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自由は不自由

 ふらふらと家路を歩む足取りはおぼつかなく、頭はぐわんぐわんと耳鳴りに悩まされて意識がもうろうとする。





 脳裏にに浮かぶのは、先ほど、昼飯を食べながら本日の中止を告げられたときの断片的な様子だ。


「俺……不採用って事ですか……?」

「いいえ。今回の試験は、中止というだけでございます」


 呆然として、あやうく箸も取り落としそうになったトオルに比べ、勅使河原さんと静華シズカの様子は落ち着いていた。


勅使河原てしがわらさん」


 声をかけられると、勅使河原百合恵はつと目の前の透をあの強い眼光で射貫く。


「橋田透様。あなたは今、幸せですか?」

「え?」

「幸せでなかったから、お仕事をやめたのでしょう」


 透は動けない。確かに言われた通りだと思うのだが、咄嗟に頷くことができなかった。老メイドはいつの間にか素早く牛丼を平らげており、音も立てずにスプーンを置く。


「――テストを課しておいて何を、と思われるかもしれませんが。

 透様、家事が万能なだけの人間なら、あたくしはお嬢様にさほど必要ではない人間ではないかと思っています。だって、すでにあたくしがおりますもの。……おわかりいただけまして?」


 食後の茶をセルフサービスで入れた勅使河原は、口元を潤しつつ続ける。


「世の中にはたくさんのプロフェッショナルがいらっしゃいます。たくさんのサービスがございます。

 食事が作れないなら買えばいい。

 掃除ができないなら業者を呼べばいい。

 洗濯ができないならクリーニングに出せばいい。

 家計ができないならソフトに頼るなり、専門家に相談するなりすればいい。

 家事ができないなら家政婦を雇えばいい。

 今は昔よりとても便利な時代になりました。

 そしてあたくしには、お嬢様には――十分、何かをしてもらえるための準備はできている。

 身も蓋もなく申し上げてしまいますと、お金を持っている人間は、生活に不便することはないのですよ」


 黙って聞き届けるしかない透はもちろん動けるはずもない。

 静華は勅使河原の言葉にちょっぴり不満そうに眉を寄せる部分もあったが、今は自分が口を挟むべきではないと判断しているのか、やはり黙ったままだ。


 誰かの時計の秒針がチクタクと進む音が、沈黙が落ちると嫌に大きく響いて聞こえる。


「透様。あなたがどれほど今のままあがいても、おそらくあたくしを越えることはないでしょう。

 あたくしは生きてきた時間が、誰かの世話をすることに捧げてきた時間が違います。

 経験が全てとは言いません、お若い分、あなたはきっと流行や変化に敏感で体力もあって、その部分はあたくしがどう頑張ってもかなわない所なのかもしれません。

 だけどあなたはあたくしに敵わない。

 あなたがあなたにとって苦手な、そしてあたくしにとっては最も得意な分野で勝負をしようとしているからです。

 ――橋田透様。

 あたくしはお嬢様にとってふさわしいか見極める、と言いました。

 あなたはこの先、どんな自分でいたいのですか。

 そこにお嬢様はいらっしゃいますか」




 ため息を吐き、電車のドアにもたれかかる。


 スマートフォンが震えると、アキラの返信が来ていた。

 テストが駄目だった旨、意気消沈している旨、少し頭を冷やしたい旨を端的に伝えたわけだが、彼女はなんというのか。


「わかった。夜遅くなるようなら気をつけて」


 上司は今日も、厳しくも優しかった。

 羽を伸ばすことを許可しつつ、自暴自棄にはなるなよとほんのり釘を刺してくる。


 苦笑でゆるんだ視界が、じわりとにじんだ。



「透君。やめたかったら、いつでも言ってくれていいからね」


 これ以上ないほど情けない醜態をさらし、ファストフード店を後にする年下の無職男に、彼女もまた、あくまで厳しくも優しかった。


「でも、君が頑張りたいって言うなら、私はそれを応援したい。君は昔の私だから。

 また、気が向いたら連絡して」


 静華という女性は、ぐいぐい来たかと思うとさっと距離を取ってしまう。

 あくまで最終的には透自身が動くことを促しているのだ。


 ――彼女だけではない。勅旨河原も、翠も、最終的には透がどうしたいのか聞いてきている。


(不自由な、思い通りにならない毎日が、嫌だったはずで。

 だけど自由になってみれば、こんなにも重たい。

 これはきっと責任の重さだ。

 変わりたいと思って会社を辞めた俺は、きっとこの重さになれていかなきゃいけないんだ……)


 だけど、急にそうなれそうはない。


 言われるがまま生きてきた時間は長かった。言われたことをするだけで褒められた日々は楽だった。


 ところが社会に出てみれば、一転して従順で自主性がないことを責められるようになった。


(大人って、大変だ……)


 大きな息を吐きながら、目を閉じる。


 しばらくそうして暗闇の中、電車に揺られるままになっていると、ふとまぶたの裏に暗いバーカウンターが浮かんだ。


 就業時代、煮詰まったらいつも逃げ込んでいた、安全な隠れ家。両親にも翠さえも教えていない、彼のとっておきの場所。


(――振り出しに、戻ってみようか)


 一日中、朝からげっそりしていた透の目に、少しだけ光が戻ってきていた。

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