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1(突き抜ける神童と、まぶしい最下位)

 一ノいちのせ りつは、幼い頃から「突き抜ける」ことだけを選択して生きてきた。



 家では隠す必要のないありのままの自分でリラックスし、学校ではより目立つことにした。

 冷徹な両親から毎日のように「周りのレベルが低すぎる」と言われ続けて育った律は、自然と周囲を見下すようになっていた。



 しかし、律の「見下す」は、冷酷な孤立ではなく「圧倒的な親切」という形をとった。

「周りのレベルが低い。ならば、自分がすべてを導いてやればいい」

 勉強が分からなければ優しく教えた。

 楽器が苦手な子が音を外せば完璧な運命の弾き方を教えた。


 運動が苦手な子が走れなければ、効率的な骨盤の動かし方を一緒に実践した。

 指導者側に回った時の律はどこまでも丁寧だったが、その脳裏には常に、純粋な疑問が浮かんでいた。(なぜ、こんな簡単なことができないんだろう? なぜ、分からないんだろう?)


 悪意のない、才能の残酷さ。クラスメイトたちは律を神様のように崇めながらも、その不気味な完璧さに一線を引いた。


「あいつは、特別だから――」いつしか学校全体にそんな空気が漂い、律の周りには絶対的な「溝」が完成していった。


 そんな小学校の日常の中で、律にはどうしても理解できない存在がいた。


 同級生の美波みなみだ。彼女は勉強もスポーツも音楽も、何もかもが学年最下位に近い女の子だった。


 普通なら劣等感に押しつぶされそうなものなのに、美波はなぜか、いつも驚くほど明るかった。


 逆上がりができずに鉄棒から泥の中に落ちても、テストで一桁の点数を取って先生に呆れられても、彼女は「あはは、また失敗しちゃった!」と屈託のない笑顔で笑っていた。


 律にはそれが、不思議で仕方がなかった。


(何もできないのに、どうしてそんなに楽しそうに笑えるんだ? 彼女の頭の中はどうなっているんだろう)



 2(二桁の掛け算と、空っぽの欠落)



 小学校の終わり際、律はそんな美波に勉強を教えることになった。


 二桁の掛け算すら怪しかった彼女に、律は数日間、根気強く効率的な解法を教え続けた。



 そしてある日、美波はついに自力で正解を導き出した。



「できた……! できたよ、一ノ瀬くん!」その瞬間、美波が浮かべた笑顔を、律は一生忘れることができなかった。



 裏も表もない、100%純粋な、ひまわりのような笑顔。


「お父さんとお母さんにも、すっごく褒めてもらったんだ!」と、彼女は飛び上がって喜んだ。



 律は、愕然とした。


(これが……両親の言っていた『レベルが低い』ということなのか?)



 それまで律にとって「レベルが低い」とは、単に能力の数値が低いこと、見下す対象を意味していた。


 しかし違った。彼女たちは、二桁の掛け算ができるようになっただけで、親に褒められただけで、あんなにも世界がひっくり返ったように喜べる。


 なんて単純で、小さくて、低い次元の幸福。――なのに、どうしてあんなに眩しいのだろう。



 疑問を解消したくて、律は普段勉強を教えている他の生徒たちに、自覚のないまま聞いてしまった。


「ねえ、できないことができるようになるって、どんな感じ?」


 質問された子供たちは引きつった笑みを浮かべ、気まずそうに目を逸らした。


「え……? 何言ってるの一ノ瀬くん。嫌味?」誰も悪くない、前提の決定的なズレ。


 溝はさらに深まっていく。律は諦めず、あの最下位の美波にも同じ質問を投げかけた。


 すると美波は、不思議そうに首を傾げて、予想外のカウンターを返してきたのだ。


「え? 嬉しいし、楽しいじゃん! ……っていうか一ノ瀬くん、できなかったこととかないの?」


 その一言が、神童の心臓をダイレクトに貫いた。


 できないこと? 自分に、できないこと?自問自答の末に、律の脳裏に浮かび上がった答えは、あまりにも切ない欠落だった。


(……僕は、褒められたことがない)何でも最初からできて当たり前だった。)


 親からも教師からも、成果への「評価」や「感嘆」はされても、存在そのものを無条件に全肯定されるような、あの美波のような「本物の褒め言葉」を、一度ももらったことがなかったのだ。


 自分には「できないこと」がないせいで、「褒められて心から喜ぶ」という人間の最も温かい経験が一生できない。


「なら、もっと高いレベルで突き抜ければいい」普通に100点を取っても誰も驚かないなら、世界中の誰もが認めざるを得ない偉業を成し遂げれば、あの本物の祝福が手に入るはずだ。


 その日を境に、律の目的は「本物の賞賛を得るための執念」へと変わった。



 3(データの抜け殻)


 しかし、唯一、彼が小学生時代にいいも悪いも言われなかった科目があった。


「美術」だ。数字のような正解がない世界。


 両親からも「絵なんか描いてもしょうがないでしょ」と切り捨てられていた。


 だからこそ、そこは誰のコントロールも及ばない聖域に見えた。


 律は美術部に入ると、周囲の「好きに描きなさい」というアドバイスを無視し、世界の巨匠たちのタッチを完璧にトレースし始めた。


 ダ・ヴィンチ、ゴッホ、ピカソ。技法をデータとしてハッキングし、完璧に組み合わせた。


 満を持して、全国規模のコンクールに出品した。結果は――落選。誰にも認められなかった。


「自分の絵を描きなさい」と教師は言った。律のロジックは破綻しかけた。


(線を引いて、色をつけて、その配置の美しさのスコアを競うゲームじゃないのか? 自分って何だ? 0から1を生み出すって、どういうことだ?)


 訳が分からなくなった律は、放課後の部室で、真っ白なキャンバスをじっと見つめた。



 そして、初めて脳のブレーキを壊し、目を閉じ、意味のないままに筆を書き殴った。形はめちゃくちゃ。色はバラバラ。




 目を開けて出来上がったものを見た律は、愕然とした。ひいき目に見ても、「ピカソみたいな、何か」だった。



(ヤケクソで本能のままに描いたのに……結局、僕の脳にある過去の模倣にしかならない。僕は、人生で一度も、何かを0から生み出したことなんてないんだ)



 数学も、スポーツも、音楽も、すべて最初に答えがあることの最適解をなぞってきただけ。



「自分」なんて、最初から空っぽの箱だったのだ。


「なら、美術なんて曖昧なものはもういい」


 律の思考は、より単純明快な、数字がすべてを証明する絶対的な世界――陸上へと傾いていった。



 4(孤高の9.88秒と、マスコミの狂騒)



 高校生になった律の走りは、文字通りの化け物だった。



 世界記録保持者のフォームを1コマずつ分析し、自分の肉体で完璧にトレースした。


 汗もかかず、息も乱さず、他者を寄せ付けない無音の檻のまま、律は夏のインターハイ――全国大会の決勝に立っていた。



 ――号砲。爆音とともに弾け飛んだ律の加速は、文字通り異次元だった。



 ゴールまで残り20メートル。そこで律は、あろうことか、トップスピードを維持したまま「首を横に傾け、他のレーンを振り返る」という、圧倒的な余裕を見せつけた。誰も、追いついてきていない。自分の背中に指先ひとつ触れさせてもらえない現実。律はそのまま独走状態で、静かにゴールを駆け抜けた。電光掲示板に刻まれたタイムは『9.88』。



 スタジオが、地鳴りのような大歓声に包まれる。


 狂熱するメディアのカメラが一斉に律を取り囲み、フラッシュの嵐が彼の乾いた瞳を照らした。



 マイクを向けられた律は、レンズの向こうの世界を見つめ、低く、冷たく、言い放った。


「敗北を知りたい――。だから俺は、俺より速いやつに会いに行く」その一言は、日本中のメディアを狂わせた。


 翌日からのマスコミの過熱ぶりは異常だった。



 テレビの特集番組では、律が出品して落選したというあの小学生時代の絵が映し出され、マスコミは当時律を落選させた審査員の一人である、高名な老画家へのインタビューを放映していた。


『なぜ一ノ瀬律のあの完璧な絵を落選させたのか、ですか? 決まっている。あれは絵ではない。ただの「データの抜け殻」だ。技術は完璧だが、あの絵には「描き手の心」が欠片もない。過去の正解を最速で繋ぎ合わせただけの、空っぽな機械の複写コピーだよ』続いて番組のナレーションが、さらに世間を驚愕させる事実を読み上げる。


『しかし世間の熱狂は止まりません! 何より驚くべきは、一ノ瀬選手が陸上を始めたのは高校に入学してからということ! 美術での挫折を経て、競技歴わずか1年10ヶ月という段階で、彼は世界の壁をぶち破る9.88秒を叩き出したのです!』


(……違う。僕はただ、過去の正解を最速でダウンロードしただけだ)


 自宅のソファで、消音ミュートにしたテレビ画面を見つめながら、律は自嘲気味に口元を歪めた。


 画面の向こうでは、冷徹な両親が澄ました顔で自分たちの教育を誇り、教師たちは実績を自慢し、陰で律を敬遠していた陸上部の仲間たちが「最高の戦友」を演じて涙ぐんでいる。


 彼らは一ノ瀬律の実績をもてはやしているが、律の「中身の空っぽさ」や、彼が抱える悲痛な飢えなど、ただの一人も見ようとはしなかった。


「僕がどれだけ突き抜けても、世界は僕を『優秀な記号』としてしか処理してくれない」


 世界一のタイムを出しても、あの最下位だった少女がもらったような「心の底からの本当の笑顔」は、どこを探しても手に入らない。


 そんな、人生に対する底なしの退屈と諦めに支配されながら、律が独り、駅前の雑踏を歩いている時だった。


「久しぶりー、一ノ瀬くん! 相変わらず凄いね!」テレビの狂騒など届かない場所から、あの美波が、昔とまったく変わらない無邪気さで、律の前にフラリと現れた。




 5(君にないもの、僕の孤独)



「『敗北を知りたい』って言葉、アニメ以外で初めて聞いたよ」


 美波はけらけらと笑う。


 世界中が彼を叩くか神格化する中、彼女だけは、昔律に二桁の掛け算を教えてもらった時のままの距離感で隣に立った。



 そして、夕日に照らされながら、誇らしげに胸を張った。


「でもね、一ノ瀬くん。君にないものを、私はもってるよ?」



 律の思考が、ピきりと止まった。すべてを手に入れたはずの自分に「ないもの」を、何もできなかったはずの彼女が持っている?


「……何、それ」「教わること! 頭を下げること! あと、謝ること! これに関しては、私に敵うやつはこの世にいないからね! あ、あとさ、『ありがとう』って言った回数も、絶対に一ノ瀬君より私の方が多いぞ?」――教わること。頭を下げること。謝ること。ありがとう。


 律の頭の中で、すべてのロジックがゲシュタルト崩壊を起こした。


 完璧すぎた自分は、誰かに教わる必要も、頭を下げる必要も、謝る必要もなかった。


 他者に依存をしないから、心からの「ありがとう」を口にする機会もなかった。



 美波が誇ったのは、律が「レベルが低い」と切り捨てていた【不完全さ】の中にしか存在しない、人間が他者と本当に繋がるための、圧倒的な心の豊かさだった。言葉の意味は分かる。


 けれど、脳が理解を拒む。(なんだこれ……。これが、僕にできないことの、正体なのか……?


 )世界一の天才が、生まれて初めて完全にフリーズし、呆然と立ち尽くしている。


 そんな律の顔を見て、美波は「あはは!」と大笑いすると、彼の細い手首をぐいと引っ張った。


「ほら、試合終わったばっかでしょ? 難しい顔してないで、今から一緒に遊びに行こう?」



 6(本当のエピローグ:『私はもう孤独じゃない』)


 訳が分からないまま連れて行かれたのは、放課後のハンバーガーショップだった。



 そこには美波の友人たちが集まっていた。彼らは律の「9.8秒」に驚きながらも、すぐにたわいもない話題で脱線していく。


「さっきカラオケで歌った美波の歌、マジでヤバかったよね」


「駅裏のクレープ屋の裏メニュー、めっちゃ美味しいんだよ!」


 彼らは、律が一度も関心を持たなかった「どうでもいいこと」について、まるで世界の一大事のように熱く語り、笑い合っている。


 律の「9.8秒」という偉業は、そこではただの「ひとつの個性」として当たり前のように溶けていた。


 誰も彼を、腫れ物のような「特別な化け物」としては扱わなかった。


 夜になり、駅前で友人たちと別れ、美波と二人きりになった。


 街灯の下、美波は律の顔を覗き込み、いつもの笑顔で言った。


「どうだった? 一ノ瀬くん、知らない世界、いーっぱい知れたんじゃない?」


「……あ」


 その瞬間、律の胸の奥で、何かが静かに破裂した。


 世界のあらゆる正解を知り尽くした気になっていた。


 けれど、彼らが持っている「くだらなくて、愛おしい、無数の世界」を、自分はただの1つも知らなかった。



 そして律は、人生で初めて、本当の意味で気がついてしまった。


(ああ、僕は……ずっと、孤独だったんだ)



 完璧な檻の中で、誰とも繋がらず、ただ一人で数字だけを追いかけていた。


 込み上げてきたのは、絶望ではなく、胸が痛くなるほどの静かな感動だった。



 自分が「空っぽの孤独」だったと知ったからこそ、目の前にいる美波の眩しさが、初めて律の心を満たしていく。


「……うん。知らなかった。僕に、教えてほしい。……君たちの世界を」



 美波は驚いたように一瞬だけ目を見開き、それから、これまでで一番優しい笑顔を咲かせた。



「うん! いいよ、いっぱい教えてあげる。……じゃあ、まずは明日の放課後ね!」



 その日の夜。律は自室の机に向かっていた。何となく、本当に何となく、感情の赴くままに絵が描きたくなったのだ。



 これまでのように巨匠のタッチを思い出すことはしなかった。



 完璧な比率も、色彩のハッキングデータも、脳の引き出しから一切引っ張り出さなかった。


 ただ、胸の奥から溢れてくるあの夕暮れの眩しさと、自分のぎこちない心の震えだけを筆に乗せる。



 気がつけば、夜が明けていた。朝日が差し込む部屋で、キャンバスに定着していたのは、ひいき目に見ても年相応――いや、少しつたないくらいの絵だった。けれど、そこには確かに「命」が宿っていた。



 描かれていたのは、屈託のない笑顔で笑う一人の女の子。そして、その隣で、どう笑っていいか分からずに、少しだけぎこちない笑顔を浮かべている「私」の姿だった。律は筆を置き、そのキャンバスの隅に、小さくタイトルを書き込んだ。



 ――『私はもう孤独じゃない』完璧な神童の檻から抜け出した少年は、ついに、世界でたった一つの「自分の絵(0から1)」を描き上げたのだった。




(終わり)


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