに受け止めるようになってきている。
周囲の環境が、結果主義でなく過程や取り組み姿勢を評価するものに変わった事も良い影響だった。
透の師匠達が、ほとんど褒めずにひたすらビシバシしごく鞭派のテッシーや翠と、大体透が何をしても褒めてくれる飴派の静華とうまい具合に二派に別れてくれたのも幸いした。
ちなみに静華さんが褒めてくれるのは、単純に前回の透と比較して細かい成長に気がついてくれるのと、彼女自身が家事壊滅系なので同じスタートラインからめざましい成長を現在進行形で研げている透に純粋に敬意を抱いてのことらしい。
また、以前までの師匠の一人であった寿子夫人は、テッシーが手ずから透を調教、もとい教育するようになると出番が減った。
寿子夫人の悪癖の一つに、息子を可愛がりつつも謙遜のつもりでできない面を強調する、という癖があったので、ここから遠ざかると透は徐々に自分へ向けられた褒め言葉をより素直に受け止められるようになっていった。
少しずつ、確実に変化を続けている透の新しい朝がまたやってきた。
ベッドから起き上がり、寝ぼけ眼でまず行うのは、洗顔とうがいがてら、洗濯機の様子を見に行くことだ。
洗い物の選別と洗濯ネットの利用、洗剤のセッティング等は昨晩のうちに済ませてある。
寿子夫人は早起きしていちいちボタンを押していたわけだが、現代っ子家電の申し子な透は便利機能を有用に使い始めている。
彼が朝することは、真面目に家電が稼働しているかの確認のみ。よって起きる時間も以前よりは少し遅く済むようになった。
朝の十分は貴重である。橋田家長男の家事貢献は、着実に橋田家母の早朝業務の怠慢――もとい、忙しき主婦の負担の軽減につながっている。
最近では彼女はこの時間だとまだ部屋から出てこない。寿子夫人は不器用に真面目にきっかりやろうとする息子と違って、かなりのサボり上手なのだ。
自分の身支度整理の前半と洗濯の確認が終わると、今度は軽めの掃除だ。
髪の毛のセッティングまで済ませ、パジャマから汚れてもよくその辺を出歩ける程度の部屋着には軽くチェンジしているが、外出用の服はまだ身につけていない状態である。
まだ皆が二階で寝静まっている頃なので、一階の共用スペースにささっと掃除機をかけていく。
自分の部屋には目立つところに粘着カーペットクリーナーを転がし、それからゴミ箱を大きな方にまとめる。
それが終わると、今度は手早く三角巾とマスク、手袋を装着してトイレ掃除にとりかかる。ついでにこの時備品の在庫チェックも欠かさない。とくにトイレットペーパーは切れると死活問題なので、多目に補充をしておく。
――このあたりで、ゆらりと翠が現れる。
「おはよう、あっちゃん」
「おはよう、透お兄ちゃん」
彼女は油断すると自堕落な寿子夫人とは違い、もう少し前、なんなら透と同じぐらいの時間帯に起きだしてはいるのだが、透がもぞもぞやっている間は貴重な朝の時間を自主勉にあてているか、短い時間を余暇の勝負にあてている。
たぶん、透が起きだしてくる気配がなかったらごくごく自然に橋田家の朝の家事を受け持っているはずなので、さすがのマスター、ぬかりないバックアップ体制である。
台所に翠がやってくると、軽くバトンタッチの時間だ。
透はトイレ掃除を終わらせると、手を綺麗に洗ってから台所をのぞく。
素早い師匠は少し目を離した隙に大体もうご飯のセッティングまで済ませていて、材料を広げている。
「やる?」
「今日は……出かける支度の確認とか、しておきたいかな?」
「じゃ、三十分後に。ゴミは?」
「料理後がいいな」
「わかった、じゃあそっちも今じゃなくて後でやるね」
大分ルーティン化されてきているやりとりは短い。
掃除や洗濯は少しずつルーティン化されて任されるようになってきている透だが、料理についてはまだまだ敷居が高かった。
どの師匠からも、包丁を問題なく握ることができるようになるまでには今少し時間が必要だと思われており、ゆえに時間がある昼や夕方ならまだしも、朝の戦力にはできないのが現状だ。
そこで、師匠の料理の様子を見学がてら手伝うか、その時間はもう部屋に戻って別の勉強等にあてるか、毎日の選択は透の自由意志にゆだねられている。
ちなみに今のところ、透の料理の手伝いとは、もっぱら皿洗いのことだ。ついでにテッシーに鍛えられてシンクやコンロまで綺麗にするので、寿子夫人からは好評である。
今日の三十分、透はスケジュールとTo-Doリストを開き、スマートフォンのアプリで日課の進捗状況をチェックする。
(今日は……レッスンファイブ!)
間もなく彼はイヤフォンを耳に突っ込んで、聞こえてくる音を小さく復唱している。
最近日課に加えた語学勉強だ。と言うのも静華の交流・仕事相手が結構グローバルだったりするので、透自身、語学の必要性を感じての自主勉である。
(お、いいね。ついでに何か資格でも取っちゃえば?)
とは百鬼静華の言葉だ。
彼女は褒め殺しの鬼だが、褒めるついでにさりげなくこちらの退路を断ちつつ難題をとんと目の前に置く飴と見せかけた愛の鞭派でもある。
だが透はやらなくても何も言われない、やるとやるだけ褒めてもらえる環境に進んで奮起していた。
昔、必要性がさほど実感できない間の勉強は、どんなにその場で頑張ったところで時間と共に抜けていく一方だったが、今は学ぶと学んだだけ静華と会話する内容が、世界が広がっていく様子が感じられるのが楽しい。
(就活も、どうしようか……ぼちぼち再開の頃かな。また百鬼さんや勅使河原さんに相談して、後は支援センターで情報を得て……)
そんなこんな、勉強したりこれからの作戦を考えている間にもう時間が来た。
台所に降りて、皿洗いをちょうど終えようとしている翠の横で生ゴミを受け取り、袋をまとめる。
「今日は燃えるゴミの日、と……じゃ、ちょっと出てきます」
「行ってらっしゃい」
さすが家事マスターはこの時間にお弁当、朝ご飯の準備を済ませ、皿洗いまできっかり終わらせていた。
軽い見送りを受けて、透はサンダルを引っかけ、家を出る。パジャマから軽めの室内着に着替えたのはこのためもある。
もはや大分顔見知りになったご近所様と挨拶を交わし、何事もなく帰宅。
ちょうどラジオ体操の時間なので身体を動かしていると、すっかり衣服を整えた橋田家夫婦が顔を見せる。
「おはよう、透ちゃん、あっちゃん」
「おはよう、透、翠」
「おはよう、父さん、母さん」
「おはようございます」
挨拶が済むと、朝ご飯の時間だ。
最近の透は少し早く食べ終わったところで、二階に改めて外出着を取りに行く。食器の片付けから台拭きは慶福氏の仕事にシフトされた。たぶん寿子夫人の戦略勝ちである。
透が身支度チェックの最終確認をすると、慶福氏と共に出勤する。
行き先は勅使河原さん宅か百鬼宅か、勅使河原さんが指定する外部機関だ。
ちなみに二回目の試験をパスして後は、交通費と外食費が出るようになっている。さすが百鬼家、太っ腹である。
今日はいよいよ六月末。しかし今までの二回と違って、今回の透は軽く電車内でチェックはするが、準備不足に青くなることも、必死に直前までリハーサルを繰り返すこともない。
あくまで、自然体。
それこそが老メイド勅使河原が真に求める姿だからである。
「本日は、予告していました通り、百鬼家をあたくしと一緒にお手入れしていきましょう」
試験会場、百鬼の豪邸で待ち構えていたメイドは、受験生が入ってくると早速切り出した。
「お嬢様は夕方帰っていらっしゃいますから、それまでに一通り、プライベートルームの寝室以外の清掃、洗濯、それとお料理の訓練。あとはそう、最後に――ゴンゾウ様のお散歩。これがしっかりできるようになっているか、いつものコースを一周してあたくしに報告してくださいませ」
ごくり、と透は神妙な面持ちで唾を飲み込んだ。
ゴンゾウの散歩――百鬼家特有のルーティンワークにして、透にとっての最大の鬼門である。
人間は透の姿勢を評価してくれるが、動物はなかなか最初の本能の印象を覆してはくれない。
ゴンゾウは未だ透を若干舐めている節があり、散歩途中でリードから自由になったかと思えば勝手に家に戻ってきたり――そういった行動を繰り返していた。
勅使河原さんが、監視にくっついていくまでもなく、あくまで透の自己申告に報告を任せているのは、そのように途中でアクシデントがあると大体人と犬が分離して犬が先に帰ってくるので一目で失敗がわかるという理由と、透が器用な嘘をつけない人種であることをこの短期間のつきあいで重々承知してのことらしかった。
「今日こそは、つつがなくお散歩を終わらせてみせます」
「ワン!」
雑種犬さまの高らかなる吠え声はたぶん、「やってみろや仔犬、返り討ちにしたるわ!」というところなのだろう。
しかし、透だっていつまでも逃げられているばかりの男ではない。
(今日こそは、そう、今日こそは……!)
犬とにらみ合って火花を散らしている彼に、「まずは家の中のことからですよ」と勅使河原さんの冷静な声がかけられた。
「ゴンゾウさん、今日はそう来ましたか……」
午後も大分進んだ頃、透は百鬼家にあと五分という場所で地面に手をついていた。
今日は他のことはうまくいき、料理だって勅使河原さんに、これだったらもうすぐ包丁の本格練習に入ってもいいかもしれないとまで言われ、ちょっと慢心していたのかもしれない。
珍しく殊勝な雑種の顔に完全に騙された。
奴め、三十分の散歩の二十五分まで従順で、残り五分になったところで急にごねだした。
地面に座り込んで、リードをいくら引っ張っても動かず、持ち上げようとしようものなら牙を剥いて唸るのである。
(ううう、あと少しだったのに……)
逃げられるよりはずっとマシだが座り込みをされてもらちがあかない。
大人しく勅使河原さんを呼んで迎えに来てもらおう、敗北宣言するみたいだけどこのままだと近所の人にも邪魔だし変な目で見られて百鬼さんの評判にもつながっちゃうし。
大きく息を吐きながら、スマートフォンを取り出そうとした透ははっとした。
閑静な住宅街を疾走してきた自転車。運転手の髪の明るい学生らしき人物は、スマホを見ながらイヤフォンをしている。そのおぼつかないが洒落にならない速度の足取りの先には――。
「ゴンゾウ!」
そこはさすがたくましい雑種、ぱっと立ち上がるとひらりと優雅に軌道から逃げた。
ところがそこに、庇おうとした透が入ってしまう。
ガシャン。音は鈍かった。
投げ出された透はアスファルトの上に転がり、自転車も倒れ込む。
「いってーなー、なんだよ……」
自転車の主は幸か不幸か軽傷で済んだようだ。
文句を言いながら立ち上がり、倒れる透を見るとげっと顔を引きつらせる。
「うーわ、マジかよ、やっべー……」
透自身の体感では、今は大分当たられた場所が痛いが、転んだときはうまく面をついて衝撃を逃がすことができたし、休んでいれば治る部類の怪我で済んでいると思う。
しかし痛いものは痛いし、擦り傷だってできている。ぐっと唇を噛んで我慢しているのは、口を開いたらうめき声や罵倒やらを上げてしまいそうな部分もあるからだ。
(ゴンゾウが無事で、よかった、けど……)
もう少しだけ、動けるようになるまでには時間がかかるか。その間、ゴンゾウが待ってくれているといいが――。
そんな風に考えていた透の耳に、異音が飛び込んできた。
聞いたこともない、犬の吠え声――それが、ゴンゾウが自転車の主に発しているものだと気がついたのは、身を起こして状況を視界に入れてからだった。
「うわあああああ、やめろっ、離せよっ、畜生め!」
ゴンゾウはなんと大学生に吠えかけていたかと思うと、素晴らしい跳躍力で背中から飛びかかり、首元に噛みついて離さないのだ。透より少し年下ぐらいであろう、彼は完全に狂乱状態になってわめいている。
「ゴンゾウ、ステイ!」
透ははっとして叫ぶ。犬は案外危険な生き物なのだ、相手に怪我でもさせていたら。
彼女は透の声が聞こえた瞬間、ぴりりと耳を動かし、ぱっと口を離す。
どうやらフードにだけ牙を立てていたらしい。やはりこのお犬様は賢いのだ。
素早く透の方まで駆け戻ってくると、周りをぐるぐる回って、愛らしい顔で一声ワンと鳴く。
それが終わると、大学生の方に、一転して般若の狼顔で吠えかかる。
(アタイの子分に何してくれてんのさ!)
普段は全く言うことを聞いてくれないゴンゾウが、この瞬間は明確に透を気遣い、透を害した存在を敵視していた。
じわり、と当たられた痛みも我慢できていた透の目に涙が浮かぶ。
「エスプレッソ先輩いいいいいい!」
泣きじゃくりながら抱きついても、先輩は拒まなかった。
――その隙に、ひらりと自転車にまたがった青年が逃げていく。
「――透君!?」
「透様!」
なおも吠えかかり、追跡しようとするゴンゾウのリードを取ったのは、予定より早く戻ってこられたのだろう、スーツ姿の百鬼静華。
透にかけよって素早く怪我の状態を確認し救急車を呼ぶのは、ゴンゾウの声が聞こえでもしたのだろうか、それとも散歩の失敗を見越して迎えに来てくれていたのだろうか、勅使河原さん。
心強い女性達の増援に、はっと気をゆるめた透の視界がぐるりと回った。
あの後、大げさだと恐縮しながら救急車に運ばれて手当を受けた透は、予想通り、骨折もなくすりむいた傷だけの怪我と言うことで、さほど時間を置かずに解放された。
ただし、自転車相手とは言え一応立派な交通事故である。
何か異変を感じたらすぐ相談するように、と釘を刺されながらの病院退出であった。
警察にも事情を説明する時間がかかって、結局夕方から気がつけば夜である。
テッシー試験の通過(ゴンゾウが庇う仕草を見せただけで十分だ、と勅使河原も静華も合格を出した)祝いと、当たられてドンマイパーティーと言うことで、ちょっとお高めのレストランに連れてきてもらっていた。
帰りは車で静華――ではなく、なんと勅使河原さんが送ってくれるということで、透としては感謝しつつも恐れおののくばかりである。
ちなみにその勅使河原さんは、「頑張ったご褒美ですわね」と今は席を外していた。
晩ご飯が終わった頃にまた、迎えに来るらしい。
「いやもう本当、帰ってきたら事故ってるんだもの。ビックリしたよ」
「ご迷惑をおかけしました……」
「ううん、無事で良かった。それに、ゴンゾウが透君の事をちゃんと仲間だって認めてるところが見られたのも」
静華にいわれて、透も柔らかな表情を浮かべた。
本当に、何なら見捨てられると思っていたので、ゴンゾウの行動にはじわじわとうれしさがこみ上げてくる。隠すように料理に手をつけると、これまたどれも絶品だった。
頬が落ちるようなとろけるステーキにすっかり心を奪われている透に、静華が小さく声をかけてくる。
「透君は……これから、どうするの?」
「どうする、ですか?」
「すごく端的に言うと、まだうちに来るつもりはある? それとももう、これでいいと思った?」
静華の黒い瞳がひたと見据えているのに気がつくと、透の手の動きも自然と止まった。
「……君の言葉で、聞きたいんだ」
室内の落ち着いたBGMが二人の間に落ちる。
透は頬を染め、咳払いしてうつむいた。
「あの、俺は……こんな、ふがいない俺ですが。これからも、お付き合いを続けていただきたく……」
「ホント? 私と一緒にいるのは嫌じゃない? 苦じゃない? 背伸びしてない?」
「せ、背伸びはしているかもしれませんけど。今はここで、頑張ってみたいです」
透がじっと見返すと、静華はつかの間ぽかんと、彼女にしてはちょっぴり間抜けな表情で固まっていた。
それが、花がほころぶようにゆるみ、眩しい笑顔に変わる。
「――よかった」
気のせいでなければ彼女の目元に、きらりと光る何かが見えた。
にわかにどうすればいいのかわからず慌て出す透と、泣きながら笑う静華。
「もう一回乾杯しよう、透君」
「えっ、ええっ――」
「ほら、早く」
「あっ、はい!」
――まだまだできないことも知らないこともたくさん、前途多難の花嫁修業は続くけど。
「お疲れ様、透君。これからもよろしくね」
ノンアルコールのグラスが二つ、小さく高らかな音を立てる。
「ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」
ひとまず、彼は確かな手応えを一つ得て、彼女に明るく素直な笑みを返すのだった。




