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歩いてみる。
するとさも歩いているかのように歩けている。
そこに何の不備もなく、特別なことは何もない。
視界は移ろい、足は気怠く、歩くことに必要な全ての感覚で、歩く自らを知覚していた。
いつまでもこうして間抜けな問答や検証を繰り返すべくもないのだろう。
これは紛れもなく何の工夫もない『今』だった。
それでも疑問は我関せずと氾濫している。
確かめなくてはいけない事は多い。
中でも今特に重要なのは、全てはかつてのまま、なにも変わっていないこの世界なのか。ということだった。
私が居なかった数年間、この世界は時を止めていたのか、それとも地続きで存在していたのか。
それによっては私に押し当てられるこの世界での価値も、大きく変わってしまうのではないか。
辺りを見渡すと、愚直に考え込んで気付かないでいた私をよそに、朝日は既に半身を乗り出そうというところだった。
麦の稲穂に反射した煌めきが、湖面にまた写し返されては風に揺らいでいた。
馴染みの鳥達は今日も不満げな表情で、足を水面から突き出た止まり木に添わせている。
霧がかった遠方は光も影も混ざって満ちて隙間なく淡く、それが近くになれば色付いた葉も水も途端に何処までも紅く蒼く鮮やかで、逆光に身を落とす影は全てを飲み込むように黒々と黒かった。
ただ忘我と寄り添い、息を呑んだ。
そしてそこにはさしもの私でさえそこに加わっても、その神秘性の欠片も損なわれない様な、人間と矛盾しない違和感ない違和感があった。
「私が作ったから?」
思わず口をついた。
しかし余りにも真実在とした自然的自然美に、それでも感動を禁じ得ないのは、私がもたらしたこの世界が、おそらくあの時のままではなかったためだ。
光景の中に、答えは与えられていた。
私の記憶に眠るこの場所でさえ、むかしここまで美しくはなかった。
細部を見ていくと、かつてなかった風車が遠目に幾つか出来ており、山間には新しい民家がちらほらと建ち並んでいる。
あの頃痩せていた山には果実を実らせた木々が肥えて、倒木を避ける添え木がそれぞれに施されていた。
それらは人工物にも関わらず自然と溶け込んで、壊すでもなく支えるでもなく、目を心を凝らさなくては分からないくらいに、元々からそうあったようにそこにあった。
一方で昔あった家屋や石垣の一部は役目を終え、無くなったり、崩れるものは崩れるままになって、そしてそれはそうある必要があるかのように、それもまた周囲に溶け込んで気付くのに容易くなかった。
全てのものが、全てのものの動きが、こうあるべきと私の思うがままになぞられて、そこに収まっている。
そしてその時間も物質も空間も普遍的に、不可逆的に流動していた。
それら全ては単に造形的に美しいのでなく、そのものの持つ機能を研ぎ澄ませて伝えた結果の、調和そのものの美しさのように思えた。
しかし立ち還ればそういったことは私の杞憂で、ここは変わったと言えどさしたる変化ではなく、その流動こそ、私に顕著なものなのかもしれない。
また、その実、そのどちらでもあったかもしれない。