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テッシーの試験 ブレイク!

 調子の悪いトオルを見て気を利かせた静華シズカが鞄を肩にかけて颯爽と出て行った後、勅使河原てしがわらさんの眼光に照らされ気まずい空気の中、そうぼやいてばかりもいられないので、受験生はノロノロと作業を開始する。


 この一ヶ月間、たくさんのメモを書き込んできた小汚いノートを広げながら、改めて自分に課された題目を確認する。


 To-Doリストの確認。主婦にも社会人にも共通する必要事項だ。

 勅旨河原てしがわらさんに言われたことは、掃除、洗濯、昼ご飯、買い出し、お散歩――。


 書き出してみたところで、はたと止まった。


(……散歩って、いつ行けばいいんだろう?)


 その辺りの勝手は飼い主に聞けばよかったのかもしれないが、さっきの自分の早速のポカに頭を抱えたくなる。


 落ち込んだ気持ちのママ振り返ると、ご主人に置いていかれたゴンゾウ先輩は、六畳一間の畳の上で、おみ足でかいかいと顔をこすっている最中だった。


 無駄にくよくよ頭を回す人類と違って、畜生はのんきなものである。


「ワン!」


 透と目が合うと、気合い入れるんだよ後輩! とでも言うかのように、一声吠えられた。


 萎縮モードになっている透には、この声援はどちらかというと重荷になったようだった。


「どうかなさいましたか?」

「い、いえ……」


 勅使河原さんに声をかけられると、受験生はびくっと身体を揺らす。今日も今日とてメイド服に身を包んでいる怖い試験監督を視界に入れたその時、しかしはたと思い当たることがあった。


 ゴンゾウの散歩のことについて、彼女に聞いてみてはいけないのだろうか? 


(……いや、でも。試験監督に、試験のことを聞いたら、駄目だろう)


 では、ゴンゾウの事はきっと飼い主である静華に聞くのが一番だ。


 スマートフォンならいつも通り、ズボンのポケットにしまわれている。取り出して、文を打って、送信する。それだけのこと、なのに。


「橋田透様」

「――すっ、すみませんっ! 今、今やりますっ!」


 硬直していたところを、勅使河原さんに二度目に呼びかけられて、透はポケットに突っ込んだまま動かせずにいた手を慌てて引っこ抜いた。


(お昼――そう、お昼にでも、聞けば、いい。きっと――)


 ばくつく心臓をなだめながら、誰に聞かれてもいないのに言い訳をする。


 そんなこともわからないのか。

 高学歴のくせに。

 優等生じゃなかったの?


 かつて投げかけられた言葉は透の胸の奥深くに突き刺さり、彼の喉をすっかり閉ざしてしまっていたのだった。




 橋田透は一ヶ月間家事について学んできた。だから、もたつきながらも最初は動き出す。


 まず、時間の都合上一番最初にやらなければいけない洗濯物にとりかかろうとして、彼はうっと詰まった。


 おそらく試験用にだろう、勅使河原さんの用意した洗濯コーナーには、無難な普段着の他にいかにも高価そうなお洒落な婦人服、それから染みがべったりついた白いエプロンが放り出されている。


 透にパッと洗い方がわかるのは最初の普段着だけだ。


 エプロンの染みは、染みの取り方なら一応母である寿子としこ夫人から習っているものの、正直かなり頑固そうな汚れで、それなりに根気のいる作業であることが推測される。


 お洒落な婦人服に至っては、おそらくネットに入れて洗濯機のモードをそれ用にすればなんとかなるのではないかと思うが、自信がない。


 なぜなら寿子夫人は本当のお洒落服はクリーニングに出してしまうから、自宅での洗い方なんて教えてもらっていない。


 だが、こうして洗い場に無造作に出されていると言うことは、これも課題の一つなのだろう。


 どうすればいい。どうするのが正解なのか?


 ――迷っている間にも時間は過ぎていく。

 ちなみに洗濯機にもさりげなく難題の一つがまぎれており、片方が洗濯専用、片方が脱水専用といういわゆる二層式構造をしていたのだ。現代っこの彼はしばらく仕様がわからずフリーズした。


 透は仕方なく、わかるものを素早く放り込んでなんとか回し、腕まくりして染みに取りかかる。


(ええと、染み取りに必要なのは、洗剤と、タオルと、歯ブラシと……これ歯ブラシどころの騒ぎじゃないぞ、ミートソースひっくり返したのかな!?)


 心中の絶叫はともあれ、とにかくやるしかない。


 しかし、地道にやればとれはするものの、範囲が広くて時間がかかる。


 そうこうしているうちにすっかり洗濯槽第一弾が終わって、急いで脱水槽に移せば、早くも無情にあと一時間程度で正午である。


 漂白剤とともにあらかたなんとかしたエプロンを洗濯槽に放り込み、脱水が終わったものを干し始める。


 ……干し方がわからないものもいくつかあるが、圧倒的に時間が推しているのでもはや四の五の言っていられない、妥協だ。


 なんとか日の照っているうちにベランダに金属製の洗濯ハンガーを出して、お次は掃除に。


 と思ったら、畳の掃除の仕方を知らない。


 橋田家はフローリングの一軒家だ、畳が床の間取りはない。


 いかにも年季が入っているか中古品な掃除機をかけるだけでいいのだろうか。


 そしてこの掃除機、吸引力に割と問題がある気がするのだが、これは透のかけ方が悪いのか、掃除機の元々の性能の限界なのか、中のゴミを変えるべきなのか。


 ――唸っていたらアラームが鳴った。


 絶望の十二時である。


 To-Doリストを見ると半分も、というか実質一つも終わっていないのではないか。


 テッシーを見るのが怖い。どんな般若の顔をしていることだろう。


「無理に全てをこなす必要はございませんよ」


 ――と、思っていたら、掃除の途中でメモを持って震えていた駄犬(犬ではない)に思いがけず優しい声がかかる。


「えっ。で、でも――」

「ランチに参りましょうか。出前を取るのでも、お弁当を買ってくるのでも構いませんけれど、どれがよろしゅうございましょう?」

「……だ、だって。お昼ご飯、用意、できないと……」

「あたくし、準備をしてください、とは申し上げましたけど、作ってください、とは一言も申しておりませんことよ」


 思わず勅使河原さんの渋い顔をまじまじと見つめてしまう透である。


 オールドミスは素早くポケットからスマートフォンを取り出すと、フリック操作を素早く終える。


「さ、お嬢様とも合流して、少々気晴らしと参りましょう。あたくし試験監督ですからあまりヒントは差し上げられませんが、これ以上意地悪をするつもりはなくってよ」


 微笑まれても、さっと笑顔を返せない。

 ぎこちなくつり上げようとした頬が失敗してきしんで、へにゃりと下がった。




 ランチは結局、近くのファーストフード店で住ますことになった。


 ゴンゾウも一緒にお出かけと思いきや、なんと家で留守番だった。


 曰く、一緒に立ち入れない店は入り口につないでおくのがマナーとして正しくない場合が考えられるのと、物騒な昨今、飼い主の目が届かない場所につないでおくと勝手に連れて行ってしまう人もいるのでその対策なのだとか。


 普通に買い出しに連れて行ってそのまま店の前につなぎそうだった透なだけに、身が引き締まる思いである。



 静華は休日わざわざ応援しに来たのを追い出されたことも待たされた事も大して気にしていないらしく、透がさらに恐縮するほど優しく明るい笑顔を向けてくる。合流すると、いかにもお嬢様、物珍しそうに安物チェーン店の内装を見回している。


 一方、勅使河原さんが券売機を慣れた手つきで操作し、ささっとトッピングまで足しているところがシュールである。


 勅使河原さんの格好も大分シュールで人目を集めているのだが、そこは気にしたら負けだ、と全力で意識の外に追い払うことにする。


「透君、どう? 勅使河原さんにいじめられていない?」


 大盛りの安牛丼を前に上機嫌そうな静華に、透はおずおずどもった返答をした。


「あっ……その、色々と、終わってなくて……」

「ああ。ゴンゾウの散歩もまだ行ってない?」


 何気ない一言が、ずぶりと一際大きく胸を抉った。


 ――これだけ時間をかけておいて、まだ終わってないの? どんだけ能力低いの?

 ――マニュアル通りにするだけのことがなんでできなんだよ、無能。


 視界がぐるりと回る。耳鳴りがする。胸が苦しい。


「――様。橋田透様」


 身体を揺すられる感触にはっとした。


 気がつくと、テーブルに突っ伏しかけていた透のことを、向かい側から勅使河原さんが支えている。


「大丈夫? 透君」


 その横から、いかにも心配そうに静華ものぞきこんでいる。


 透がその声に、なんとか表情を取り繕って応じる前、静かな勅旨河原さんの言葉がすっと入ってきた。


「ここまでで結構です」

「……え?」

「結構です、と申し上げました」

「勅使河原さん?」

「今日はここまでで十分でしょう。これ以上の試験には、意味がありません」


 静華も透も絶句する前で、勅使河原さんはささっとプラスチックの箸を取り出し、人数分配ってから手を合わせた。


「まずは腹ごなしと参りましょう。目が回ってしまうのは、そのせいでもあるのでしょうから」


 歴戦の老戦士と言った風体のメイドの表情は、若造共にはさっぱり読み切れない静けさをたたえるのみだった。

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