お掃除しましょ! 窓ふきそれから
「掃除も洗濯も一緒。汚いところからやっていくのが一番効率がいいのよ。だから窓ふきは、網戸、外側、内側の順番でやっていくと一番綺麗になるわよ」
「なるほど!」
「たぶん」
「すっごい自信満々に言っておいてたぶんなの!?」
「まあまあ。網戸は最初に掃除機で吸うのがおすすめよ。それから水雑巾で拭けば――あっごめん! 久しぶりだからうっかり忘れてたわ。少しだけ待ってー!」
透がふむふむと納得しながら家電の力に頼ろうとした直前、母は再び待ったをかけつつ、慌てて奥に走って行く。ずっこけた長男は、半眼になって段取りの悪い伝道者を見守った。
「今度は何……ねえ、本当に何するのそれ!?」
ぱたぱた走って帰ってきた寿子夫人が手に持ってきた物を、透は思わず二度見する。
彼女が右手に携えたる新たな掃除グッズは、なんと新聞紙だ。気のせいでなければ、もう片方の手に養生テープも見える。網戸の掃除ではなく、補修でも始めようと言うのだろうか?
「透! この新聞紙をね、この新聞紙をね」
「はい、もったいぶらなくて結構ですから本題をどうぞ」
「網戸に貼るのじゃ。網戸の外側いっぱいに、貼り付けるのじゃ」
「……えー?」
「いいからやるのじゃ! 母の命ぞ!」
「お、おう……ところでそれ、何キャラなの……?」
主婦に指示され、長男は釈然としない思いを抱えつつも網戸の外側に新聞紙を設置した。
終わって手招きされるまま室内に帰ってくると、寿子夫人が掃除機の先端を渡してくる。
「じゃ、よろぴこ!」
「……えーと。このまま、新聞紙つけたまま網戸に掃除機かけるってことで、いいの?」
「うむ。そうするとね、そのままやるより吸引力が強くなって、汚れを吸い取りやすくなるのだそうな」
「伝聞調」
「いいからやりたまえ、母を信じるのだ。母は嘘をつかぬ」
「四半世紀生きてきて何度も騙された記憶があるんですがそれは」
「錯覚じゃ。今の母を信じるのじゃ」
「はいはい……」
反骨精神たっぷりな橋田家次男、充ならここでいつまでも食い下がっただろうが、温厚で従順な長男は言われるがままリビングの網戸に挑む。
やっている最中は、従ってはいるものの思いっきり半信半疑な表情だった。
しかし、雑巾拭きまで済ませてから新聞紙を剥がしてみると、思わず歓声を上げてしまう。
「おおー! なんかさっきより、明らかに網戸が明るくなっている! 気がする! 元が汚いから違いが顕著なんだね、きっと!」
「一言多いわよ! でも綺麗にしたから許すわ!」
「そういえばさ、俺が前にやったときは、普通に網戸も雑巾拭きだけして終わってたような気がするんだけど?」
「ネットで最近知ったから試してみたかったのよう。新聞紙貼るのがちょっと面倒だけど、掃除機だけで網戸の掃除が済むなら大分手間が省けるもの」
橋田家の主婦は長男の素朴な疑問に、悪びれずしれっと答えた。
透はてっきり彼女の数十年の叡智の賜な技術の数々を伝授されているのだとばかり思っていたが、どうも新しい労働力がタダでこき使えるのをいいことに、新作の実験台にもされているらしい。
そういえばこの人、いつ何時でもフロンティア精神を失わぬ剛の者だった、青汁ミックスジュースの生みの親だった、と目を遠くしつつも、何もわかっていない初心者は結局経験豊富な先輩に従うほかない。
幾多の犠牲の上に人類は経験を積み重ね、進化してきたのである。臆してはいけない。テッシーの試練を乗り越え、静華の主夫となるためには、これしきの困難、踏み越えていかねばならぬのである。
と、若干の不安を抱えつつではあるものの、寿子夫人の掃除講義は、青汁ミックスジュースとは違って良心的な範囲に収まっていたため、なんとかなりそうだった。
「窓の外側の汚れは主に風や雨で飛んできた土埃、泥、そして花粉! だから、基本的には濡れ雑巾で拭けば、大体綺麗になるわ」
「じゃあ、外やるときは、洗剤と乾き拭きは飛ばして大丈夫?」
「ノンノン。洗剤は飛ばしてもいいが、乾き拭きはしっかりしてくれたまえ。水拭きのまま放置すると、後がついてしまうのだよ」
「ふむふむ……」
「外側が終わったら、ほら、内側から見てみたまえ! 綺麗になると、内側の汚れにも気がつきやすくなるでしょう?」
「なるほどー!」
「内側の汚れには、洗剤を忘れないように。何故かというと、窓の内側の汚れは、埃に加えて台所の油や手垢等の油脂成分由来だったり、湿気由来のカビだったりするのだ」
「外の汚れより頑固ってこと?」
「そうともー。覚えておくのじゃ、透よ。油汚れは水では主婦の敵、水で挑むと基本的に倒せぬ強敵。故に、洗剤様のお力を借りるのじゃ」
「なんか昔高校の授業の化学と家庭科でやったような……」
実践に加えて知識や小ネタの話を挟みつつ作業を進めていくと、学ぶことは多い。手慣れていないせいもあって、あっという間に午前の時間は過ぎていく。
合間に洗濯物を追加で干したり、お昼の準備を入れつつ、透の一日目の仕事は順調に過ぎていく。
「結局、午前は洗濯物干して、家中の窓に挑んだだけで終わった……」
「うんうん、やっぱり窓が綺麗だといいわねー! 透は仕事が丁寧だから。でも、毎日これだと大変だから、後で力の抜き方も覚えていきましょうね!」
「うん……いただきます」
昼ご飯のメニューは、お弁当と同じ冷凍食品由来の総菜二つ、モヤシのナムル、チンゲンサイの炒め物に白身魚、椎茸と豆腐のスープに白米であった。
本日午後から主婦友と一緒にスポーツクラブに通う約束な予定の寿子夫人は、透と一緒に食べながら今後の予定を口にする。
「午後はあたしはいつも通りスポーツクラブに行くけど、あんたは来ないわよね?」
「まあ、うん……」
「そうしたら、午前中結構頑張ってたし、別にのんびりしててもいいけど、簡単なことだけ頼んでいい?」
「待って、それ、いくつかある?」
「えーと、あれでしょ、これでしょ、それでしょ……」
「タンマタンマ!」
慌てて透は喉を叩きながら食卓を立ち上がり、急いでメモ帳とペンを持って帰ってくる。
一応息子の準備を待ってくれはしたものの、寿子夫人はマイペース人間だ。彼がまだ食べ終わっていないことには特に配慮してくれる様子はなく、ささーっと言葉を流してしまう。
「まずはそう、洗い物ね。食べ終わったら食卓の食器を流しに持っていって、水でささっと表面を流してほしいの。それから、コーナーの生ゴミを捨てて、ゴミの網を変えて。それだけでいいから」
「えっと……洗剤使って洗って、乾燥させたり、とかは」
「あたしが見てないときにいきなりやらせるの怖いからやめて。
あとね、十四時になったらまずは布団を取り込んで。で、できそうなら布団に掃除機をかけて。その時掃除機の口を、ローラータイプに変えて。布団はあれでやるって決めてるから」
「布団と、ローラーと……」
「で、十五時か十六時、日がかげってきたら洗濯物の方も中に入れて。取り込んで畳むのは……いいわ、お母さん帰ってきてからやるから」
「洗濯物を取り込む……」
「あと、家のリビングとか廊下とか、共有スペースの空いている箇所でいいから、掃除機かけといて。
一つだけ伝えておく掃除機のコツは、早くさっさとやりすぎないこと。ゆっくりかけるのよ、いい?」
「ゆっくり……」
「あらやだもー、透に構ってたらもーこんな時間。じゃっ、お母さん、準備しなきゃいけないから、バイ」
「ちょっと!?」
寿子夫人は自分の言いたいことを全部済ますと、素早くうがいと歯磨き、着替え、化粧などを済ませ、片手に運動着を入れた稽古バッグをひっさげて風のように家を駆けだして行った。
橋田家には一人、未だお昼ご飯を食べ終わっていない透と、寿子夫人がつけっぱなしにしていったリビングのお昼のテレビのみ残される。
「……ごちそうさま」
珍しく、家で一人の昼食を済ませてそっと手を合わせることになった後。
いよいよ、透にとって初日最難関の試練――一人で家事にチャレンジ、の時間がやってきたのだった。




