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しかしいつからだったか、私はその城にあまり出入りしなくなっていた。
私の中で何が変わったか、果たして定かではない。
ただ私も就職して、意識と無意識の境が明確になっていた。
あの城に赴いていた頃、私は何故だか心臓の鼓動を気味悪く感じるような事が多くあった。「私という形の生き物」が、自身の意識とは裏腹に勝手に生きていることが、私には果てしない恐怖だった。
「私」が今ここにこうしてこうあるという厳然とした今こそに、違和感を感じて仕方がなかった。
そして遂には、私は耳を澄ませば、思考すらそうあるように思えていた。
私の中には恐らく理解という皮膚の下、意図という筋繊維の下、そこに骨格たる幼子の私が居て、自身の意思とは無関係に時折駄々を捏ねている。
特に消極的な思考の発生と繰り返しは、まるで昨日の愚かな私が仕込んだ目覚ましのスヌーズのように、沸き起こっては繰り返され、それはそれを自覚して尚、私の意図とは反目して私を苦しめるのだろうと。
こうしたことから当時の私は、正常な意識というのは、元々の命そのものの機能とは切り離された、持つべき無意識というものが前提にある、極めて敷居の高いものだと思っていた。
それは私からすると疎ましい、『正常な麻痺』のようにも思えていた。
繊細な私の心には堪え兼ねるような痛ましいニュースが、食事時のお茶の間に平然と流れている事が私には恐怖で、同時に憧れそのものでもあった。
私は、自身はその正常な麻痺を引き起こす麻酔が切れてしまったからこそ、こんなにも自身という存在を、私たちという人間そのものを薄気味悪く感じているのだと、内心自分自身を哀れんでいた。
私は一抹でも、そう思うことで救われていたには違いなく、それはつまりただ単に、私が傲慢であっただけなのかもしれない。
とにかく、城を離れたのは私の意識にはいつからであったか、明確にはない。
ただいつの間にか視力が低下するように、成人した私と社会の距離が近くにつれて、城は遠くぼやけて見えるようになった。
そして気付けばいつしか、行きたくとも辿り着かないようになってしまったのだ。