1 プロローグ
――その日、いつものように空は青く晴れ渡っていた。
王国でも数少ない公爵位を持つアーヴィング家の大豪邸にて。
敷地内にある庭園で、二人の男女が向かい合ってお茶をしていた。
腰まで伸びたブロンドの髪の毛に、透き通る海のように美しい青い瞳をした少女は、ふぅと息を吐いて口を開いた。
「――婚約破棄の件、承りました」
「……何だと?」
ホルブルック公爵家の令息、ヴァージルは思わず眉をひそめた。
目の前で紅茶の入ったティーカップを手に微笑んでいるのは、彼の婚約者のマーガレット・アーヴィング公女である。
アーヴィング家は、王国内でも屈指の名門公爵家である。王国の東に大きな領土を所有し、莫大な富と権力を持ち合わせている。
大恋愛の末に貴賤結婚をしたことで有名な公爵夫妻と、美しい二人の娘。マーガレットはアーヴィング家の長女だった。
「……冗談を言って俺の気を引こうとしているのか?」
「いいえ、ヴァージル様。冗談ではありませんわ」
何を考えているのかわからない、青い瞳が切なげに伏せられた。
マーガレットは社交界の華と呼ばれるほどに美しい女性だ。そんな彼女の哀愁漂う表情を前に、平然としていられる男などこの世には存在しない。
ヴァージルは揺れ動きそうな気持ちを抑えつけながら、何とか平然を装って尋ねた。
「ならばなぜ、突然婚約破棄を受け入れたんだ?ずっと拒否していただろう」
「……」
――マーガレットとの婚約破棄は、ヴァージルがずっと前から望んでいたことだった。
ホルブルック公爵家の令息ヴァージルと、アーヴィング公爵家の令嬢マーガレットの婚約は二人が八歳の頃に決められたものだった。
貴族の間では特に珍しいことでもない、政略結婚だ。
マーガレットは美しく、聡明で誰にでも優しい少女だった。
ヴァージルは初めて見たときから彼女のことを気に入り、婚約者となった二人の仲は良好だった。
マーガレットもヴァージルも、このまま穏やかな夫婦関係を築いていけるだろうと確信していた。
――しかし、そんな日常は突然変化した。
十五歳になり、マーガレットと共に王立アカデミーへ入学したヴァージルはある少女と出会った。
――メリーベル・コックス男爵令嬢。
ストロベリーブロンドの髪に、大きくて真ん丸な瞳を持ち合わせた可愛らしい少女だった。潤んだ瞳と華奢な体が庇護欲をそそる、誰から見ても可愛い女の子。
ヴァージルはマーガレットと違って天真爛漫でどこか放っておけない彼女に、あっという間に虜になった。
二人が思いを通わせるようになるまで時間はかからず、アカデミーでは人目も憚らずに堂々と逢瀬をした。
マーガレットはそんなヴァージルに気付いていながらも、何も言わなかった。
ヴァージルはメリーベルに本気でのめり込み、マーガレットとの婚約破棄を望むようになった。
しかし、マーガレットは拒否し続けた。この国では不貞をした側からの婚約破棄を強行することはできないため、二人の婚約は継続された。
その間もヴァージルとメリーベルは別れることなく、まるで恋人同士のように振舞い続けた。
彼は何が何でもマーガレットとの婚約を破棄しようと奔走した。両親は彼の真剣な恋を応援してくれているし、彼女さえ首を縦に振れば何の問題もなく婚約は破棄される。
ヴァージルは既に、両親である公爵夫妻にメリーベルを紹介していた。
愛想が良く、明るい彼女を両親はすぐに気に入ったようだった。
彼は家族総出でアーヴィング家との繋がりを断とうと尽力していた。二人の婚約は政略的なものだから、当然そう簡単にはいかないと覚悟していた。
しかし、アカデミーを卒業するまであと一ヵ月となった今日、マーガレットが突然婚約破棄を受け入れた。
彼女は疑うように見つめるヴァージルを、何の感情も宿さない瞳で見つめ返した。
「愛のない結婚が悲しいだけだと、ようやく気付いたのです」
「……そうか、俺の気持ちをわかってくれて何よりだ」
今日のこの茶会の時間も、彼にとっては憂鬱でたまらなかった。
マーガレットと過ごすくらいなら、メリーベルの元へ行きたかった。しかし、彼女がどうしてもと言うので仕方なく時間を作ったのだ。
「婚約を破棄する代わりに、私の頼みを一つだけ聞いていただけませんか」
「……何だ?」
婚約破棄の慰謝料でも求めるつもりか。メリーベルと一緒になれるのなら、そんなもの痛くも痒くもなかった。
しかし、ヴァージルの予想に反し、彼女は意外なことを口にした。
「――最後に一度だけ、私を愛してくれませんか?」
***
――運命はとても残酷で、神なんてものはこの世に存在しない。
彼女――マーガレット・アーヴィングは幼い頃から常にそのような考えを抱いて生きてきた。
マーガレットはアーヴィング公爵家の令嬢ではあるものの、彼女が公爵令嬢となった経緯はかなり複雑だった。
一部の近しい者しか知らないことではあるが、彼女と三つ下の妹は実は腹違いの姉妹だった。
しかし、父であるアーヴィング公爵は離婚歴があるわけでもなく、今の夫人をとても大切にする愛妻家で有名だ。
なら、彼女の母親は一体誰なのか。
――アーヴィング公爵には、今の夫人と出会う前に許嫁がいた。
高位貴族の令嬢だった彼女との間に愛はなく、政略的な婚約だった。
そんな愛のない婚約関係の中で、彼は真に愛する女性――後に妻となる夫人と出会った。
彼女に本気になった公爵は、一方的に許嫁との婚約を破棄した。
厳格な家の出身だった許嫁は、婚約破棄をきっかけに両親から絶縁され、平民となった。
――彼女が公爵の子を妊娠していたことに気が付いたのは、その後だった。
婚約中に酒に酔った彼が彼女に手を出し、身籠った子。
彼女は頼る人も誰もいない中で、貧しいながらにも生まれた子を育てた。
――その子がまさに、マーガレットだったのだ。
その後母親が不慮の事故で亡くなり、彼女は父親のいるアーヴィング公爵家に引き取られることとなった。
初めて公爵邸へ来たときから、三人は完璧な家族だった。
誰から見ても仲睦まじく、マーガレットの入る隙なんてどこにもなかった。
父も義母も異母妹も。誰一人として、マーガレットを視界に入れることすらしない。
ただアーヴィング家の血を引いているから仕方なく引き取っただけで、家族としては扱わない。
『どうしてあんな汚らわしい子を引き取らないといけないのよ……!あの女の実家に押し付ければいいでしょう!?』
『落ち着いてくれ、ちょうどホルブルック家から婚約の打診が来ていたんだ。大事な娘をやるわけにはいかないだろう?ちょうどいいじゃないか、マーガレットをホルブルック家の令息と婚約させよう』
彼らの輝かしい世界に、自分はあまりにも相応しくなかった。
そのことを悟ったのは、たった六歳のときだった。
***
ヴァージルとの最後の茶会から遡ること二日、マーガレットは目立たない服に着替え、ある場所を訪れていた。
王都に位置するアルマード王立病院。王国最大級と言われるその病院は、選ばれた名医たちのみが勤務できる、医者志望たちにとって憧れの場所だった。
その診察室にて、マーガレットはソワソワしながら診察結果を待っていた。
「……先生、私の容態はどうなのでしょうか?」
「……マーガレット」
診察室にある椅子に座って彼女と向かい合っていたのは、かかりつけ医であるセオドア・サーストンだった。
黒い髪に黒い瞳の彼は、若くして功績を挙げ、国王陛下から直々に表彰されるほどの名医だった。
白衣姿のセオドアは、マーガレットを前に浮かない顔をしていた。
その表情からして、彼女は今から言われることをある程度予想できた。
「――君の余命は、もってあと半年だ」
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