第18章 マルシカの下水道
闇の中で蠢くのは、獣ではない。
それは、人が遺した“業”の残響。
腐敗は形を変え、再び世界を蝕む――
湿った石壁を伝い、水が流れる音が響いていた。
鼻をつく悪臭――カビ、錆、そして言葉にしたくない何かが混ざっている。
ジョンは即席の松明を手に、不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「……最高だな。俺たちの初任務が、よりによって下水掃除かよ。」
蹴った石がどす黒い水に沈み、プチャッと嫌な音を立てた。
チップは鼻先に布を巻きつけ、神経質に杖を握っていた。
「ぼ、ボクは由緒正しい商人なんだぞ! こんなの仕事じゃない! ボクの蹄は黄金の道を歩くためにあるんだ!」
ニーナは数歩先を歩き、青白い光球を幾つも浮かべていた。
光は水たまりに反射し、幻想的な模様を描く。
「黄金の道は存在しません。統計的に、ミルジョネにおける金属舗装道路は0.003%未満です。」
――皮肉を言っている自覚は、ないようだ。
サミは腕を組み、微笑を浮かべながら後ろを歩いていた。
「腹を慣らしておけ。大半の冒険者はこの任務で音を上げる。」
「最高の励ましだな。ありがとよ。」ジョンはため息をつく。「あとは“巨大ネズミ”が出てくれば完璧だな。」
「……正確には、ネズミじゃない。」とサミが片眉を上げた。
次の瞬間、金属を引きずるような音が前方から響いた。
ニーナが光を強めると、壁には腐食した印と、乾いた赤黒い染み――血の跡のようなものが浮かび上がる。
チップが唾を飲み込む。
「ジョ、ジョン……何か、生きてる……。」
「お前の腹の音だろ。」ジョンは短剣を抜く。「集中しろ。来るなら、ギルドの実戦テストだ。」
冷たい風がトンネルを抜け、松明が消えた。
一瞬、世界が静寂に包まれる。
サミが小さく笑った。
「……マルシカの下水は、歓迎が激しいな。」
粘ついた音が沈黙を破る。
ズルッ……ヌチュ……ヌチュ……
半透明の塊が左の通路から這い出してきた。
内部では骨や金属片がゆっくりと浮かんでいる。
チップが青ざめて後退した。
「ど、毒性スライム……Dクラスだ! 鎧だって溶かすぞ!」
ジョンは短剣を構え、苦笑した。
「最高だな。今度は溶けて終わりか。」
その時、反対のトンネルから低く唸る声が響く。
闇の中から現れたのは、濡れた毛と赤い目をした巨大なネズミ。
その体格はイノシシ並みだった。
「で、でかすぎだろ!? 自然界のバグかよ!」
スライムが触手を伸ばし、空気を切り裂く。
ネズミが咆哮し、飛びかかる。牙が肉塊を噛み砕き、煙と毒気が立ちこめた。
「戦ってる……?」ジョンが呟く。
「縄張り争いだ。」サミは冷静に言った。「地下の自然な摂理だ。一方が生き残り、もう一方は“取り込まれる”。」
やがてネズミがスライムの核を噛み砕き、どろりと溶かす。
静寂。
だが、赤い目がゆっくりとこちらを向いた。
チップが青ざめた。
「や、やばい……次はボクたちか……!?」
サミは腕を組み、口元を歪めた。
「その通り。ギルドの“実技試験”だ。」
「上等だ。」ジョンが息を整える。「やってやろうじゃねぇか。」
ネズミが跳ねた。戦闘が始まる。
⸻
咆哮。
水しぶき。
ジョンの剣が金属音を立てて弾かれる。
「嘘だろ、こいつ装甲持ちか!?」
サミは遠くで観察していた。
「反応は悪くない。だが、力の流れが乱れている。オーラと魔力を同期させろ。」
ジョンは呼吸を整え、手に魔力を集中。青い光が刃を包む。
「行くぞッ!」
チップが杖を突き上げる。
「大地よ、固まれっ!」
石の壁が立ち上がり、爪撃を防ぐ。
ジョンはその隙に滑り込み、後脚を斬り裂いた。
悲鳴。
ニーナの指先から青い雷が走る。
「電流安定。放出。」
雷光がネズミを貫き、巨体が痙攣して倒れた。
静寂。
「し、死ぬかと思った……!」チップが叫ぶ。
「“思った”だけか。背景の飾りにしか見えなかったぞ。」ジョンがからかう。
ニーナは死骸を解析していた。
「腐食性マナの残滓を検出。環境汚染による進化の可能性。」
「そうだな。」サミが頷く。「マルシカの下水はマナが淀んでいる。ネズミでさえ変異する。」
ジョンは剣を拭い、ため息をつく。
「ってことは、まだ序章か。」
サミが笑う。
「“王”に会えばわかるさ。」
「……王!?」チップが悲鳴を上げる。
ニーナは興味深そうに瞬きした。
「ネズミにも階級制が存在するとは、興味深いですね。」
「お前の研究対象になるくらいには厄介だな……。」ジョンがぼやく。
サミが前を向く。
「行くぞ。本番はこれからだ。」
ネズミの死骸がゆっくりと溶けていく。
ジョンが息を整えたその時、ニーナが首を傾げた。
「異常エネルギーの反応……接近中。」
金属音が響く。
カン……カン……
闇の中から、黒いローブを纏った人影が現れた。
その歩みは重く、空気を歪めるようだった。
ローブの人物は死骸の前で立ち止まり、低い声を漏らす。
「……我が創造物を……壊したな。」
チップが震え上がる。
「そ、それって……あのネズミのこと!?」
フードの奥で赤い瞳が光った。
「“主”はお怒りになるだろう。汚染は理想的だったのに……貴様らが、全てを台無しにした。」
空気が重くなり、水面が泡立つ。
ジョンは剣を構えたが、体が動かない――魂を圧迫するような圧。
サミが一歩前に出て、低く呟いた。
「……A.K.R.A……まさか……。」
フードの男は沈黙したままサミを見つめた。
そして一歩後退し、重く響く声で告げる。
「“終焉の担い手”は、まだ生きていると伝えろ。」
黒い霧が一瞬で体を包み込み、跡形もなく消えた。
残ったのは、悪臭と、遠くで流れる水の音だけだった。
沈黙。
チップが唾を飲み込む。
「い、今の……誰だよ……?」
ニーナは空気を分析しながら答える。
「非人間的存在。AIの痕跡あり……しかし、腐敗している。」
ジョンは剣を収め、眉をひそめた。
「誰であろうと……俺たちのことを知ってやがる。」
サミはしばらく黙って闇を見つめ、静かに呟いた。
「……面倒なことになりそうだ。」
チップ「……あのネズミ、ただの“普通のネズミ”って言ったよね!?」
ジョン「言った。」
チップ「“普通”!? じゃあ、異常なのは何!? 料理するドラゴンとか!?」
ジョン「上手く味付けできるなら、悪くないな。」
ニナ「地理分析を継続中。進捗は二〇%、残り約八〇%です。」
チップ「えぇぇっ!? じゃあ、これ全部まだ序盤だったの!?」
ジョン「まあ、まだ何もヤバいの出てきてないしな。」
サミ(小さく笑いながら)「……“まだ”な。」
チップ「その“まだ”って言い方やめてぇぇ!!」
(沈黙)
チップ「なぁ、サミ……さっき“アクラ”って言ってたけど、どうして知ってるの?」
サミ(真剣な表情で)「……長い話だ。」
(間をおいて)
「だが、知りたければ――やつらはお前を追い、口を塞ぐだろう。」
チップ(青ざめて)「……やっぱり知らなくていいや。」
ジョン「つまり、あの黒いやつは……」
サミ「ここを出たら話そう。今は――任務に集中しろ。」
(足音が遠ざかる)
暗い下水道の奥で、水音が静かに反響する。
どこかで、金属のような音が響いた――まるで、深淵が目を覚ますかのように。
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第19章 『マルシカの下水道・第2部』




