第四章 猛犬加賀
第一節
ある日の晩です。
先生の一家は、みんなで揃って、夕ご飯を食べていました。
ちょうど食べ終わりそうな頃合いに、外から扉を引っかく音がします。
これは加賀の仕業です。普段は庭にいる加賀ですが、時々中に入れてくれと、こうして催促することがあるのです。
「どうした加賀?」
先生が土間に下りて、扉を開けてやります。
扉が開いて、加賀が入ってきました。
加賀はそのまま、先生の横を通り過ぎます。しっかりと躾けられた加賀は、そのまま居間に上がることはしません。
その代わり、加賀は口にくわえていたお土産を、上り框へと置きました。
「ひえーっ!」
加賀のお土産を見て、先生の奥さんが悲鳴を上げました。
「何だ何だ?」
驚いた先生が、お土産の正体を確かめます。
果たして、それはニワトリの足でした。もちろん、調理はされていない生の足です。引き千切ったばかりなので、血が滴っています。
とうとう、加賀は家畜を襲うようになってしまったのです。
足だけを持ってきた理由は、加賀が普段村人から貰う、見慣れた形だからです、
先生の悪い予感は、こうして的中してしまいました。
この日から、加賀は毎日のように、お土産を持って帰るようになりました。
当たり前ですが、先生の家族は真面目な人たちです。加賀はお土産を持ってくる度に、こっぴどく叱られています。
何故か懲りない加賀ですが、これにはしっかりとした理由がありました。
加賀の頭には、猟での失敗が印象に残っていたのです。そのせいで、飼い主の怒る理由が、加賀には全く分からないのです。
――そうか! もっと沢山欲しいんだな。
そんな加賀が行き着いた結論です。
飼い主に怒られる度、加賀は一生懸命お土産を持って帰ることにしたのです。
第二節
加賀がお土産を運び始めて、何カ月も過ぎました。
「困ったことになったな」
家族の前で、先生がぼやきます。
幸いにも、先生の家族が、村人から責められることはありませんでした。
加賀が家畜を殺す度、先生自身が村人に謝っているからです。そもそも、村人自身が先生の注意を無視したことが、事件の原因です。
しかし、物事には限度というものがあります。毎日謝ってばかりでは、先生の身体が参ってしまいます。
先生が事件を無視できない理由は、もう一つありました。
それは加賀自身のことです。
とっくに子犬時代を過ぎた加賀は、もうすっかり大人の犬です。
とりわけ環境に恵まれて、子供の時からご飯を沢山食べていた加賀です。
その体格は、並みはずれて大きくなっていました。
そんな加賀が、口元を血に染めて帰って来るのです。これは、物凄い迫力です。
「このままだと加賀のやつ、人間を襲いかねないぞ」
先生がそう考えるのも、当然のことです。
「……加賀は、そんなことしないよ」
特に根拠はありませんでしたが、少年が意見します。
少年の勘は当たっていました。動物には容赦のない加賀ですが、人間を噛もうと思ったことは、一度もなかったのです。
ですが、先生には加賀の考えていることは分かりません。
「何かあってからでは遅いだろう」
先生が少年に言い聞かせます。
「でも……」
何か言おうとした少年ですが、言葉に詰まってしまいます。
「分かった」
先生が折れました。そもそも、加賀を飼おうとしたのは先生なのです。
「これ以上酷くならないようなら、加賀を飼っていてもいい。だが、万が一を考えて、加賀の貰い手を捜しておくからな」
先生が、少年に言い含めます。
「……」
少年が黙って頷きました。
そんな飼い主たちの会話を、知ってか知らいでか、庭にいる加賀はグースカと寝息を立てていました。
第三節
少年の期待を裏切って、事件はあっさりと起こります。
その日の朝早く、加賀は村を歩いていました。
――今日は何をして遊ぼうか?
加賀が考えていると、一匹の犬と出会いました。加賀が子供の時から苦手だった、近所の威張ったボス犬です。
――あれ?
久しぶりに会ったボス犬を見て、加賀は首を傾げました。加賀の記憶にあるボス犬よりも、随分としょぼくれて見えたからです。
それもそのはず、加賀はもう大人なのです。
野山を駆け回り、さんざん動物を噛み殺した加賀は、ほとんどオオカミみたいなものです。
対するボス犬は、村の中で威張り散らすだけの、井の中の蛙に過ぎません。
無意識にボス犬を避けていたせいで、加賀は自分の強さに気付いていなかったのです。
――ひょっとして、勝てるんじゃないか?
そう思った加賀は、ボス犬に向かって歯を剥き出します。
自分より強そうになった加賀を見て、ボス犬は怯みました。しかしすぐに、ボス犬も歯を剥き出します。
今まで威張っていたボス犬にも、プライドはあります。
最初に仕掛けたのは、ボス犬の方でした。
加賀の首に噛みつこうと、ボス犬が飛びかかります。首は、多くの生き物にとって急所です。
ボス犬の攻撃を、加賀は頭を振るだけで、あっさりと避けてしまいます。野生の動物に比べて、飼い犬の動きなど高が知れているのです。
ボス犬の顎が、何もない場所を空しく噛みます。
加賀はボス犬の隙を逃しません。
お返しとばかりに、今度は加賀の顎が、ボス犬の首に迫ります。
加賀の狙い通りに、牙がボス犬に刺さりました。
ボス犬は加賀を引き離そうと、必死に身体をよじります。
ですが、加賀の力は物凄く強くて、ボス犬をガッチリ掴んで逃がしません。
加賀が思いっ切り力を込めるとと、ボス犬が宙を舞いました。
ボス犬は抵抗することもできず、ドンと地面へ叩き付けられます。
いつぞやのウサギを思い出して、加賀はボス犬を何度も投げ飛ばしました。
しばらくして、ボス犬はピクリとも動かなくなりました。
第四節
動かなくなったボス犬を、加賀が見下ろします。
――勝った!
加賀は喜びます。
――この気持ち、どこかで……。
初めてウサギを獲った喜びを、加賀は思い出しました。
何か凄いことを成し遂げた犬は、誰かと喜びを分かち合いたくなります。それは、加賀も変わりません。現にその昔、加賀はウサギを飼い主に見せに行きました。喜んだ飼い主の顔を、加賀はよく覚えているのです。
――どうやって飼い主に見せようか?
動かなくなったボス犬を見て、加賀は考えます。
何せ、最近は獲物を持ち帰っても、喜ぶどころか怒る飼い主です。もっとも、それは家畜を殺してしまうからなのですが、犬の加賀にそんなことは分かりません。
考えた末、加賀はボス犬にゆっくりと口を運び――
…――…――…――…
まだ日が高いうちに、加賀が家へ帰ります。
普段は遅くまで遊び呆けている加賀なので、これはとても珍しいことです。
この日は祝日で、先生と少年も家に居ました。
余談ですが、田舎の家は玄関にカギをかけないことがあります。近所付き合いが頻繁で、滅多に泥棒が出ないからです。
もちろん、先生の家も例外ではありません。それどころか、日中は扉を開けっ放しにしています。
加賀が土間に入って来ました。
「またやったか」
お土産を咥えてきた加賀を見て、先生が顔を顰めます。
上り框に、加賀がお土産を置きました。
加賀の顔は、物凄く得意気です。
「うっ!」
お土産を見て、先生の顔が引きつります。
「どうしたの? うわっ!」
少年がやってきて、やっぱり驚きます。
加賀のお土産は、ボス犬の耳だったのです。
最初、加賀は家畜にやっているように、ボス犬の足を千切ろうとしました。
ですが、それは大変な作業です。
そこで、加賀は千切りやすい耳を持って帰ることにしたのです。
今回のお土産には、誰も声を荒げません。
加賀はようやく、飼い主が認めてくれたと思いました。