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第七話「遅春」

(さて……)


 ようやく決心がついたのか、パンパンと自分の頬を叩き大股で部屋を飛び出した張飛を見送って、関羽は誰もいない部屋でただ考える。運命とはただ定められるまま、流れるままに起こるものではない。たった一人の行動一つ、言葉一つでも大きく変わっていくものなのだ。だからこそ覚悟を持たねばなるまい、受け入れる為に。


(あとは、お前たち次第だ)


 運命の歯車が、今動き出した。





 玉華が暗がりの中、(ベッド)で横になっていると、部屋にずかずかと張飛が入ってきた。仰天して起き上がる間も無く、玉華の隣に寝転がろうとする。


「!!!」


 やめて下さい、と声を上げようとする口は、大きな手で塞がれる。緊張と恐怖で全身を固くしていると、


「何もしやしねえよ」


張飛の声が降って来た。震えが治まったのを確認して塞いでいた手を外し、彼女の身体に腕を回す。


「もうこんな夜は来ねえかもしれないからな」


 そう呟く張飛に戸惑い、玉華はただ力を抜いて受け入れる。


「雲長殿は、私が帰れるよう貴方を説得するとおっしゃいました」

「そんなこと言いやがったのか、あの野郎」

「あの人は、何と」

「玉華をものにしたきゃ、心までそうしろ…だと」

「……」


 顔をそっと横に向けて見ると、張飛は天井を睨んでいる。何となく、玉華も視線を上に向ける。囚われている状況が恐ろしくて、帰してもらえないのが悔しくて、家族にもう会えないと思うとたまらなく悲しかった。それなのに今、その原因を作った張本人に抱かれているのに、そんな気持ちはなれない。こうして腕の中にいて、言葉を交わすことさえ自然になっている。


(不思議……)


 自分にとって、この男は何なのだろう。何よりも、誰よりも大切な、絶対の存在は伯父。この張飛ときたら、そんな伯父とは正反対の印象ばかり。残虐な野蛮人のようでいて、一方で人間臭くて憎めなかったりと、良いのか悪いのか。それに対する玉華の気持ちも、好きなのか嫌いなのか自分でもはっきりしない。いっそ自分を伯父たちと引き離した大嫌いな悪人だと決め付けられればいいのに。そうすれば、逃れられる。そうすれば、大好きな人たちの元へ帰れる。


(それ、なのに……どうして)


「お前って、何なんだろうな」


 張飛が、今自分が考えていることと同じことを口にした。


「ちっとばかりいい女だと思って持って帰ってみれば、まだ世間も知らぬガキときた。おまけに暗いわ無愛想だわ頑固だわで…未だに俺にビクビクしてるしよ」

「益徳さんに出会う前は、そうでもなかったですけれど」


 何となく切り返した一言が憎まれ口と受け取られたか、頬を抓られた。


「痛っ」と声を上げたが、手加減しているので思った程ではない。


「取り柄なんて、家柄ぐらいだと思ってた。俺は名門の生まれにずっと憧れてたしな。だから…お前の夏侯家の血に惹かれているんだと、今まで…」


 らしくなく段々小さくなる声を不審に思い、顔を張飛に向けた途端、激叫が飛んできた。


「あ――!! 畜生、俺は女なんて平気で捨ててこれたはずじゃねえか!! 何でこんな面倒臭えガキ一匹に振り回されてるんだ、くそォ――ッ!!!」


部屋がビリビリと響き、至近距離で喰らって硬直する玉華を抱きしめたまま、張飛は空いた手で顔をバリバリ掻き毟る。しばらく深呼吸を繰り返していたが、やがて落ち着いたのか置き上がって(ベッド)の上で胡座をかいた。その改まった様子に、玉華も置き上がる。


「……玉華、聞いてくれ」

「はい?」

「お、俺の……俺の妻になってくれ」

「前にも聞きました」

「いやっ、違う!お前…夏侯淵が忘れられねえんだろう?…で、妻になるんなら」

「忘れろ、と…?雲長殿にも言われました」

「そうじゃない!お前にとってどんなにあいつが大事か分かってんだ。だから忘れたくねえんだったら俺は別にそれでいい」

「そう…ですか」


 いまいち張飛の伝えたい事が見えてこなくて首を傾げる。必死にこちらを凝視してくるが、これ以上何を察しろと言うのか。


「最初はお前のこと、無理矢理にでも手に入れようって思ってたんだが。雲長の奴が、全面的にお前の気持ちを優先させるって言ってきやがった。正直、耳も貸したくねえんだが、ここんとこ…仕方ねえって思い始めてる。力ずくで物にした所で、いずれ壊れちまうのは見えているからな。今までがずっとそうで……だけど、嫌なんだ」

「?」


 何が?という表情で玉華が見返すと、暗闇の中で張飛の顔は墨を噴いたようになり、腕でゴシゴシ擦ると仕切り直した。


「お前を手放したくねえ。俺の元を去ると考えたら、ムシャクシャと同時にそれを窘める自分もいて、心がおかしくなっちまったみてえに苦しいんだ。けど、この先暗い顔して心を閉ざしたお前も見ていたくねえ。笑っていて欲しいんだよ。そのために……」


「帰りたいか」という言葉を飲み込む。こんなことを言えば、玉華は頷くに決まっている。ここに留めることは結局彼女を拘束すると感じながらも、張飛は意地でも譲りたくなかった。それなのに、あからさまに引き止める言葉はどうしても出てこない。

 一方、玉華は張飛の嫌に遠回りな主張に、さすがに彼の言おうとすることに気付いていた。


(でも……)


 正直、玉華も迷っているのだ。自分の信念としてきたものは揺らぎ、示されていた道は閉ざされた。玉華は今、初めて自分の人生というものを自分で決める局面に立たされている。そしてお互いに鍵となる言葉を持っているはずなのに、どちらも踏み出せないでいる。


「私は、貴方が思うような無垢な子供ではありませんよ」


 不意に、何もかもぶちまけたらどうなるか気になって、玉華は幼い頃からの秘密を口に出していた。張飛からの視線を感じる。聞くつもりなのだろう。


「人を殺した事があります。その肉を食べた事も……

私が生きているのは、その贖罪のためなのです」


 張飛は殺すはずだった関羽の妻を生き永らえさせた。自分には、できなかった事。それを知った時に湧き上がったのは、歓喜と憧憬と、僅かな嫉妬心。


「殺した事を後悔するなら、そりゃ傲慢ってやつだぜ。この時代、食うか食われるかが当たり前なんだ。俺が金定と孟均を殺さずに済んだのだって、運が良かっただけだ」


 殺しなんて、誰でもしていると張飛は言う。けれど玉華は許しが欲しいわけじゃない。傲慢だろうと殺したくなどなかった。誰が何と言おうと、玉華が自分を許せない。


「他の人の事なんて知りません。私にとって……伯父様が特別なんです。私のために、背負わなくてもいい罪を背負ってくれた、あの人が……生きろと言ってくれたから。

夏侯妙才が死ねと言うならば、私は喜んで死にます。だから何があっても、私は死ねないんです」

「……」

「こんな私で、がっかりしましたか?」


 こんな暗くて重い女、真っ平御免だと。言った瞬間、玉華は自由になる。そう思ってから、玉華は自分で決めるべき事を張飛に委ねている事に気付いた。答えによっては、思いもかけない方向に話が転がると言うのに、それでいいと思い始めている自分に戸惑う。

 にやり、と暗闇の中で張飛が笑う気配がした。


「いいや、お前は面白ぇ女だと思ったぜ」

「何がですか」


 今までの苦しみを笑われているようでムッとなる。山賊だから、人殺しなんて何とも思わないのか。それとも散々口にしてきたように、名門の娘ならば何でもいいのか。しかし玉華の憤慨など、張飛は簡単に吹っ飛ばした。


「そりゃあ……惚れた女の事なら何だって面白いだろ」


「……は?」


 何を言っているのか理解できず、玉華は思わず間抜けな声を出してしまう。いや、意味は分かるのだ。張飛が出した単純明快な答えも、らしいと言えばらしい。ただ、自分に対してそう言い出したのが信じられないのだ。


「ぐだぐだ考えるのは、もうやめだ。惚れてなきゃ攫ったりもしねえし抱きたいとも帰したくねえとも思わねえ。……一目惚れなんだよ」


 名門だから欲した、という言い訳を、張飛はここで切り捨てた。玉華は生まれて初めて、男から女として愛を告げられた事に動揺する。あの、張飛に。どうして自分が、と混乱するも、理屈はないのだと言われてしまえばどうしようもない。


「こんな私で、良いんですか」

「良い」

「例え益徳さんの妻になったところで、伯父様を忘れる事はできませんよ。私にとっての一番は、今もこれからも夏侯妙才です」

「ああ、妙才の野郎の姪としてのお前で良い」

「……っ」


 涙が出そうになり、強く唇を噛む。血の味が口の中に広がり、臭いがあの頃の記憶を揺り起こす。真っ赤な、赤ん坊。頭にそっと乗せられた、伯父の優しい手の平。

 もう、いいと思った。そこまで想ってくれるのならば、この手を差し出してもいいだろうかと。ただ頷く前に、一つだけ聞いておきたい事がある。


「私は、この乱世を生きられるのでしょうか……貴方と共にいて」


 従妹の事を抜きにすれば、玉華は自分の命など軽いものだと思っている。正直、野垂れ死のうと構わないと思っていた。実際関羽から脅されて命の危険が迫った時は思わず伯父の名を呼んでしまったが、やはり生死の選択を他人に委ねてしまうところは変わらないのだ。

 即答されるかと思いきや、張飛は少し難しい顔をした。


「絶対にお前を守れるとは言い切れねえな…こんな生き方だし、逃げてる最中は常にお前に気を配る余裕もねえ。そのくらいなら俺は、兄者の方を取るしな。

…けど、お前に死んで欲しくねえってのも妙才の野郎と同意見だ。殺すのも見捨てるのも嫌だ。だから……」


 そこで言葉を切り、玉華は抱き締められていた。張飛が大柄なので、その胸にすっぽり埋まってしまう。息が止まったが、背中に回された手から震えが伝わり、まるで叱られる寸前の子供のようだと思った。


「俺の側まで、お前が来い。噛り付いてでも生にしがみ付け。妙才のためでも贖罪のためでも何でもいい……俺に惚れてくれ」


 強引な物言いとは裏腹に、その声は途方に暮れていた。悪評などどこ吹く風と言った振る舞いの張飛が、玉華に嫌われる事に恐れを抱いているようだった。


(ああ……)


 玉華は急激に、張飛を抱き締め返したい衝動に駆られた。この鬼神のような武将にも、恐いものはあるのだ。いや、戦いにおいて足を取られかねない、色恋だからこそ恐いのだろう。だがそれでも、玉華を離さない事を選んだ。これから劉備たちにとって厄介な存在になるだろう玉華を、妻として迎える覚悟をしたのだ。


(だったら、私は)


「私は、益徳さんが好き」

「!!?」

「……かどうかは分かりませんよ」


玉華の答えに目を見開いて固まりかけた張飛は、続きを聞いてばったり倒れた。


「何だよ、これ以上ないってぐらい好い雰囲気だったじゃねえか……まあいい、これから惚れさせるさ。いつか妙才の野郎だって追い越してやる」

「惚れるとは思えません……だって益徳さんの前に、私は私が嫌いだもの」

「お前は本当に面倒臭えな!」


 いくら好きだと言われても、理解できない。自分の事が許せないのに、その隣に立とうとする張飛の事を好きになれるものだろうか。玉華は夏侯淵を想う。


(貴方の娘を殺しても…貴方の敵となっても…私は私ですか? 己の幸せの為に、有り続けても良いのですか?)


「そんなに魅力が分かってねえなら、人生かけて教えてやるよ。玉華って女に、俺がどれだけ惚れちまってるのかをな。お前もさ……生まれちまった以上、生きてくしかねえんだから。ぐだぐだ言ってねえで、どうせなら得なやり方で楽しんじまえ」


 ぐしゃっと乱暴に頭を撫で回す手は、伯父と同じく大きかったが、全然違う男の手だ。玉華の凍り付いた心が、熱いもので満たされる。


(生まれた以上…生きていく以上、有るがままに…)


 ようやく、長い長い眠りから覚めた心地を味わった。過去の罪、現在の想い、全て背負って生きていく。果てしなく辛いことでもあるが、きっと死ぬ時に幸せだったと思い返せる。その為に、生きていたい。自分が信じると決めた道を…


「もう一度考えます。これから……」

「うん、兄者が到着するまでたっぷり時間はあるからな」


 頭を掻きながら苦笑いし、敷布をかけてやる張飛に、無意識に玉華の唇が綻ぶ。


「……ゴホッ」

「?」


 不自然な咳払いをすると張飛は牀から降り、部屋を後にした。





 玉華は、夢を見ている。

 夢の中で雪が降り積もり、辺りは銀色に包まれていた。

 雪の中で誰かが泣いている。

 よく見ると、それは幼い頃の自分だった。

 手を真っ赤に染めている。

 動かない赤ん坊を抱えたままで。


『しねばよかった。わたしが、かわりに…』


 玉華は玉華と向かい合う。


『しにたい、しにたい、しに・・・』


「ごめんなさい」


 玉華がはっきりと言葉にした。


「私は、生きたい。苦しくても生きていたい」


 玉華は玉華に一歩ずつ近付く。腕を伸ばせば届く距離まで来た時、二人は同じ背の高さになっていた。鏡に写る自分自身のように。玉華は向かい合わせの自分を抱きしめる。胸の奥を掻き乱されるような痛みが襲う。知らず、涙が零れた。


「これから生きていこう、ずっと」


 ぱっと雪が花弁のように飛び散る。銀色の世界は風によって吹き崩され、暖かい光を感じた。そして、気付けば腕の中の少女はいなくなっている。


(さようなら……)


 紡がれた別れの言葉は、誰に言ったのか。

 そして――





「皇叔がお出でになられました!」


 翌朝、部下の知らせに、張飛と関羽はいても立ってもいられず、外に飛び出す。その後を劉備夫人や関羽の家族らと共に、玉華はゆっくりと付いて行った。自分でも驚くほど落ち着いている。まるで、波紋のない水面のように心は静かだった。


「雲長、益徳!健勝だったか」

「兄者…いや、ご主君!お会いしとうございました」


 再び会えた主従は固く抱き合い、互いの無事を喜び合った。新しい家族を一通り紹介した後、拝謁してきた孟均について劉備に尋ねられた関羽が答える。


「この者は、世話になっている関氏の次男です。……実はこの度、我らにお供したいと願い出まして」

「そうか…お主、名は?齢は幾つだ」

「関孟均と申します。齢は十六にございます」

「ふむ、好い漢だな。どうだ雲長? 妻も娶ったことであるし、この者を養子として引き取っては」

「!? しかし…」

「奇遇にも同じ姓であるし、心なしか雰囲気も似通っておる。お主らなら、実の父子以上にもなるだろう。無論、関定殿が承諾すればだが……」


 関羽はぎくりとした。無意識の内に、劉備は血の絆を感じ取ったのだろうか。だが事実は語られることはない。喜んだ関定の再度の申し出により、孟均は関羽の養子となった。


 劉備が張飛に視線を移すと、彼の後ろに控えている玉華に気付く。


「益徳、そちらの娘御は?」

「ああ、こいつは俺の…」


 言いかけた張飛を遮り、玉華が進み出る。誰もが注目する中、劉備に礼を取り、彼女はゆっくりと、力強く言った。


「張益徳の妻にございます」


 この日、玉華の少女時代は終わりを告げた。


これで「張飛の花嫁」はひと段落になります。

そのうち番外編や、いつかは続編もやるかもしれないので完結とは致しません。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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