第十五話 夜の音
――真夜中。
フィオナはふと、目を覚ました。
旅の疲れからぐっすり眠れると思っていたのに、胸の奥のモヤモヤとした気分が晴れない。
寝台からゆっくりと身を起こす。
枕元に置かれているのは、姉から送られてきた金色の指輪であった。月明かりを反射し、指輪はきらりと光る。
月の光を追うように、窓から外を覗いてみる。
よく手入れされた植え込みの側で、背の高い人影がひとり、空を見上げているのが見えた。
フィオナは少しの間、その姿を眺めていたが、やがて思い切ったように、扉へと足を向けた。
***
「エイトさん」
「おや、フィオナさん。こんばんは」
「目が覚めてしまって、外を見たらエイトさんが見えたので――眠れないのですか?」
エイトは笑いながら、首を左右に振る。
「夜の町を眺めていたのですよ。長らく峠の宿屋にいたもので、町を眺めるなんて久しぶりですから」
「夜の町、ですか?」
「ええ」
エイトは再び、前方へと目を向ける。
あれは、市場から平民区のあたりだろうか。
暗く沈んだ夜の底で、いくつかの街灯や篝火の明かりが揺れているのが見えた。
「私は灯りを見るのが好きなのです。灯火は、人がそこで暮らしている証ですから」
フィオナは隣を見上げる。
町へと向けられたエイトの瞳は穏やかで、緑色の瞳が慈しむように揺れていた。
「あの、エイトさん」
「はい?」
フィオナの顔へと視線を移し、エイトが微笑む。
「今――私からはどんな音がしていますか?」
フィオナは笑っていなかった。
固く結んだ唇、うつむいた顔――握りしめた拳は震えていた。
エイトは少し驚いたようにフィオナを見つめていた。
だが、やがて小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開く。
「――畏れと、不安。自分自身に対する怒りと悔しさ。それと――」
エイトは言葉を切った。
ぎゅっと目をつぶったフィオナに、次の言葉が優しく響く。
「――願い、ですかね」
「え?」
思わずフィオナが顔を上げる。月明りの下、エイトの優しい笑顔と目が合った。
「フィオナさんは、我々のことが怖いのですね」
フィオナは再びうつむくと、小さく頷いた。
「私にとって燕屋の皆さまは、最初はただの宿屋でした。でも――」
フィオナは両手を胸元でぎゅっと握り合わせ、震える声で先を続ける。
「ユナさんが私の髪飾りから姉のことを言い当てたこと、ノインさんが聖女を目指す私に諭してくださったこと、皆様がカイル様を助けるために戦ってくださったこと……アヴァリア領までの旅路でも、美味しい食事と楽しいお話は尽きませんでしたわ」
フィオナはゆっくりと顔を上げる。
水色の瞳には、涙が揺れていた。
「これまで一緒にいて、私は皆さんのことが大好きになりました! それは本当なんです! それは、本当の事――でも……」
「……大丈夫。ゆっくりでいいから、最後まで聞かせてください」
エイトの優しい声が低く響く。
涙が一粒、フィオナの頬を転がり落ちた。
「――エイトさんがあのとき炎蜥蜴に放った一撃――あの短銃は懐ではなく『胸から引き出した』ように見えました」
絞り出すように、言葉が落ちた。
夜風が通り過ぎていく。
風が髪を揺らし、涙を散らす。
「他にも、エイトさんの感情を『聞く』力も、ユナさんの『シグナ』――鑑定能力も、ノインさんが人語を話せることも……『渡りの者』は皆そうなのかもしれませんが、皆さんの力はすべて、私の常識をはるかに超えています」
震える唇で、フィオナは言う。心のうちのもやもやを、ひとつずつ言葉に変えていく。
「……フィオナさんは、『渡りの者』が好きではない――いえ、許せないのですね」
エイトが言うと、フィオナは素直に頷いた。
「名も知らぬ『渡りの聖女』――その人が現れたおかげで姉は聖女になれず、その地で死んだと聞かされました。異世界から来たというだけで強い力をもっていて、懸命に努力を続けた姉はあっさり掃き出されてしまった……!『渡り』の存在には、私たちの存在意義を軽々しく踏みつけにされたような気がしてしまうのです」
ぽろぽろと、すべらかな両頬を涙がこぼれ落ちていく。
エイトはそんなフィオナの前にしゃがみ込むと、ただ優しく微笑んで、何度も頷くのだった。
「……私、私は……皆さんのことが大好きで、恐ろしくて、とても憎いのです……」
ごめんなさい、ごめんなさいと何度も繰り返すフィオナの肩に、やがてあたたかな手のひらが触れた。
「よく、話してくれました」
ぐす、と鼻をすすり上げ、フィオナは恐る恐る顔を上げる。
そこには、変わらぬエイトの微笑みがあった。
「きっとお姉さんの小箱を開けたことで、抑えていた気持ちが溢れてしまったのでしょう。でも良かった、話してくれて」
「え?」
「今の想いを私に聞かせてくれた――それはあなたが、我々のことを『知りたい』と望んでいるからでしょう?」
「……知り、たい?」
エイトは頷くとにっこり笑った。
「怖いのは、知らないから。畏れは未知からやってきます。受け入れるには、まず知ること――知識と知恵は、未知の畏れを振り払う唯一の方法です」
そう言って、エイトはすっくと立ち上がると、空を見上げた。
暗い空にも、一面の星。
そして、穏やかな月が浮かんでいた。
「他の『渡りの者』がどういう存在かは、私たちも存じ上げません。ですが我々は、確かにこの世界の方々とは異なる力を持っています」
フィオナは黙ったまま、エイトの横顔を見つめている。
「ユナさんは『刻名士』――物に名前と使命を与える能力者です。私は――」
そこで言葉を止めると、ふいにエイトが振り返る。
フィオナが首をかしげると、エイトは肩をすくめ、参ったといった様子で笑った。
「――あのとき銃を胸から引き出したことを、まさか見抜かれていたとは思いませんでした。フィオナさんも、なかなかやりますね」
その様子に、フィオナも思わず小さく笑う。
エイトは頷くと、再び口を開いた。
「私は『葬言士』。心の言葉を聞いたり、行き場を失った言葉たちを遣い、武器とする能力を持っています。そして――」
エイトはフィオナをまっすぐに見つめた。
「――私とノインは、ユナさんの『シグナ』。名前と使命を受け取った、命なき意思の姿です」
フィオナは大きく目を見開く。
言葉が――何も言葉が出てこない。
ただ息を止めて、目の前のエイトを見つめていた。




