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世界へ(仮)

 1.幾何学的なチキンと、ひまわりの送り出し




「……おかしい。肉と骨の構造上、どうしても指が油で汚れるし、軟骨の周りにどうしても可食部が残ってしまう。これは、非常に非効率な設計の食べ物だね」



 アメリカへと出発する数日前、放課後の駅前のケンタッキーフライドチキン。



 一ノいちのせ りつは、見た目は冷めた凡人風の真面目な顔をして、トレイの上のチキンを睨みつけながらブツブツと呟いていた。


 彼の細い指先はすでに油でテカテカだ。


 高校生にして10代の100m世界新記録を叩き出し、世界最高峰の肉体の動かし方は知っているのに、目の前のチキン相手に完全に行き詰まってフリーズしている。


 その姿が可笑しくて、隣に座る同級生の美波みなみは、ちょっと太めの体を揺らしてけらけらと笑った。



「もう、一ノ瀬くんは頭が良いのに本当に不器用だなぁ! 貸してみなさい!」クラスに一人はいる、尖った才能は何もないけれどやたらと明るい女の子。



 美波はナプキンを1枚取り出すと、チキンの両端をきゅっと挟んだ。


「いい? まず、この太い骨の関節をね、こうやってグッとひねるの。



 そうすると、ほら!」すぽん、と綺麗な骨が1本、お肉を傷つけずに抜け落ちる。


「あとは残ったお肉をパクッと食べるだけ。ほら、手も汚れないし、お肉も1ミリも残らないでしょ!」


 美波がふっくらとした頬を膨らませてドヤ顔で綺麗に食べきってみせると、律は、あの小学校の放課後に彼女が二桁の掛け算を解いた時と同じくらい、ものすごい衝撃を受けた顔で愕然と立ち尽くした。



「……幾何学だ。美波さん、君は今、チキンの構造的欠陥をナプキン1枚の摩擦とひねり(トルク)だけで完全に解決した。……僕の知らない食べ方を、君は知っているんだね」



「あはは! 幾何学とか難しいことは分かんないけど、美味しくきれいに食べる方法なら、私の方が一ノ瀬くんより100倍詳しいんだからね!」



 美波はコーラをゴクゴクと飲むと、カバンからパスケットを取り出して、満面の笑顔で律の背中をポンと叩いた。


「よし! これでアメリカに行っても大丈夫だね! 向こうの大きなチキンも、今のやり方でやっつけてきなさい!」



「……うん。実践してみるよ」律は油のついた指をナプキンで丁寧に拭きながら、不器用で、ぎこちないけれど、確かに温かい人間らしい笑顔を浮かべた。


 日本中を騒がせているマスコミの狂騒、彼を「優秀な記号」としてしか見ない大人たちの冷徹な視線。


 そんな檻から解き放たれるように、律は美波の「送り出し」と、彼女が教えてくれた『僕の知らない世界』を胸に抱き、アメリカの超名門大学へと飛び級で渡米したのだった。




 2.檻からの解放と、時差を超えたカップ麺アメリカの地は、律にとって圧倒的な解放の地だった。


 広大なキャンパスでは、誰も律を「腫れ物」のようには扱わなかった。


 何より、趣味で入った芸術サークルでも、専門の物理学の講義でも、陸上部のトラックでも、律の「過去の正解を最速でハッキングし、トレースする才能」は、文字通り異次元だった。


 課題を出されれば瞬時に完璧な解答を出し、絵を描けば数時間で巨匠レベルのキャンバスを仕上げ、トラックを走れば汗一つかかずに大学記録を更新する。



 異世界転生ものの主人公も驚くような、完璧な「おれつえええ」状態。



 けれど、今の律の心は、かつてのように傲慢に冷え切っては居なかった。


 彼には、毎晩の絶対的なルーティンがあったからだ。


「お疲れ一ノ瀬くん! 見せて見て、アメリカのハンバーガーってそんなに大きいの!? 私の顔より大きいじゃん!」



 スマホのビデオ通話の画面の向こう、日本ではお昼休みの美波が、購買で買ってきた焼きそばパンを美味しそうに頬張りながら、けらけらと笑っている。


 時差なんてお構いなしの、いつもと全く変わらない、屈託のないひまわりのような笑顔。


「……うん。大きいよ。大味だけどね」律は画面の美波を見つめ、静かに目を細める。


「美波さん、今日の小テストはどうだった?」



「聞いてよ! なんと、今回は奇跡の42点! 赤点回避だよ! すごいでしょ!」


「それはすごい。僕の大学の、ノーベル賞候補って言われてる量子力学の教授より、今の美波さんの方が世界を驚かせてるよ」



「あはは! 何それ嫌味!? でも一ノ瀬くんに褒められると、なんか本当にすごい気がしてきた!」


 世界中が「世界新記録保持者の一ノ瀬律」を崇める中で、美波だけは「アメリカで難しい顔をしている一ノ瀬くん」として、いつもの距離感で隣にいてくれる。


 どれだけ無双しても、どれだけ称賛されても、律の心が天狗にならないのは、自分を満たしてくれる本当のホームが、日本の、学年最下位だったあの少女の笑顔の中にあると知っていたからだった。



 3.



 0から1のバケモノたち満たされた日々のなかで、律の人生に対する「底なしの退屈」は、純粋な「世界への好奇心」へと姿を変えていった。


 そんなある日、律の世界を優しくひっくり返す出来事が、続々と起こり始める。


 それは、本物の『0から1を作り出すバケモノたち』との遭遇だった。


 始まりは、陸上部だった。シニアの世界選手権の切符をかけた前哨戦。



 隣のレーンに立ったジャマイカ出身の18歳の新星が、号砲とともに文字通りの爆発を見せた。


 律が1コマずつ分析した過去のどの世界記録保持者とも違う、荒々しく、

 非理論的で、しかし圧倒的な肉体の躍動。電光掲示板に刻まれたタイムは――『9.85秒』。


 律が保持していた10代世界記録(9.88秒)が、目の前であっさりと塗り替えられた瞬間だった。


 続いて、大学の講義室。いつも偏屈で、チョークの粉まみれでブツブツと独り言を呟いている初老の数学教授が、ある朝、黒板に狂ったような速度で数式を書き殴った。

 それは、これまでの世界のどの天才も導き出せなかった、全く新しい宇宙の法則を証明する「新数式の発見」だった。



 さらに、図書館のニュース。歴史学の若き准教授が、偶然掘り起こした数片の粘土板から、これまでの歴史教科書を根底からひっくり返すような「古代文明の新解釈」を発表し、学会を震撼させた。


 普通の天才なら、自分の記録を抜かれ、自分の理解を超える天才たちを前に、プライドをへし折られて絶望するかもしれない。


 しかし、今の律の胸に湧き上がったのは、体の芯が震えるような、圧倒的な【尊敬と畏怖】だった。


(凄い……! 僕は、過去の正解を最速でハッキングしてなぞることしかできない。空っぽの箱だ。だけどこの人たちは……暗闇の中に自分で光を灯して、誰も見たことのない『新しい世界』を0から1で生み出している……!)


 かつて美波が教えてくれた、不完全だからこそ他者と繋がれる豊かさ。そして今、目の前のバケモノたちが魅せる、不完全な人間が0から1の奇跡を生み出す瞬間の美しさ。律の脳裏に、美波のあの言葉が鮮烈に蘇った。


『一ノ瀬くん、今までできなかったこととかないの?』


(一ノ瀬。お前の知らないことは、まだ世界に山ほどあるぞ。この人たちの領域を、僕は、何一つとして知らない!)



 4.爽快なる0から1の巡礼、そして世界を揺るがす無双「教わる楽しさ」を知ってしまった神童は、もう誰にも止められなかった。


 律は、見た目は相変わらず覇気のない冷めた凡人風の佇まいのまま、ノートとキャンバスを抱え、世界中のバケモノたちのもとへと歩き出した。



「先生。僕に、その新しい数式の美しさを教えてください。僕の頭のデータには、まだその答えが存在しないんです」


 大学の狭い研究室。世界新記録の天才少年がいきなり現れ、ピきりと直立不動で、純粋な目で頭を下げて教えを乞うてきた。


 偏屈な老教授は最初、呆気にとられたが、律の瞳の奥にある「本物のリスペクト」を察した瞬間、嬉々としてチョークを握り直した。


「いいかい一ノ瀬、この数式の本当の美しさはね――」


 天才である律が、0から1を生み出した本人の「熱量(心)」を直接教わったのだ。


 化学反応は、爆発的だった。


「……なるほど。先生、そのロジックをここに繋げば、さらに先の10次元の計算も1秒で証明できます」


「な、なんと言った!? ……おい、紙だ! 新しい論文の準備をしろ! 歴史が変わるぞ!」


 律の巡礼は、あらゆる分野へと広がっていった。


 考古学の准教授の元へ行っては、新解釈のさらに奥にあるミッシングリンクを、その圧倒的な脳内処理速度で数分で整理し、世紀の大発見へと昇華させた。


 そして、かつて「データの抜け殻」と酷評された彼の美術も、この巡礼の中で完全に覚醒を遂げる。


 趣味の芸術サークルで、現代アートの巨匠に「心で描くとはどういうことか」を貪欲に乞い、世界のバケモノたちの生き様をその目で見つめ続けた律のキャンバスからは、かつての「巨匠の完璧な模倣」が一切消え去っていた。


 代わりに増えていったのは、生きている人間が持つ生命の爆発をそのまま定着させたような、独自の激しい躍動感。


 そして、描かれる人物の誰もが、まるで未来の光を捉えているかのように内側から輝くような瞳。


 データとしての美しさを超え、観る者の魂を震わせる「命そのもの」が、彼の描く絵に宿り始めていたのだ。




 サークルの仲間たちは、彼の新作を見るたびに「この瞳に見つめられると、胸が熱くなる」と息を呑んだ。



 臨んだ陸上のトラックでも、律は自分の記録を抜いたジャマイカの新星のもとへ行き、ぎこちない笑顔で握手を求めた。



「君のバネの動き、本当に素晴らしい。僕に、その風の切り方を教えてほしい」ライバルは不敵に笑い、「俺のスピードについてこれるならな!」と並んで走り出した。


 理論を超えたバケモノの野生。


 それを間近で「教わった」律の肉体は、限界の檻を粉々に破壊した。


 数ヶ月後、世界陸上の舞台。号砲とともに弾け飛んだ律は、もはやゴール前で他者を振り返るような無礼な真似はしなかった。


 ただ純粋に、隣を走る最高のライバルたちへの畏怖とリスペクトを抱き、走る喜びを全身で爆発させた。


 電光掲示板に刻まれたタイムは――『9.69秒』。人類最速記録『9.58秒』の背中が、ハッキリと見える位置まで肉薄する、世界陸上金メダル。


 数学、考古学、芸術、臨んだ陸上。あらゆる分野で同時に歴史を塗り替え、新解釈や世界新記録を次々と叩き出し続ける一ノ瀬律の無双っぷりに、今や世界中のメディアが「彼は地球外生命体か!?」


「二十一世紀最大の天才だ!」と、正気を失ったように大熱狂していた。


 5.エピローグ:



 世界で一番最強なセリフ世界選手権の激闘を終え、数々の偉業を成し遂げた律は、スタジアムの巨大なプレスカンファレンス(記者会見場)の壇上にいた。


 数千人の記者たちが一斉にフラッシュを焚き、世界中に生中継されるマイクが、見た目は冷めた凡人風の青年に向けられる。


「一ノ瀬選手! あなたは陸上で世界を制し、数理学で歴史を動かし、芸術でも頂点に立った! なぜ、これほどあらゆる分野で『完璧な正解』を叩き出し続けることができるのですか!? あなたのその才能の秘密を教えてください!」


 熱狂する世界。大谷選手のような、世界の頂点に立つスーパースターを、神様のように祭り上げようとする大衆の狂騒。


 律はマイクを引き寄せ、世界に向けて、静かに口を開いた。


「特別な秘密はありません。僕はただ、世界中の素晴らしい偉人達たちに、頭を下げて教えを乞うただけです。……たとえば、そうですね」律は真面目な顔のまま、ふっと視線を落として語り始めた。


「先日、私はある彼女から、ケンタッキーのフライドチキンの食べ方が不器用だ、と指摘されました。

 骨の周りにお肉を残してしまう、と。そこで私が『じゃあ、どうすればいい?』と頭を下げて聞くと、彼女はナプキンを一枚使っただけで、一切手を汚すことなく、見事なまでに綺麗にチキンを平らげてみせたのです」



 記者席が、一瞬ぽかんと静まり返る。世界を揺るがす天才の口から、あまりにも庶民的すぎるファストフードの話題が出てくるとは誰も思っていなかったからだ。

 律は、少年のような、悪戯っぽいぎこちない笑顔を浮かべて続けた。


「物理学の定理も、100メートルの効率的な骨盤の動かし方も、ケンタッキーの綺麗な食べ方も、僕にとってはすべて同じ『価値ある知の財産』です。


 私の知らないことを、彼女は知っていた。だからこそ、私はいつもこう答えるようにしています――」



 一ノ瀬律は、世界のカメラを見つめ、彼にとって最も最強で、最も謙虚なセリフを紡いだ。



「私の知らないことは、隣の誰かが知っているかもしれない」



 会場がワンテンポ遅れて、割れんばかりのスタンディングオベーションと大歓声に包まれた。


 テレビの向こうの世界では


「なんて深く、すべての人をリスペクトした名言んだ!」


「その彼女って一体誰だ!?」と大騒ぎの嵐が巻き起こる。


 けれど、律にとっての「世界一の先生」は、今頃日本の実家でテレビを見ながら


「あはは! 一ノ瀬くん、会見でケンタッキーの話してる! ウケる!」とお腹を抱えて大爆爆笑している、あのちょっと太めの、学年最下位だった女の子だけだった。



 控室に戻った律は、ネクタイを緩めながらスマホを取り出した。世界を揺るがす天才の顔から、完全に「優秀な記号」の仮面が外れ、ただの一人の男の子の顔に戻る。


 彼はいつものように、日本のひまわりへ向けて、メッセージを打ち込んだ。


『美波さん。今日も世界には、僕の知らない面白いことがいっぱいあったよ。でも――』



 感謝の意味で送った絵画。そこには自宅で書いたぎこちない自分は居なかった。


 相変わらず屈託なく笑う彼女の横で知的好奇心に目覚めた少年のキラキラした目が特徴の絵が・・




 その後二人の関係がどうなったかは神のみが知る






 画面の文字を見つめながら、律はフッと嬉しそうに笑う。


 完璧な神童の檻を完全に抜け出し、世界一謙虚で、世界一最強になった少年は、心の中で静かに、あの熱いオマージュの言葉を付け足した。


(――俺は、俺よりすごい奴に会いに行く。だから、次の放課後も、僕に君の世界をたくさん教えてね)


 新しく始まった彼の人生の旅路は、まだまだ、どこまでも、楽しそうに続いていくのだった。


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