第一章 加賀
第一節
狩人の村には、一軒の大きな家がありました。
江戸時代には代々庄屋を務めてきた、村一番の名士のお家です。
ちなみに庄屋と言うのは、村で一番偉い、村長さんのようなものです。
もちろん、江戸時代はとっくの昔に終わっているので、今のご主人は庄屋ではありません。
ご主人の仕事は、小学校の校長先生でした。この校長先生、村人から普段は〝先生〟と呼ばれ親しまれています。
今、狩人はその先生の家にいました。
「先生、こいつが例の子犬です」
上がり框に腰掛けながら、狩人が子犬を持ち上げます。
「ほう、いい子犬じゃないか。お前はどう思う?」
ひとしきり感想を言うと、先生は横にいる少年に聞きました。年の頃十歳くらいの少年は、先生の息子です。
「……うん、僕もいいと思う」
子犬をしげしげと見て、少年が言いました。
「よし、是非家に引き取らせてくれ。名前は何と言うのかね?」
先生が決めて、狩人に聞きます。
「いや、実はまだ付けていないのです」
狩人が、少し申し訳なさそうに答えます。
「そいつは困ったな。是非とも考えてやらねば……」
先生と狩人が、頭をひねります。
「……加賀」
大人二人が押し黙ったのを見て、少年が小さな声でボソリと呟きました。
「何だって?」
先生が聞きます。
「加賀がいい」
少年が、今度ははっきりとした声で言いました。
「そいつはいいや! 先生、それでいきましょう」
狩人が少年に合わせます。
〝加賀〟という名前は、この時代出来たばかりの軍艦の名前です。当時は、こういった勇ましい名前を犬に付けることが、少しだけ流行っていたのです。
「よし、それでいこう。今日からお前は〝加賀〟だ!」
先生が、子犬を持ち上げながら命名しました。
子犬はつぶらな瞳で、これから自分の家族となる先生と少年を、不思議そうに見つめていました。
こうして、少し珍しい赤毛の紀州犬〝加賀〟が誕生しました。付け加えておきますと、赤毛というのは、茶色い毛色のことです。
第二節
「こいつ、何を食べるのかな?」
少年が先生に聞きます。この時代に、ドッグフードのような、犬専用の食べ物はありません。
「犬なんてのはな、人間の残り物でもやっとおけばいいんだ」
先生が少年に教えます。
こんな案配で、加賀は人間の残飯を食べることになりました。子犬の間は主にお粥を、成長するにつれて、味噌汁かけご飯と、少しのオカズを食べるようになりました。
ところで、人間の食べ物には、犬には良くない物が沢山あります。
例えば、ネギやタマネギです。これらは、犬が食べると病気になって、ひどい時には死んでしまう場合があるのです。
幸いなことに、少年の家では、そういった危ない野菜を食べさせませんでした。
加賀は運にも恵まれていたのです。
そういう訳で、加賀は病気一つせず、スクスクと成長していきました。
最初の内は、土間で飼われていた加賀でした。
しかし、すぐに狭くなることは明らかです。そこで、先生は加賀のために庭に犬小屋を作ってやりました。加賀は喜んで、その犬小屋で寝起きするようになりました。
第三節
ここで、現代の私たちは、犬をどのようにして飼っているのかを考えてみます。
犬は必ず、紐や鎖で繋がなければいけません。自分の犬が人に噛みついては、大変なことになります。
しばしば私たちは忘れがちなのですが、基本的に犬は猛獣です。その噛む力ときたら、人間の骨などは簡単に砕いてしまいます。
こういった怪我の危険性はもちろんですが、犬が噛みついて人に感染る病気もあります。〝狂犬病〟と呼ばれるこの病気のせいで、昔の日本では沢山の人が亡くなったのです。
狂犬病は、とてつもなく恐ろしい病気です。人間でも犬でも、それこそ他の動物でも、確実に死んでしまう病気です。これは平成の現代でも変わりません。日本以外の国では、沢山の人が命を落としているのです。
日本が特別なのは、予防接種を徹底して、狂犬病の病原菌――ウィルスを追い出したからです。
もちろん、人を噛む犬を作らないことが重要です。
そういう理由で、現代では犬を繋いで飼うことに決まったのです。
でも、加賀の生きていた時代は昔の出来事です。
都会ではともかくとして、田舎に限っては、放し飼いが一般的でした。この時代の飼い犬たちは、自由気ままに外をうろついていたのです。もちろん、加賀もその内の一匹です。
…――…――…――…
さて、犬の成長はあっと言う間です。
最初のうちは、コロコロと丸く小さな加賀でした。
ですが、先生の家に来て一年も経つころには、ほとんど大人の犬と見違えるくらい大きくなっていました。
そんなある日のことです。少年の家族が、先生の帰りを待って、夕ご飯の支度をしていました。
「帰ったぞ」
ガラリと扉を開けて、先生が帰ってきます。
果たして、先生は細長い包みを抱えていました。
「お帰り。あれ? その包みは何?」
先生を出迎えながら、少年が聞きます。
「何って、これは空気銃だよ。加賀も大きくなったしな。明日、鳥でも撃ちに行くぞ。加賀にも言っておけ」
先生が答えて、その日の夜は更けていきました。